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嫉妬(2)
朝靄の中、草原にステファンが立っていた。その隣にはクラリスがいる。あとは付き添いの兵士が数人。
クラリスは気遣わしげにジョナサンを見た。
「……どうして、いらっしゃるのですか?」
「ふん、また山賊に襲われるかもしれないだろう。そのための護衛だ」
もちろん、嘘だ。誰もジョナサンにそんな役割は命じていない。ただ、元教育係としては、クラリスが何をするのか見ておきたかった。不手際があれば、すぐヴィクターに報告する心づもりである。
今日の狩りは、鹿を仕留める予定だ。他の動物よりも警戒心が強く、見つかればすぐに逃げられる。
ステファンは相変わらず弱気だった。
「殺さなくても済む方法は……」
これが次の国王だというのだから情けない。ジョナサンは心の中で軽蔑した。
「王子」
クラリスが声を低めて窘める。
「我々が生き延びるためには、犠牲にしなければいけない命もあります。腹を空かせた兵士は戦えません」
それでもステファンは自信無さげだった。自分もこれで苦労したものだと、ジョナサンはため息をつく。クラリスがどのように導くのか見ものだった。
やがて、草むらでカサリと音がして、一匹の鹿が飛び出す。クラリスは手で制し、二人で木の陰に身を潜めた。ステファンが弓を構える。矢は的確に獲物の脇腹を射貫いた――が、倒れることなく、苦しげに森へと駆け出す。
「王子、追いましょう!」
クラリスが駆け出す。ステファンも慌てて後を追う。ジョナサンもついていった。
血の跡をたどると、傷ついた鹿がよろよろと立っていた。大きな瞳が、恐怖と痛みで揺れている。
ステファンの指が震える。
「……僕には、できません」
クラリスはゆっくりと彼の後ろに立ち、弓を包み込むように握らせた。
「苦しみを長引かせるほうが残酷だよ。とどめを刺すのは慈悲なんだ」
低く囁き、共に弦を引く。矢が命中し、鹿は静かに息絶えた。
ステファンは長く息を吐き、矢を抜きながら小さく呟く。
「……僕たちが生き延びるため、ですよね」
クラリスは頷いた。
「そうです。私は、王子が生き延びるために教えています」
随分と優し過ぎる指導だとジョナサンは思った。ロボアールがいたら、きっと眉を顰めるだろう。だが、ステファンは考えを改めたらしい。それからの狩りには、目覚ましいものがあった。弓に迷いがない。
「王子、その調子です!」
クラリスが励ます。ステファンとの距離は、肩が触れるほど近かった。ステファンは嬉しそうな表情を露わにしている。やはり親子なのだろう。その面影はヴィクターを彷彿とさせ、ジョナサンは言いようのない嫉妬心に襲われた。
(父だけでなく息子までも奪うというのか!)
クラリスの姿に、かつて自分が立っていた場所を重ねてしまう。全身の血が逆流するようだった。
*
城門の前ではヴィクターが待ち構えていた。息子を待っていたのか、それとも……。
「クラリス様が、僕にとどめの差し方を教えてくれました」
ステファンが声を弾ませる。ヴィクターは嬉しいような苦虫を嚙み潰したような、何とも言えない表情を浮かべていた。きっと、クラリスに懐く息子に嫉妬しているのだろう。ジョナサンにとっては、実に分かりやすかった。
「王子の獲物だ。祝いの宴を用意せよ」
ヴィクターの命令に、侍従たちが慌ただしく動く。その中で、クラリスは恭しく跪いた。
「陛下のお役に立てて光栄です」
ヴィクターは腰を下ろして、クラリスの頬を撫でる。
「……役に立つのは良い。だが、あまりステファンの近くに寄りすぎるな」
人目を憚らず放たれた言葉に、ジョナサンは耳を疑った。それはクラリスも同じなのだろう。言葉を失っているようだった。
「おやめください、父上」
ステファンは笑いながら、クラリスの体に寄りかかる。この息子は鈍感なのだろう。ヴィクターの反応は気にせず、無邪気に続ける。
「僕はもっと教えてもらいたいのですから」
ヴィクターは父としての威厳と、一人の男としての独占欲の間で板挟みになっているようだった。
「……そうか」
それだけ言って、背中を向ける。ふと、ジョナサンに気づいて近寄ってきた。
「おまえに護衛を命じた覚えはないぞ」
「お、俺は、王子やクラリスがまた捕まったらいけないと……」
「言い訳は無用だ。おまえには何かしらの罰を与えよう」
ジョナサンの顔が蒼ざめる。本当は縋って、この思いに気づいてもらいたい。けれども、その背中はすべてを拒むくらい冷たかった。
胸の奥で何かが音を立ててひび割れる。羨望と怒りと、わずかな希望が、ぐちゃぐちゃに絡まり合う。――あの背中を振り向かせるためなら、俺はどんな手も使うかもしれない。
「ジョナサン殿、いかがなされたのですか?」
クラリスが何かに気づいたように声をかけてくる。ジョナサンは慌てて被りを振った。
「いや、何でもないのだ」
「そうですか……今日はお付き合いいただき、ありがとうございます」
お礼を言われる筋合いはない。ジョナサンはクラリスの真意を図りかねる。
「ジョナサン殿がいてくださったおかげで、我々は狩りに集中することができました」
愛嬌のある笑顔。これで陛下やステファンの心も鷲掴みにしたのだろう。それ以上の他意は無いようだった。
「ならば、陛下に伝えておくれ。俺も役に立ったと」
クラリスは逡巡しているようだった。それが腹立たしい。
「……もちろんです」
曖昧な笑みを浮かべて、クラリスは立ち去っていった。思わず後をつけていきたい衝動をジョナサンは懸命にこらえる。きっと、この後はヴィクターに抱かれるのだろう。そして、腕の中で告げるのだろう。ジョナサンが役に立ってくれたと。
ヴィクターはどんな反応をするだろう。自分を見直して、罰を取り下げてくれるだろうか。それとも……。やはり今の言葉は取り消そうとジョナサンは顔を上げるが、そのためにクラリスを追いかけるのは癪だった。
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