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初陣(1)
夜明け前の城は、張りつめた空気に支配されていた。銅鑼の重い音が、霧を裂くように響き渡る。兵士たちは城門前に整列し、槍の先が鈍色の空を突き上げていた。
クラリスは深紅の戦闘服をまとい、ゆっくりと歩み出る。胸当てと腕当てには鬼族の家紋が金糸で縫い取られ、腰には短剣と魔法袋。黒い乗馬ズボンと革の長靴を履き、赤いマントを羽織る。普段の儚げな姿はもうなかった。
「……立派なものだ」
ヴィクターが感慨深げに目を細める。その声はどこか誇らしげでもあった。
「我と共に戦場へ行くか?」
闇色の双眸が向けられる。クラリスはわずかに息を吸い、首を横に振った。今の自分はその他大勢の兵士に過ぎない。王の背中にもたれるのは早すぎる。
「残念だな。ステファンも喜んだだろうに」
その名前にクラリスの瞳が揺れる。戦を見せるつもりなのか──なおさら無様な姿は見せられなかった。
ロボアールが一歩前に出て、檄を飛ばす。
「よいか、この国の命運はそなたにかかっておるのじゃ。忘れるではないぞ」
その目には、期待と不安が渦巻いていた。
馬の嘶きが空気を震わせる。アストレイア──忠実で脚の速さに定評がある名馬だ。ジョナサンが手綱を引き、手招きした。
「乗れ。緊張で腰を固めるなよ」
深く息を吐き、クラリスは馬の背中に飛び乗った。特訓の成果か、もはや揺れに怯むことはない。
「出陣!」
号令と共に城門が軋み、冷たい風が一斉に流れ込む。ジョナサンの背中に身を預け、クラリスは前を見据えた。“この戦で、自分の運命を変えてみせる” そんな決意が胸の奥で燃え上がっていた。
*
鬼の国と敵国を隔てるのは、見渡す限りの平原だった。黄金色の草が風にたなびき、遮るものは何一つない。その両端に、二つの軍勢が向かい合うように陣を張っていた。軍旗がはためき、鎧の列が陽光を反射して鈍い輝きを放つ。
見張り塔の上で、ヴィクターは望遠鏡を覗き込み、敵陣を値踏みしていた。クラリスにも望遠鏡を手渡す。視界に広がったのは、黒々とうねる兵士の海。その数、およそ一万。魔力で相手にできる限界に近かった。
「クラリスよ。おまえならどう動く?」
低い声が、風の中でもはっきりと届く。
クラリスは、まっすぐヴィクターを見据えて答えた。
「中央から突入し、迫る兵士に魔法を撃ち込みます」
「……だが、敵陣に近づけば弓矢や魔法が雨のように降るぞ」
「そこからはジョナサン殿に馬を自在に操っていただき、敵同士が相討ちになるよう仕掛けます」
思ったよりも頼もしい策を聞き、ヴィクターは短く鼻を鳴らす。
「ふん……どこまでやれるか、見ものだな」
挑発にも似た言葉を残し、見張り塔を下りていった。
残された静寂の中で、ジョナサンが問いかける。
「……本当にそんな芸当ができるのか?」
クラリスは望遠鏡を手渡し、迷いなく言った。
「私は、貴方を信じています」
その淀みない眼差しに、ジョナサンの喉がわずかに鳴る。特訓初日、泣きそうな顔で鞍にしがみついていた弱虫の姿は、もうどこにもなかった。
*
敵が動き始めたのを見て、クラリスはジョナサンと、アストレイアに跨る。背後では鬼の軍勢が、固唾を飲んでその背中を見守っていた。
「合図をしたら一気に駆け抜ける。迷うな。狙うは敵将の首、ただ一つだ」
低く告げられる声。クラリスは短く頷き、指先に魔力を集めた。
「──行くぞ!」
拍車が鳴り、アストレイアが弾丸のように飛び出す。突風が後ろへ流れ、マントが引き裂かれそうになる。敵の前列が一瞬怯み、次いで咆哮を上げた。槍兵と歩兵が地を蹴り、波のように押し寄せてくる。
「右だ!」
ジョナサンの声に合わせて、雷が地面を走った。閃光と共に空気が焦げ、金属の焼ける匂いが立ち上る。悲鳴が戦場に響き渡り、兵士が次々と倒れた。
