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甘く焦がれる香り
仕事を終えて帰宅すると、料理のいい香りがふわりと漂ってくる。
仕事で手の回らない部分をずっと埋めてくれている彼には頭が上がらないなと思いながら「ただいま」と言えば、スリッパの軽い足音と共に名取 がキッチンの方から顔を出した。
「おかえり」
「エプロンしてる。まだ料理中だった? ごめん、邪魔して」
「いや……外すタイミングを失ってた」
「そうなんだ?」
外すタイミングを失っていた、とは。
名取の言葉をうまく理解できなくて思っていたよりも疲労していたのかな、なんて違うことを考えてしまった。多分、料理をしながら何か他のこともしていたんだろう。
ぼうっと突っ立ったままの俺をしばし見つめ、それでも動かないと分かると、くるりと踵を返して一歩踏み出した。その時、知らない香りが名取からしたような気がして、思わず腕を掴んで引き留めてしまう。
「……宇都峰 ?」
不思議そうな声をあげた彼のことなどお構いなしに首元に顔を近付けて息を吸い込んだ。それがすぐに分かったのだろう、名取は驚いたようにびくりと身体を震わせて強張らせる。
やっぱり、知らない香りがする。甘くて、お砂糖を焦がしたみたいな香りだ。
「……香水、変えた?」
「は……?」
名取の腕を掴む手に少し力がこもる。いつも彼が好んで使う香水とはまったく違う甘い香りに酷く心を揺さぶられてしまったのだ。それでも俺には名取を縛る権利なんてないと、頭の中では理解していた。
随分頼りなくて小さい声だったけれど、耳のすぐそばで喋ったから簡単に拾い上げたのだろう。額を彼の首元にそっと押し付け、せめて自分の知る香りが残っていないかともう一度息を吸い込むけれど、結局甘い香りがするだけだった。
それが優しい甘さをしているのだから余計に気分が暗くなる。
「ずいぶん可愛い香りだね」
「ああ、お菓子焼いてた」
「……お菓子?」
「明日。ハロウィンだろ」
「そう、だったっけ」
そうだよ、早く来い。そう言いながら名取は掴まれている腕をゆるく引っ張って歩き出した。
導かれるままに名取の後ろをついていく。見慣れた部屋の間取りを一つ一つ進んでいけば、だんだんとさっき嗅いだような香りがしてくるような気がして。
それからすぐに彼の背後から覗き込むようにして、リビングのテーブルいっぱいに並べられた焼き菓子たちと対面した。
「ついさっきまで換気してたから、部屋の匂いはだいぶマシになってんだけど。俺の方は気にしてなかったな」
「こ、こんなに……沢山焼いたんだね」
「朝からな」
「えっ、んぐ」
マドレーヌを摘まんだ名取は俺が無防備に開けた口へ押し込んできた。優しい甘さとバターの香りが広がって口元が勝手に緩んでいくのが分かる。美味しい。ごめんとかありがとうとか、他にも沢山伝えたいことはあったはずなのに、マドレーヌの優しい甘さでそれらが溶けてなくなっていった。
彼にそんな意図があるかは分からないけれど、なんていうか、変なことを考えないようにさせられたような気がする。
「ん、うまい」
「……おいしい」
「そりゃ何より」
「もしかして、当日はこのお菓子を貰えるってこと?」
「まあ」
「……それはそれとして」
「あ?」
「悪戯はしちゃ駄目なの?」
前を向いたままの名取が言葉に詰まるのが分かった。それから少しの沈黙があって、絞り出すように「お菓子渡すんだぞ……」とどこか恨めしさのある声が返ってくる。もちろん分かっている。だからそれはそれとして、と伝えたのだから。うん、と短く返せばまた名取は黙ってしまった。
「好きにしろバカ」
呆れ交じりではあったけれどその声はとても優しいもので、許してくれたことにとてつもなく嬉しくなる。それでいて何でもない風を装っている名取が可愛らしくて、にやける口元を押さえて隠した。
視線を少し落とせば髪の隙間から覗いている耳がほんのりと赤く色づいているのが見える。マドレーヌをもう一つ食べたいと言えば、さっきと同じように振り向いてくれるだろうか。きっと勝手に食えと突き放されてしまうんだろうなと容易に分かってしまった。
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