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執着(1)

「……クラリスが戦場に立った、だと?」 エルネストの手が止まり、盃が床に叩きつけられた。中の酒が飛び散って辺りを汚す。 「敵国に単身で飛び込み、一万の兵を全滅させたそうです」 セイドが淡々と告げると、部屋の空気が一段と重くなる。 「さすが、クラリスの兄貴だ!」 ティアが口笛混じりに感嘆の声を上げた。 「……ヴィクターめ。ついに飽きて、クラリスを戦場に送り出したか」 エルネストは顎に手を当て、低く笑った。その笑みは喜びとも怒りともつかぬ色を帯びている。 山賊たちが、クラリスのいない生活に馴染み始めた頃。ただ一人、彼だけは――朝も夜も、その面影を忘れたことがなかった。 「旦那。山賊の頭目が、自分で慰めるばかりじゃ身がもたねえですよ」 セイドが冗談めかして他の稚児を宛がおうとしても、鼻で笑うだけだった。 「馬鹿言え。クラリスは俺が育てた。俺の手で、俺好みに。……代わりなんて、この世にいるかよ」 その声には、執着という名の鎖が絡みついていた。 「鬼の国と取引する」 ぽつりと呟いたその一言に、ティアが眉をひそめる。 「取引? どうやって?」 エルネストの瞳が暗く光る。 「決まってるだろ。奴らが大事にしているものを奪えばいい」 口元に浮かぶ笑みは、狩人が獲物を見つけた時のようだった。笑い声はやがて大きくなり、アジトの壁にこだまする。 「――待っていろ、クラリス。このエルネスト様が、おまえを迎えに行ってやる!」 * 夕陽が西の空を焼き、草原が黄金色に染まる頃。ステファンは狩りの稽古に勤しみ、馬上から矢を放っていた。獲物は仕留められるが、とどめを刺す瞬間はやはり躊躇が走り、逃げられてしまう。 「……王子。心も鬼にしていただかねば」 指導役のジョナサンは、ため息をつきながら進言する。その声に反論はしなかったが、ステファンの瞳はわずかに翳っていた。 「あと二頭。とどめを刺すまで帰りませぬぞ」 黄昏が迫り、残された時間の少なさが胸を焦がす。その時、茂みを割って中型の獣が駆け抜けた。 「王子、早く!」 促されるまま、ステファンは馬腹を挟み込み、全速力で追う。風を裂くように走り、弓を構えると、矢を弦に宛がって狙いを定めた。 鋭い音と共に、矢は獣の体を貫いた。苦しげな鳴き声を上げながら、近くの森へと消える。 「追ってください、王子!」 ジョナサンの声を背に、ステファンは馬を下り、獣の痕跡を追って森へ踏み入った。夕陽は木々に遮られ、湿った冷気が肌を撫でる。やがて――断末魔の悲鳴がこだました。 胸の奥で何かがざわつきながらも、声の方へ足を進める。深い影に包まれた場所で、息絶えた獣を見つけた。しかし、その体には矢でなく、斧のような傷跡が刻まれている。 (これは……僕の矢じゃない……?) 思考が追いつくよりも早く――頭上から何かが落ちてきた。重く絡みつく網。反射的にもがくが、すぐに体ごと持ち上げられる。枝の上には複数の人影。木漏れ日が差して顔が見えた。 (山賊……!) 一人や二人ではない。十、いや、それ以上――。 なぜ山にいるはずの彼らが、こんなところに? 疑問を抱く間もなく、遠くから自分を呼ぶ声がした。 「王子、どこにおられるのですか!」 ジョナサンだ。だが、付き添いの兵士はわずかに数人。対して山賊は、闇に潜む影まで含めれば倍以上。 「近づくな! 山賊だ!」 喉が張り裂けるほど叫ぶ。 しかし、ジョナサンたちはすでに山賊に包囲されていた。ひときわ大きい男が前に出る。 「王子の命は預かった。返して欲しけりゃ……クラリスを寄こせ」 甲高い声が、森の静けさを破るように響き渡る。耳の奥に突き刺さるその要求に、ステファンは血の気が引いた。 兵士たちは剣を構えたが、数の差は歴然。一人が果敢に切り込むも、木々を縫う山賊の動きに翻弄され、あっけなく剣を弾かれる。 「引け! ここは引くのだ!」 ジョナサンの声が鋭く響き、兵士たちは悔しげに退いた。 「ちょろいもんだ」 声の甲高い男が鼻で笑う。 「エルネスト様、王子は?」 子分が問う。 「罠の中で眠らせておけばいい。食い物は与えてやれ。こいつは、クラリスを釣るための最高の餌だ」 栗毛色の髪を振り払い、男――エルネストは竜の背中に跨がった。竜は不満げに鳴き、翼を打つ。それでも無理やり飛び立たせ、森の向こうへ消えていった。 残されたのは、松明を掲げる見張りの影。夜の帳が下り、ステファンの胸の中に冷たい不安が静かに広がっていった。

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