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接近(1)

「クラリス殿……本当に、その格好で図書室へ行かれるのですか?」 傍仕えの兵士が、廊下を小走りでついていきながら恐るおそる尋ねてくる。すでに辺りは暗くなり、廊下には道しるべの灯りがぼんやりと光っていた。他に人影は見えない。 「貴方が本を間違えるからいけないのです」 クラリスは淡々と答えた。歩みを進めるたびにネグリジェの裾が揺れ、冷たい金属の感触が足首を撫でる。ジャラリ、と錘を引きずる音が、静まり返った廊下に大きく響いた。 囚われの身のクラリスに許されている自由は、読書だけだった。文字を読むのは得意ではない。けれども、図鑑の挿絵を眺めているだけで、少しは満たされた。 それなのに、この兵士は何度頼んでも違う本を持ってくる。今日だけでも三度。待っている時間がもったいないし、次こそ正しい本が来る保証もない。 「急ぎましょう」 そう言いながらも、錘の重みが歩みを鈍らせる。一歩ごとに鎖が鳴り、その度に足首に痛みが走った。普通なら数分で着く距離も、息が少しずつ上がっていく。やっと見えてきた図書室の引き戸からは、橙色の灯りが漏れていた。 「……灯りがついていますね」 兵士の言葉にクラリスは足を止める。こんな時間に誰がいるのか。警戒しながら、引き戸をゆっくり開けた。 「誰かね」 低く落ち着いた声が室内から響く。聞き覚えのある声だった。 「ロボアール様……」 現れたのは、城の長老で魔法使いのロボアール。背筋を伸ばし、長い衣をまとったその姿は、ただ立っているだけで空気を引き締めた。 切れ長の目は魔力の光を宿し、見据えた者の心を試すように鋭い。象牙色にくすんだ二本の角は、長い年月を生きた重みを物語っていた。白髪が背に流れ、灯火に照らされて微かに煌めく。 「クラリス、こんなところで何をしておる」 怪訝そうな声に、クラリスは臆することなく答えた。 「読みたい本を探しに来たのです」 「申し訳ございません。私が本を間違えてしまいまして……」 慌てて兵士が言葉を添えると、ロボアールは深いため息を漏らした。 「こんなところを陛下に見つかったら、儂が叱られるのじゃ。早く立ち去れ」 そう促されても、探している本はまだ手に入れていない。 その時―― 「ロボアール、どうしたのですか?」 奥から、幼さの残る声が響いた。 「何でもございません。そのままでお待ちを」 ロボアールが制止するより早く、声の主が姿を現す。漆黒の髪を肩口まで無造作に流し、額からは若い鬼特有の滑らかな質感を残した二本の角がまっすぐ伸びている。鍛えられた体はしなやかで、力強さの中に俊敏さも感じさせた。 深い闇色の双眸は鋭さを秘めながらも、底に温かな光を湛えている。微かに笑みを浮かべたその顔は、警戒心を解くほどの柔らかさがあった。クラリスはその若者が誰なのか、言われなくても分かった。 鬼の若者は、ネグリジェ姿のクラリスを見てハッと息を飲む。 「ステファン様、見てはなりませぬ。背を向けてくだされ」 ロボアールが慌てて促す。だが、ステファンの視線はクラリスに釘付けになったまま離れない。クラリスはあいまいに微笑んでみせる。その瞬間、夜の図書室の空気が、わずかに熱を帯びたように感じられた。 「おまえたちも、早く立ち去るのじゃ」 ロボアールは追い払うように手を振る。だが、クラリスは諦めきれずに、もう一歩図書室へ足を踏み入れた。その動きを察して、ステファンが口を開く。 「本をお探しなのでしょう? 僕が手伝います」 「ステファン様!」 ロボアールが低く制する声を放つが、若い鬼は気にも留めず、まっすぐクラリスのもとへ歩み寄った。鎖の音が静かな室内で響きわたり、クラリスの存在がいやでも際立つ。 「何をお探しですか」 差し出された手は、思ったよりも温かだった。クラリスはわずかにためらいながらも、本の題を告げる。 ステファンは頷き、近くの棚を指した。 「それなら、こちらです……あった。これですね?」 差し出された一冊は、まさしく探していた本だった。 「ありがとう。助かったよ」 口をついて出た言葉に、ロボアールが鋭い視線を向ける。 「王子ですぞ。口の利き方に気をつけなされ」 それをステファンが手で制した。 「貴方のことは父からうかがっています。いつかは僕の右腕になると」 思いがけない言葉に、クラリスは目を瞬かせた。それは光栄であると同時に、抜け出せぬ鎖の匂いがした。 ロボアールの顔色が変わる。 「陛下は、何を考えておられるのじゃ」 ステファンは気にする様子もなく、笑顔を崩さない。けれども、その顔には疲れの色も見えた。 「こんな夜遅くまで大変ですね。体に気をつけてください」 クラリスが気遣わしげに声をかけると、ステファンは嬉しそうな表情を浮かべた。まるで 自分に味方ができたかのように。 ロボアールが咳払いをする。 「用が済んだのなら、早く立ち去れ。……陛下には、城内を勝手に歩かせぬよう進言しておこう」 それ以上留まれば不利になると悟り、クラリスは本を抱えて踵を返す。背後に残したステファンの顔は、なぜか寂しそうに見えた。 部屋へ戻る廊下は、行きよりも長く感じられた。足枷の錘が、先ほどよりも重たく思える。その間、傍仕えの兵士が、耳打ちのようにステファンの素性を教えてくた。 ヴィクターの一粒種。後継者。母親は幼少の頃に亡くなって、乳母に育てられている。昼は武芸を、夜はロボアールの指導で学問を修めていた。 だが、狩りの獲物にとどめを刺せないほど、優しすぎるのだという。それは、母親譲りでもあった。父と比べられ、弱さを指摘される日々――それが、この若き王子の現実だった。 クラリスはただ、小さく息を吐いた。優しさが武器にならない国もある。それをよく知っている自分が、この城の奥に閉じ込められていた。

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