10 / 39
転機(2)
翌朝、まだ陽が昇りきらぬ城の訓練場。クラリスは簡易な訓練服を纏って立っていた。冷たい空気の中、霜を踏みしめる足音が響く。魔封じの腕輪も枷も外されて、完全に自由の身だ。それでも、見張りの兵士が囲んでいて、少しでも異常な行動を取ろうとするものならば、すぐにでも斬られんばかりだった。
「よし、始めるぞ」
ジョナサンが短く告げる。その手には、鍛え抜かれた騎士だけが使いこなせる長柄の馬上槍。
「まずは馬だ。……乗れ」
クラリスは言われるまま鞍に跨がるが、二人乗りの後ろは想像以上に不安定で、馬が一歩踏み出すたびに視界が大きく揺れた。
「腰を落とせ。もっと……そうだ、肩を俺に預けろ」
背中から響く声。次の瞬間、馬が石を踏んだ衝撃で体が傾き、危うく落ちかける。
「この程度で落ちるなら、戦場じゃ首が飛ぶぞ!」
叱責が冷たく胸を刺す。
午前中はひたすら馬と呼吸を合わせる練習。昼になると、今度はロボアールが待っていた。
「──詠唱!」
クラリスは息を整え、雷の呪文を唱える。しかし、それは指先で霧散するだけだった。呆然として手のひらを見つめる。ずいぶん久しぶりとはいえ、こんなに鈍っていたとは思いもしなかった。
「集中が甘い。力を一点に集めよ」
ロボアールは杖を振り上げ、足元の土を炸裂させる。冷たい土塊が頬をかすめた。
「本当の戦ではこうなる。次は失敗するな」
夕方になっても体力づくりが課せられていた。錘のついた枷を嵌められたまま走ったり、腕立て伏せをしたり、腹筋したり。容赦のない指示が飛び、筋肉が焼けるように悲鳴を上げる。それでも、クラリスは歯を食いしばって耐え続けた。
すべては一人前の戦士になるため。稚児から脱却するため。それだけが心の支えだった。
*
一週間は、瞬く間に過ぎた。陽光に照らされたクラリスは、すでに初日の無様さを欠片も残していなかった。
「行くぞ!」
ジョナサンの駆け声と同時に、馬が地を蹴る。クラリスは揺れる鞍の上で腰を落とし、両足で馬腹を挟む。背中からの合図を感じ、左手を肩に添えてバランスをとると、右手に魔力を集めた。
雷が一直線に標的を貫き、火花と共に弾け飛ぶ。ジョナサンがわずかに目を見開いたのを、クラリスは背中越しに感じた。
「……やるじゃないか」
短く呟かれたその声に、初めてほんのりと温かさが混じった。
「次は防御じゃ」
ロボアールが前に出て、杖を振る。無数の小石が矢のように飛んでくる。クラリスは息を詰め、瞬時に魔力を盾の形に凝縮させた。石はすべて弾かれ、地に落ちた。
「ふむ……戦場で死ぬ確率は半分に減ったな」
言葉は辛辣だが、その口元にはかすかな笑みが浮かんでいた。
既に、クラリスは山賊として野山を駆け巡っていた頃の体力を取り戻していた。錘のついた枷を嵌められても走れるし、腕立て伏せも腹筋も余裕でこなせた。
訓練を終えた後、夜空を見上げる。明日ですべてが決まる。そして──生きて戻れたなら、もう誰にも稚児扱いはさせない。
そう決意しても、心の奥が微かに揺れる。戦士になった自分を、ヴィクターはもう必要としないのではないか。その証拠に、訓練が始まってから、一度も顔を見せに来なくなった。
もしかすると、眠っている間に部屋を訪れていたのかもしれない。その気配を感じ取れないほど、クラリスは疲れで深く眠り込んでいた。
一週間も誰かに抱かれないのは、山賊のアジトに連れられて以来、初めてだった。それがまるで禁断症状のように、身体の奥で疼きを生む。自分は、これほどまでに誰かのぬくもりに依存していたのか。
このまま、ヴィクターに背を向けられたら、自分はどうなるのだろう。ジョナサンのように、愛情を乞い続ける存在になってしまうのか。
その時、ジョナサンの声が背後から響いた。
「……明日は、うまくいくといいな」
「え、ええ……」
我に返った声は少し上ずっていた。
「なんだ。怖いのか?」
からかうような響きに、クラリスは首を横に振る。
そうだ。これは鬼の国の命運を懸けた戦い。くだらぬ不安に囚われている場合ではない。
「……私は、やり遂げてみせます」
その言葉は、力強く訓練場に響き、やがて静寂に溶けていった。
ともだちにシェアしよう!

