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急転(2)
ヴィクター率いる軍勢が城門を出てから、城の中は別の空気に包まれていた。戦の緊張感は遠ざかり、廊下には侍従たちの談笑や足音が柔らかに響く。兵士たちも巡回こそ怠らぬものの、その表情はどこか緩みがちだった。威厳のある王がいないと、そんなものなのだろう。
ステファンは、クラリスと並んで中庭を歩いていた。
「今日は……平和ですね」
その声には、年相応の安堵が滲んでいた。クラリスは一瞬、微笑みそうになったが――胸の奥でざわめきが広がる。
(違う、これは城のあるべき姿ではない!)
その時、ずかずかと重い足音が響き、ロボアールが姿を現した。
「何をしておる!」
鋭い声に、周囲の兵士や侍従たちが肩をすくめる。
「陛下がいないからといって、守りが疎かになるのは愚か者のすることだ。敵は、こちらが最も弱った時を狙うものだぞ」
兵士たちは慌てて動き始め、空気が一瞬で張り詰める。ロボアールはクラリスとステファンに気づいて、傍らまで歩み寄ると低く告げた。
「おまえたちも気をつけるように」
クラリスは深く頷き、背筋を伸ばした。ステファンは一瞬だけ俯き、それから小さく「はい」と答える。
その夜、城の外では不気味な狼の遠吠えが響いていた。月明かりが差す寝室で、クラリスは目を閉じても眠れず、胸の奥のざわめきは大きくなっていくばかり。こんなにも無事か気になるなんて。やはり、一緒についていけばよかった……。そんな後悔が渦巻いていた。
ベッドから起き上がって、窓の外を見る。ここにいても戦況を知る由はない。ただ、伝令からの知らせを待つしかなかった。
クラリスは鏡の前で裸になる。体にはまだヴィクターからつけられた無数の痣が残っていた。昨日は鮮やかな赤だったのに、今は紫に変色している。これも、いずれは消えてしまうのだろう。それまでにヴィクターが戻ってくることを祈るしかできなかった。
*
浅い眠りを切り裂くように、遠くで爆ぜる轟音が響いた。ヴィクターが陣営から出ると、そこはすでに炎と血煙の地獄だった。燃え落ちる天幕、黒い影のような魔物たちが兵士を喰い散らかしている。気づけば四方を包囲され、味方の姿はほとんど残っていなかった。
「ジョナサン、ジョナサンはどこだ!」
自分を真っ先に守るべきはずの姿はどこにも見えない。もう敵にやられてしまったのか、それとも……。
闇の奥から、黒い外套をまとった男が現れる。白銀の髪が炎を映して揺れ、その瞳は冷たい嘲笑を浮かべていた。
「……おまえがイグナーツか」
「王が自ら陣頭に立つとは、愚かだな」
「愚かでも構わぬ。我が命を賭しても……」
言葉を途中で飲み込み、ヴィクターは剣を構える。兵士たちの悲鳴が上がり、魔物の群れが押し寄せてきた。刃が閃き、何体もの魔物が両断される。だが、倒しても倒しても、次々と這い寄ってくるばかり。
炎が近づき、熱気が肌を焼く。呼吸が荒くなり、視界の端に血飛沫が舞った。その瞬間、胸の奥で何かが疼く。角や牙が伸びるような感覚、脈が速まるほどに体が膨れ上がろうとする衝動。
「クラリス!」
思わずその名前を叫ぶ。自分の欲望も弱さも、すべて受け入れてくれた唯一の存在。この声が、あの小さな体に届くはずもない。だが、届かなくとも構わない。最後の瞬間まで、その名前だけを抱きしめていたかった。
炎の壁が迫る。魔物の爪が肩を裂き、血が噴き出す。崩れ落ちた足元で、イグナーツの影が覆いかぶさる。
「ここで終われ、鬼の王」
刹那、爆ぜるような光と衝撃が走った。地面を震わせる咆哮。炎と魔物の奔流に飲みこまれながら、ヴィクターの姿はイグナーツの視界から消えた。
*
「クラリス殿……起きてください」
肩を揺する手が、小刻みに震えている。目を開けると、顔色を失った兵士が立っていた。その表情だけで、胸の奥が冷たくなる。外はまだ暗い。
「ジョナサン殿が……戻られました」
一拍置き、絞り出すように続ける。
「……たった一人で」
クラリスの呼吸が詰まる。
「……陛下は?」
兵士は何も言わず、首を横に振るだけだった。
クラリスは、慌てて服をまとい、足早に城門へ向かう。そこには、まるで魂を抜かれたように立ち尽くすジョナサンの姿があった。鎧は砕けて泥と血に塗れ、マントは裂けてぼろ布のように垂れ下がっていた。
問いかけるより先に、ロボアールが前へ出た。
「……陛下はどうなされた」
ジョナサンは俯いたまま動かない。沈黙が長く伸び、やがて、かすれた声がこぼれた。
「……最後まで戦っておられた。俺を……逃がすために」
ロボアールの眉間が深く寄る。
「では、見捨てたのか」
低い声に怒気が混じる。掴みかかろうとした腕を、兵士たちが慌てて押さえた。
ジョナサンはその場に崩れ落ちるように跪き、握った拳を地面に押しつける。
「俺は……俺だけが、生き残ってしまった!」
叫び声が、闇を裂くように響いた。周囲の兵士や侍従の目に、光るものが浮かぶ。
クラリスは足を進め、跪くジョナサンの頬にそっと手を添えた。
「……よくぞ、生きて帰られました」
なぜ、そうしたのか、自分でも理由がわからない。罵声を浴びせることだってできたのに、その言葉しか出てこなかった。――この人は、ヴィクターの死をその目で見た。ただ、それだけだった。
「ク……クラリス……」
縋りついて泣くジョナサンの肩を支えながら、クラリスは次に待つ報告の重さに押しつぶされそうだった。
侍従にジョナサンを託し、ロボアールと共にステファンの部屋へ向かう。静まり返った部屋で、王子は深い眠りの中にいた。
「王子……起きてください」
揺すっても、すぐには目を開けない。やがて、重たげな瞼が動き、クラリスの顔を見つけて微かに笑みを浮かべた。
「……クラリス様? いかがなされましたか?」
口を開こうとしても、言葉が出てこない。その沈黙を破ったのはロボアールだった。
「……陛下が戦死なされた。ジョナサンが、ただ一人で戻ってきた」
ステファンは瞬きを繰り返し、やがて首を横に振った。
「……そんな……父上が……?」
あふれた涙が頬を伝い落ちる。まるで幼子のように泣きじゃくり始めた。怖れていたことが現実となって、急に心細くなったのだろう。
クラリスはそっと寄り添い、耳元で囁く。
「大丈夫です。私もロボアール様もいます。一緒に……この城を守りましょう」
どれくらい、心の支えになったのかは分からない。ただ、ステファンは何度も頷いていた。自分に言い聞かせるように。
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