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弱点(1)

朝早く起きたクラリスは、ベルネアの世話をしていた。井戸から水を汲み上げると、手がかじかむ。辺りには冬の気配が漂っていた。 ──冬になれば、魔物の動きは鈍る。 ふいに、空耳のように懐かしい声が甦る。 「覚えておけ、クラリス。あの連中は寒さに弱い。冬になれば山を越えることもできまい」 静かな夜のことだった。熱を帯びた体に抱かれながら、耳元で囁かれた言葉。あの時は、ただの寝物語のように思えた。けれども、今となっては大切なことを教えてくれたのだと、身に沁みて分かる。 確かに、寒くなるにつれて魔物の動きは明らかに鈍くなっていた。ただ蹲って、襲いもせずにこちらを見ているものもいる。おそらく、城を奪還するのであれば、冬こそが格好の機会なのだろう。 「陛下……」 声に出した途端、胸が締めつけられた。決して戻らないはずの人。その腕の重みも、唇の熱も、まだ体が覚えている気がする。自分を置き去りにして逝ったのに、それでも守ってくれている。 ふと、ベルネアの鳴き声が聞こえて、クラリスは我に返った。 「ああ、ごめん。水を忘れていたな」 そう言って、汲んできた水を桶に流す。ベルネアは美味しそうに口に含んだ。 曇った空からは、今にも雪が舞い降りてきそうである。こんな時こそ、ぬくもりが恋しい。 「どうか、もう一度だけ……私の傍に来てください」 決して届かないと知りながら、そう願わずにいられなかった。 * それから、クラリスは新しい魔法を覚えるため、研鑽に励んだ。その様子を、エルネストが呆れたように見ている。 「冬なのに、わざわざ冷気の魔法を覚えて、どうするんだ?」 「たくさんの魔物を一度に倒したいのです」 一匹ずつ倒していたのでは、きりがない。魔法で倒せば、道は開けるだろう。 「まぁ、おまえの気が済むようにやればいいや」 そう言って、エルネストはクラリスを抱き寄せる。 「だが、くれぐれも無理はするなよ」 耳元に熱い息がかかった。クラリスはそれを迷惑そうに振りほどく。笑い声を残して、エルネストは去っていった。 入れ替わりでステファンがやってくる。アジトに来てからの歳月は、お坊ちゃまだった王子を精悍な若者へと変えていた。声が低くなり、闇色の双眸は鋭さを増している。日に日にヴィクターに似てきたような気がして、クラリスは動揺を隠せない。 「随分と親しげに話していましたね……あの男と」 嫉妬を露わにした声。クラリスは目を合わせないで答えた。 「冷気の魔法を使う理由を聞かれたのです」 もう一回、木々に向けて魔法を放つ。白く霜は付くが、魔物の動きを止めるには、まだまだ弱かった。 「時間がない……」 もし、冬の間に決着をつけるのであれば、早く大量の魔物を攻撃できるだけの魔法を身につけなければいけなかった。けれども、今の自分は寒さの力を借りてもこの程度だった。 「大丈夫。焦らないでください」 ステファンの腕がクラリスの体を包む。優しい温かさに包まれて、うっかり身も心も委ねてしまいそうになった。 「貴方ならできると僕は信じています。だから……」 クラリスはステファンの手のひらをそっと握る。すぐに、強い力で握り返された。 「ありがとう、ステファン。もうちょっと、頑張ってみるよ」 笑顔を見せると、短い口づけが落とされた。ステファンは顔を赤らめて去っていく。初めての出来事に、クラリスは戸惑いながら唇をなぞった。けれども、被りを振ってまた詠唱を始める。そう、ここで迷っている暇はない。すべてはステファンのため。あらためて、そう思うのだった。 * クラリスが冷気の魔法を放つ。途端に魔物たちの体に霜が張る。それでも容赦なく攻撃を続けると、やがて足元が氷に捕らわれて動けなくなった。 「さすが、クラリスの兄貴。魔物たちの動きがピタッと止まったぜ」 ティアは、冷気の魔法で動けない魔物に毒を撃ち、次々と仕留めていく。他の山賊たちも、それぞれにとどめを刺していった。 「この調子だと、俺たちの行動範囲も広がりそうだな」 ふと、肩に腕を回されて振り向くと、エルネストが満足げな表情を浮かべて立っていた。クラリスは努めて冷静に返す。 「私は、ただ城を奪還したいだけです」 「まだ、そんなこと言ってるのか!」 力づくで向き合わされる。視線が重なって、クラリスはぎこちなく逸らした。 「敵は強力なんだぞ。命を落としたらどうするんだ!」 今にも泣き出しそうな顔。自分のことを大切に思ってくれているのが痛いほど伝わってくる。 「おまえは強くならなくていいから」 そう言って、抱き竦める体は温かい。けれども……。 その時だった。 「誰かいるぞ!」 仲間の怒号が飛ぶ。打ち捨てられていたはずの山小屋に誰かいる。クラリスはエルネストに手を引かれて駆けつけた。すでにステファンもいる。 「俺が開ける」 エルネストが前に進み出て、扉に手をかけた。誰もが固唾を飲んで見守る。クラリスは魔法をすぐ使えるように両手を構えた。 「ま、待ってくれ。儂じゃ」 扉が開いて、慌てて飛び出してきたのはロボアールだった。ステファンが驚いて声を上げる。 「ロボアール様……よくぞご無事で!」 過酷な暮らしをしていたのだろう。着ているものはボロボロで、顔に刻まれた皺はより深くなっていた。たった数ヶ月のはずなのに、何年分も老いてしまったように見える。 山小屋の中にはもう一人いた。恐るおそる顔を出してくる。 「ジョナサン殿!」 今度はクラリスが声を上げた。ジョナサンは落ち着きなく視線を彷徨わせながら、辺りをうかがう。ロボアールに比べると、服こそボロボロになっていたものの、血色が良くて元気そうだった。 山賊たちは、二人をアジトに迎えた。エルネストは良い顔をしなかったが、ステファンがどうしてもと言い張ったのである。もちろん、クラリスも加勢した。

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