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遭遇(2)

執務室に戻ったヴィクターは、扉を閉めた途端、椅子に沈み込んで深く息を吐いた。ほんの刹那、王としての仮面が外れ、額を押さえる。 ――初めての感覚だった。 これまでの稚児たちは誰もが、怯え、泣き、ただ従うばかり。だがクラリスは違う。痛みに耐えながらも、その瞳には共に在ろうとする意志が宿っていた。まるで、我を満たすことを選び取ったかのように。 胸の奥で、言葉にできないざわめきが渦巻く。支配する側であるはずの自分が、逆に心を揺さぶられた――。 (この青年は、我をくすぐる……) 思い出すのは、熱を帯びた唇の感触。口づけに応えたその吐息。我を喜ばせようと汗を浮かべた顔……。 今頃、クラリスはどうしているのか。果たして我を思い出してくれているのか。 残されたのは、ただ与えた痕跡ばかり。吐き出す者の宿命か、我の内には何ひとつ残っていない。それが、これほどまでに物足りなく感じるとは――。 不意にノックが聞こえた。ヴィクターは姿勢を正し、仮面をかぶり直す。扉が開く頃には、すでに威厳ある王の貌へと戻っていた。 * 次の日は雨が降っていた。こんな日は外へ視察に行くこともできないのだろう。朝からヴィクターに抱きたいと言われ、クラリスはネグリジェを脱がされていた。鎖を付けられようとした時、廊下から鋭い怒声が響く。 「陛下、どうして俺を抱いてくれないのですか!?」 傍仕えの兵士たちが顔を見合わせる中、クラリスは裸のまま廊下へ飛び出した。すぐに慌ただしく追いかける足音が続く。 そこにいたのは、困り顔のヴィクターと、人間の騎士だった。身なりが豪奢で、その装飾は位の高さを物語っている。 長身で鍛え抜かれた体。短く整えられた漆黒の髪。その隙間から覗く切れ長の瞳は鋭く光り、一方で湿った影が潜んでいる。整った頬や口元には、少年の面差しがまだ残っていた。 「ジョナサン……おまえはもう立派な男だ。稚児ではない」 ヴィクターの声は冷淡で、突き放すようだった。ジョナサンは唇を噛み、かすかに顔を歪める。 次の瞬間、ヴィクターの視線がクラリスに移る。裸のまま立つ姿を見つけると、目を輝かせて駆け寄ってきた。 「おお、我を待てずに裸のまま迎えてくれたのか。嬉しいぞ」 クラリスは抱きすくめられ、唇を重ねられる。ふとジョナサンと目が合った。その瞳が真っ直ぐ自分を射抜き、嫉妬と悔しさの色を帯びて揺れる。まるで、居場所を奪ったことを責めるかのように。だが、ヴィクターがこれ以上相手にしないと悟ると、未練を飲み込むように廊下の奥へと消えていった。 「あの方は誰ですか?」 クラリスが尋ねると、ヴィクターは一瞬その表情を硬くした。 「おまえには関係のないことだ」 そう言うと、獲物を抱えるように抱き上げ、寝室の中へと入っていった。 * 雨は夜になっても降り続いていた。雨音だけが、ベッド以外は何もないこの部屋を包む。さすがにこの時間になるとヴィクターは来ないだろう。クラリスが眠りにつこうとした、その時だった。 扉の外で何やら揉め事が起こっているようだった。やがて、沈黙の後でノックもされずに扉が開く。姿を現したのはジョナサンだった。 「ジョナサン殿、勝手に入られては困る!」 傍仕えの兵士が制したが、ジョナサンは構わずにクラリスへ近づく。そして、顎を強く掴んだ。事態が飲み込めず、クラリスはぼんやりとジョナサンを見つめるだけ。わずかにため息が落ちる。 「俺は……昔、おまえの立場だった」 その言葉に、クラリスは目を瞬かせる。 「かつて、あの方の寵愛を受けていた。子どもの頃は、それがすべてだった。あの方のためなら何でもできたし、何でもした」 そこでジョナサンは言葉を切る。その表情は苦悩に満ちていた。 「だが……飽きられてしまえば、部下の一人に過ぎない。それが現実だ」 唇が引き結ばれ、僅かな苦笑が浮かんだ。 「おまえは、まだその寵愛の中にいる。……羨ましいよ」 ジョナサンの手が離れる。クラリスはそれ以上、何もされなかったことに安堵した。 「長くは続かない。それだけは覚えておけ」 そう言い残すと、ジョナサンは踵を返して部屋を出ていった。傍仕えの兵士が、“勝手に部外者を入れるな!”と部屋の外にいる見張りの兵士を叱る。 ジョナサンの言葉に、クラリスは胸がざわつくのを感じた。稚児としての自分を否定したくて、ここまで来たはずなのに、明日は我が身だと思うと一抹の不安が過る。一体どうしてしまったのだろう。思いがけない自分の変化に、クラリスはただ戸惑うばかりだった。 * 山賊のアジトでは、クラリスが身に着けていたペンダントを前にして、重苦しい空気に包まれていた。艶やかな金属の輝きはどこか冷たく、主を失ったその存在は痛々しかった。 持ち帰った子分によると、城の兵士から投げつけられたという。しかも、細い革紐には一枚の紙が結びつけられていた。“クラリスは我の稚児になった” 挑発とも宣告ともつかぬ一文。 「……ふざけやがって」 低く唸ったエルネストの目が、憤怒で燃える。床を握りこぶしで叩きつけて立ち上がった。 「旦那! どこへ行くんですか」 セイドが慌てて腕を掴む。 「決まってるだろ。クラリスを取り返しに行く!」 その声には迷いがなかった。だが、セイドは必死に押しとどめる。 「どうやって?」 「ベルネアに乗って、真っ先にヴィクターの喉笛を切り裂いてやる」 「たった一人で行くつもりですか?」 エルネストは冷たい笑みを浮かべた。 「どうせ、おまえらは従わねぇだろ。……構わねぇ、俺は死ぬ覚悟だ」 強がる言葉とは裏腹に、体は震えていた。頭目として多くの命を背負う立場が、その衝動を押さえつけようとする。 「エルネスト様……クラリスの兄貴は、きっと無事です。信じましょう」 ティアの声が背後から届く。 「俺に、黙って待てと言うのか……?」 その呟きとともに、エルネストの瞳から大粒の涙がこぼれ始めた。止めようもなく、熱い滴が頬を伝い、床に落ちる。ペンダントは何も言わず、ただ冷たく沈黙していた。

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