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転機(1)

「クラリスよ。最前線に出て戦ってみないか」 いくつかの季節が通り過ぎて、山賊に戻るのをすっかり諦めていた頃。抱き合った後で、ヴィクターは何か思いついたような口調で言った。 クラリスの脳裏にジョナサンの姿が過る。“長くは続かない。それだけは覚えておけ”……苦悩に満ちた表情で口にした言葉が、耳の中でこだました。 「……私に飽きたのですね」 それなら却って都合が良かった。これでやっとエルネストたちの元へ帰れる。だが、ヴィクターはクラリスを組み敷くと耳元で囁いた。 「そうは言っておらぬ。おまえは今でも我の宝だ」 「では、なぜ……」 クラリスの顔がヴィクターの両手に包まれる。そして、息が止まるほどの口づけをされた。どこか苦悩に満ちた表情。 「我はおまえの力を借りたいのだ……」 * クラリスは謁見の間へと足を踏み入れた。久々にシャツとズボンを纏い、身が引き締まる思いがした。足枷も外れている。けれども、見張りの兵士が近くにいるのは相変わらずだった。 玉座にはヴィクターが腰掛け、片肘をかけてじっとこちらを見ている。いつもの好色ではなく、真剣な顔つき。それは、かつて戦いで対峙した時の威厳ある表情を思い出させた。 その左右には、腕を組んだジョナサンと、杖を携えたロボアールが控えている。中央に広げられた地図の上には、駒や札が置かれ、戦の匂いが濃く漂っていた。 「来い。クラリス」 ヴィクターは低く響く声で呼びかけ、指先で地図の一角を示した。そこは鬼の国と敵国の境。遮るものがない広大な平地だ。 「ここに、我らが欲する鉱脈が眠っている。魔具を作るのに欠かせぬ希少鉱石だ」 鋭い双眸がクラリスを射抜く。 「だが今、その地を敵どもが押さえている。さらに──我が血を引く裏切り者を匿い、返還を拒んでいるのだ」 声が一段と低くなる。 「交渉は決裂した。次は力で奪うほかあるまい」 クラリスは唇を結び、視線を地図に落とした。遮蔽物のない平地での突撃は、死地に飛び込むも同然。だが、ヴィクターには揺るぎない自信があった。 「鬼族の騎兵は強力だが、敵陣の奥まで一気に切り込むには重くて鈍い。だが──おまえは違う」 その視線がまっすぐクラリスに注がれる。 「小柄で軽く、馬で駆ければ矢の雨を抜けられる。魔法で敵を攪乱し、指揮官の首を取れ」 ジョナサンが思わず口を開く。 「陛下、それは無茶です。この者は馬を操ることさえできません。まして……」 ヴィクターが片手を上げ、言葉を遮った。 「ジョナサン、おまえが馬を操れ。騎乗の間、クラリスを守り抜くのだ」 その一言に、ジョナサンの顔が強張る。 「……承知いたしました」 服従とは裏腹に、その瞳の奥には複雑な色が宿っていた。 ロボアールが一歩前に出て、渋い声で進言する。 「陛下。我が国を襲撃した者を戦へ送り出すなど前代未聞。失敗すれば、鬼の威信が傷つきますぞ」 「失敗は許さぬ。だからこそ、おまえが教育しろ。最大限の魔法を発揮できるようにな」 ロボアールは眉間の皺を深くし、それ以上の反論を飲み込んだ。 その時、謁見の間の扉がわずかに開き、若い声が響いた。 「──なぜ。そんな危険なことをクラリスに!」 全員が振り向く。そこには、まだ少年の面影を残したステファンが立っていた。闇色の瞳は怒りと動揺で滲んでいる。 「僕も一緒に行きます!」 ヴィクターの視線が冷たく息子を射抜いた。 「下がれ。若造が」 短く一蹴されても、ステファンはその場を動こうとしない。その顔はクラリスに向けられる。揺るぎない真剣さが宿っていた。 「……無事に戻ってきてください」 これまで謁見の間に響いたどの言葉よりもまっすぐに届く。だが、ヴィクターが鋭く睨むと、ステファンは唇を噛み、悔しげに扉の向こうへ消えた。 ヴィクターは何事も無かったかのように玉座にもたれ、クラリスに向き直る。その声には大きな期待がこめられていた。 「生きて帰れ、クラリス。それが一人前の証だ」 そして口端を吊り上げ、低く告げた。 「……もし、我が助けることになれば──おまえはずっと稚児のままだぞ」 謁見の間に沈黙が落ちた。クラリスは深く息を吸い込み、ただ「承知しました」とだけ答えた。 本当に敵を全滅できるかは分からない。けれども、これは“稚児”から“戦士”へと脱却できる、またとない機会だった。逃げれば、二度とこの扉は開かない。引き受けるしかないだろう。それで命を落とすのなら本望だ。 「戦は一週間後だ。それまでにクラリスを仕上げておけ。……ロボアール、ジョナサン、任せたぞ」 それだけ言い残して、ヴィクターは玉座を離れる。傍仕えの兵士たちが列をなし、彼の後を追った。残されたクラリスは、ロボアールとジョナサンと顔を見合わせる。 「ずっと怠けていた体を、一週間で仕上げろとは……陛下も無茶を言う」 ロボアールは深いため息をつき、眉間に皺を刻む。 「まったくだ。あの方の考えていることは理解できない」 ジョナサンも低く吐き捨てるように呟き、視線を逸らした。 このままでは、匙を投げられてしまう。クラリスは一歩前に進み、膝をついた。 「私は覚悟ができております。どうか、鍛え上げてください」 二人の表情がわずかに動く。無謀な戦いに挑む若者に心を打たれたようだった。 「……仕方あるまい。だが、容赦はせんぞ」 ロボアールの声音は低く、厳しさが滲む。 「甘えも情けも、戦場では死を招くだけ。俺のしごきは、地獄と呼ばれているのだ」 ジョナサンは、試すように問いかけてくる。それでもクラリスは動じない。 「……どうぞ、お好きなように」

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