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急転(1)
その朝、城は戦の匂いに満ちていた。石畳を打つ兵士の靴音が、まだ薄暗い回廊に低く響く。武具の金属音、馬の鼻息、油を燃やす匂い――すべてが、迫り来る死の気配を告げていた。
伝令によると、北の国境沿いに黒々とした陣が築かれたという。その中心に立つのは、黒魔術を極めし者、イグナーツ。
クラリスも知っている。いつか、ヴィクターに抱かれながら聞かされた物語――魔物を百も千も従え、大地を腐らせ、王国を一夜にして廃墟に変えた魔導師の名前。その影が今、鬼の国へ迫ろうとしている。
作戦会議の壇上で、ヴィクターは豪然と立ち上がった。
「我が討つ!」
一瞬のどよめき。長老ロボアールが前に進み、白い髭を揺らして諫める。
「陛下、それはあまりに……」
だが、ヴィクターは一瞥をくれただけで遮った。
「王自ら討ってこそ、この国は保たれる。歴代の王は皆そうしてきた。我も倣うだけだ」
その言葉と同時に、鋭い視線が傍らのジョナサンに突き刺さる。
「おまえも来い。失態を挽回する場をくれてやる」
突き放すような低音。ジョナサンの肩がわずかに震え、俯く影が揺れた。
クラリスは、自分にも命が下るのを待った。しかし……。
「会議は終わりだ」
ヴィクターは踵を返し、赤いマントを翻して去っていく。追おうとしたクラリスの前に、傍仕えの兵士が立ちはだかった。
「おそらく、陛下は城の守りを命じるおつもりだ」
背中からロボアールが声をかけた。
「なぜです?」
「最強の軍であっても、イグナーツの魔法は未知。討ち破れたときのために、城と王子をそなたに託したのだろう」
ステファンの笑顔が脳裏をよぎる。守らねばならない。未来の王を。それでも……胸の奥からもう一つの声が叫ぶ。
「私は……最前線で戦いたい」
沈黙。やがてロボアールは深く目を伏せた。
「命を賭す戦になる。生きて帰れるとは限らぬぞ」
「陛下を守って死ねるなら、本望です」
声が震え、視界が滲む。ロボアールの前で涙を見せるなど、愚かだと分かっているのに。
「その言葉を、ジョナサンにも聞かせてあげたいものじゃな」
ロボアールの口調は淡々としていたが、その裏には痛みが潜んでいた。
「……あやつは、今ごろ絶望しておるだろう。罰という名の厄介払い、といったところじゃ」
長老は背を向け、重い足取りで去っていく。広間に残されたクラリスは、しんと静まり返った空気の中で、自らの胸の内を引き締める決意を新たにした。
それからは、城に残る兵士たちを集め、万が一の襲撃に備えた布陣を確認した。守るべきは何よりもステファン。逃走経路も幾つか決めておく。気づけば、外は闇に包まれていた。
部屋に戻り、裸になる。ヴィクターは、もう来ないだろう。胸の奥には伝えきれぬ言葉が渦巻いていた。せめて一度だけでも……。そう思った時だった。
ノックもなく、扉が静かに開く。その影を見紛うことはない。闇の中でもなお消えぬ輝きが、ためらいもなく歩み寄り、裸のままのクラリスに覆いかぶさる。
「我を待たずに眠るつもりだったのか」
低く、艶を帯びた声。闇色の双眸が細められる。クラリスは唇を寄せて、その問いを否定した。
「そんなことはありません。ずっと、お待ちしておりました」
その頬へ手を伸ばす。もう二度と触れられないかもしれない――そんな予感が、指先を止めさせなかった。それを、大きな手のひらが包み込むように覆う。
「おまえに、城の守りを命ずる」
静かな声だった。それが何を意味するかは痛いほど分かっている。
「……分かりました。王子と、この城を守ります。だから――必ず、お戻りください」
気丈に振る舞ってみせる。それでも、潤んだ瞳は隠しようもない。
「もちろんだ。我は、おまえと共に死にたい」
その言葉の熱が、唇越しに胸の奥まで伝わってくる。ヴィクターの腕は迷いなくクラリスを引き寄せた。
「だから、今夜は……刻みつける!」
窓から差し込む月光だけが二人を照らしていた。互いに、背中に回した腕を緩めようとしない。それは、今夜が最後になるかもしれないと悟っている者同士の、必死の抱擁だった。
ヴィクターはわずかに身を離し、まっすぐに見つめてくる。その瞳は闇の奥で光り、強さと脆さが同居していた。大きな手のひらがクラリスの頬をなぞり、髪をすくい、背中を撫でる。指先一つひとつに、別れの未練が込められているのが伝わってきた。
動きは激しくない。ただ、何度も何度も抱きしめられた。肌と肌が離れることを拒むように、ヴィクターは腕を絡め、額を合わせてくる。クラリスもまた、その腕の中で必死にぬくもりを刻みつけた。
今だけは、すべてを忘れてこの人の中に沈んでしまいたい――時が止まればいいと願いながら、最後まで強く抱きしめ合っていた。
けれども、終わりはいつか訪れる。後に残るのは乱れた寝具と、交わした熱の余韻だけ。せめて時間まで、二人は互いの体温を逃さぬように腕を強く絡め続けた。
いつしか、ヴィクターの寝息に安心して眠ってしまったらしい。クラリスが再び目を覚ますと一人ぼっちだった。肌に残るヴィクターの匂いと、刻み込まれた無数の痣。もう、体はすっかり冷えてしまった。
本当は強くないのに、王だからこそ弱さを見せることが許されない。それがクラリスは悲しかった。
(陛下、どうぞご無事で……)
ずっとこらえていた涙が、とめどなく流れては、裸の体を濡らした。
*
出陣の朝。白い息を吐きながら、城門前に兵士たちが整列していた。鎧のきしむ音や馬の蹄の音が、冷たい空気を震わせる。赤い軍旗が風にはためくたび、鬼の国の紋章が空に翻った。
クラリスは少し離れた場所で、その光景を見守っていた。隣にはステファン。
「最前で陛下を見送らなくて良いのですか?」
促しても、ステファンは一歩も動かない。
「……僕は、一人では不安なのです」
その声には、幼さと、それを必死に隠そうとする強がりが同居していた。そんなところも父譲りだ。城を守るという責務を、若い考えなりに受け止めているのだろう。だが、その奥には父が帰ってこないかもしれないという予感が影を落としていた。
クラリスはヴィクターと目が合った。眼差しの奥に潜むわずかな寂しさが、胸を締めつける。行かせたくない――喉元までせり上がる衝動を飲み込んだ。
ふと、ぬくもりが掌を包む。ステファンが、迷いなく手を握っていた。ハッとして振り向くと、その瞳もまた寂しさを宿している。これからは父のいない城で、一人で生き、国を背負わねばならない少年の瞳だ。
“大丈夫。私がここにいます”
そう告げるように、クラリスは指先に力を込めて握り返す。その瞬間、ステファンの表情に、かすかな安堵の色が差した。
「出陣!」
鋭い号令とともに銅鑼が鳴り響く。城門がゆっくりと開き、朝の光が差し込む。動き出す兵列、その先頭に立つヴィクターの背中。門をくぐるその影が、二度と戻らぬかもしれないと、誰もが胸の奥で悟っていた。
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