「今度は左だ!」
クラリスは左腕を突き出して強力な雷を放つ。さすがに訓練された馬だけあって、アストレイアはどんな魔法にもびくともしない。地面に倒れる兵士たちを尻目に敵陣へ突っ込んでゆく。
弓部隊と魔法使いの集団が見える。ジョナサンはクラリスが言っていたとおり、アストレイアを操って、弓部隊に近づいたり魔法使いたちに近づいたりして攪乱した。自然と互いを攻撃し合う形になる。追い討ちをかけるように、クラリスの炎の魔法が襲った。
敵の攻撃をかいくぐっているうちに、敵将の旗が見えてきた。その下に、鎧を纏った壮年の男が馬上で指揮を執っている。冷たい鋼のような眼光が、遠くのクラリスを射抜いた。残存兵はわずか。命令を無視し、我先に逃げ出す者もいる。戦場の喧騒が遠のき、耳に届くのはアストレイアの蹄の音だけになった。
「ジョナサン殿、敵将を中心に馬を転回してください!」
「……何をする気だ!」
「私が敵将に飛びつくので、首を取ったら体を捕まえてください」
答えを待たず、クラリスは腰を浮かせた。アストレイアが、敵将の正面へ突っ込む。
刹那──指先から解き放たれた雷が、白刃のように閃く。兜と鎧の継ぎ目を正確に断ち切り、焼けた金属と血の匂いが一気に鼻腔を満たした。
敵将の首が力なく揺れ、重い鎧の上からずれ落ちる。クラリスはその首に飛びつき、両腕で抱え込んだ。遠心力に振り回される身体を、ジョナサンの逞しい腕がしっかりと捕まえる。
アストレイアの嘶き。そのまま、味方陣営へと一気に駆け込む。呆然としていた兵士たちは我に返り、慌てて進路を開けた。そして──
「やったぞ!」
誰かの叫びが引き金となり、歓声が奔流のように広がった。
馬から下りるなり、ヴィクターが悠然と歩み寄ってきた。陽光を浴びた漆黒の長髪が揺れ、双眸は鋭く二人を貫く。
クラリスは無言で、兜を被ったままの首を差し出した。ヴィクターは血に塗れたそれを迷いなく受け取り、冷ややかな視線で品定めする。やがて、高く掲げると、低く吠えるように宣言した。
「我らの勝利だ! この地は我らのものだ!」
その声に、兵士たちが再び沸き立つ。ヴィクターは不意に笑みを浮かべ、クラリスを見やった。
「見事だ、クラリス。おまえは我が国の面目を保ったぞ」
そして、背後に控えていたステファンを呼び寄せる。その瞳には、尊敬と憧れが入り混じった光が宿っていた。
「ステファンよ、見たか。これがクラリスの実力だ。一万の敵を、たった一人で倒したのだ」
ステファンはごくりと唾を飲み込んで、ゆっくりと頷く。慌ててクラリスは首を横に振った。
「私一人の力ではありません。ジョナサン殿が馬を操ってくれたおかげです」
隣に立つジョナサンを見やる。ヴィクターは豪快に笑った。
「謙遜するのか。それもおまえらしい」
そう言い残して背を向ける。役割を果たした安堵と共に、わずかな物足りなさも感じた。そんな気持ちを誤魔化すように、ジョナサンへ向き直る。
「ジョナサン殿、ありがとうございました」
「……どうやら俺はおまえを見くびっていたらしい。これで稚児からは卒業だな」
胸の奥が少し痛んだ。望んでいたはずの言葉なのに。もうヴィクターが触れてくれないと思うと素直に喜べなかった。
そこへロボアールが駆け寄ってくる。
「クラリスよ、見事だったぞ! さすが儂が見込んだだけあるわい!」
鼻息を荒くして、手柄を自分のものにしようとする姿にクラリスは苦笑する。見かねてジョナサンが助け舟を出した。
「さあ、帰ろう。後のことはロボアールに任せるのだ」
差し伸べられた手を取り、クラリスはアストレイアに跨る。拍子抜けするロボアールを残し、二人は戦場を離れるのだった。
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