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反撃(3)

エルネストはクラリスを抱えて逃げながら、柱の陰に隠れ、ペンダントから命のしずくを取り出した。 「頼む、クラリス。目を覚ましてくれ。坊ちゃんを止められるのは、おまえしかいないんだ」 すっかり冷たくなったクラリスの口を開いて、命のしずくを含ませる。溶かしやすくなるように、唇を重ねて唾を流し込んだ。 しばらくは何の反応も無かった。「やはり嘘か……」とエルネストが悔しそうに歯ぎしりをした時だった。突然、クラリスの体が輝き出し、眩しい光に包まれる。温かくて優しい光。まるで、体を癒しているようだった。そして、その輝きが消えると、クラリスの顔に血色が戻ってきた。 「おい、クラリス? クラリス!」 エルネストが頬を叩くと、ゆっくりその瞼が開く。 「エルネスト? わ、私は……」 「バカ野郎、心配かけやがって!」 泣きながら、エルネストはクラリスの体を抱きしめた。クラリスは呆然としたまま、エルネストの体に腕を回す。 「今はそれどころじゃねぇ。坊ちゃんが巨大な鬼になって暴走してるんだ」 指す方を見ると、巨大化したステファンが城を壊していた。塔が簡単にへし折られ、遠くへ投げ捨てられる。 「坊ちゃんが大きくなったのは、おまえが死んでからだ。おまえの元気な姿を見たら、元に戻るかもしれない」 エルネストが言い終わらないうちに、クラリスは駆け出していた。ステファンにこんな辛い思いをさせたのは自分のせいだ。だから、身を挺して止めなければいけない。せっかく蘇った命が再び潰えようとも。 クラリスは怖れもせずに、ステファンの前に飛び出した。そして、声の限り叫ぶ。 「王子! 私だ、クラリスだ! このとおり私は生きている。だから、元に戻ってくれ!」 その声は、確かに耳に届いたらしい。ステファンの動きが止まる。そして、足元にいるクラリスを見下ろした。 「私はここにいる。何も心配はいらないよ」 微笑みかけると、大きな手のひらが地上に下りてくる。差し出されたそれにクラリスは乗っかった。高々と空中に舞い上がる。ベルネアに乗って飛んでいる時よりも高いところに連れていかれて、足元が震えそうになるのを必死にこらえた。 巨大化したステファンと目が合う。怒りに燃えた眼差し。けれども、その奥にはまだ寂しげで心もとない一人の若者がいた。 「さあ、二人で帰ろう」 クラリスは手を差し伸べる。やがてステファンの表情は緩み、その目から大粒の涙が滝のように流れ始めた。 「クラリス、僕のクラリス……」 確かにその声が聞こえたような気がした。次の瞬間、体が急降下するように地上へと引っ張られる。ステファンが元の大きさに戻ろうとしているのだ。慌てて手のひらにしがみつくが、みるみるうちに小さくなってゆく。このままでは支えるものがなくなって、落ちてしまいそうだった。 そして、ステファンが城の高さまで小さくなった頃、クラリスはバランスを崩して、その手のひらから落ちた。大地が迫る──クラリスが目を閉じると、屈強な腕が体をさらい取った。荒い息遣い。エルネストだった。 「へへ、今度はちゃんと助けてやったぜ」 笑顔を浮かべるが、全身に痛みが走っているようで、すぐにしかめっ面になる。クラリスはお礼代わりの口づけをすると、その腕から下りて、ステファンの下へ駆けつけた。 元の大きさに戻ったステファンは、力なく俯いていた。暴れたせいか、腕も脚も血だらけである。クラリスが頭を撫でると、いつものあどけない表情で顔を上げ、大粒の涙を流していた。 「クラリス……良かった」 「辛い思いをさせて申し訳ございません。もう大丈夫ですよ」 手のひらで全身にくまなく触れて安心させる。そこには巨大化した鬼の名残など、完全に消え失せていた。寒さのせいか突然震え出し、何度もくしゃみをする。 「まったく、世話が焼けるぜ」 と、エルネストが外套をかけてあげた。 すっかり崩れ果てた城に、静寂が戻っていた。かつて栄華を誇った謁見の間も、今はただの瓦礫の山。その中心に、握り潰されたイグナーツと、無残に踏み潰されたジョナサンの亡骸が残されている。 クラリスはそっと十字を切った。 「地獄にでも堕ちな……」 エルネストが吐き捨てるように言う。だが、クラリスはジョナサンの憎しみの深さを、ほんの少しだけ理解できるような気がした。立場が違えば、もしかしたら自分も──そんな思いが胸を過り、身震いがした。 「エルネスト殿……仲間を犠牲にして、申し訳ありません」 ステファンが深々と頭を下げる。セイド、ティア、そしてロボアール──数多の犠牲が、この勝利の裏に横たわっていた。 「ああ……また一から子分たちを鍛え直さなきゃいけねぇな」 エルネストがぽつりと呟いた、その時── 「ちょっと待った!」 振り返った先に、傷だらけのティア、セイド、ロボアールの姿があった。 「みんな……!」 クラリスは駆け寄り、三人を強く抱きしめる。エルネストも、ステファンも、笑顔と涙で再会を喜んだ。 「へへ、俺たち山賊は、そんなヤワじゃねぇんだ」 「寂しがりの旦那を置いて先に逝けないですよ」 「王子が即位するその日まで、儂は死なんぞ」 口々に強がってみせる。 ティアは毒で仮死状態を作り、敵の目を欺いて生き延びた。 「まぁ、坊ちゃんに踏み潰されそうで肝が冷えたけどな」 セイドは瓦礫の下敷きになりながらも、骨折程度で済んだ。 「こんなの、かすり傷さ」 ロボアールは魔力を使い果たした後、図書室に身を隠していた。ステファンの巨大化を陰から見届け、涙を流していたという。 「まさに、鬼の王たる姿でしたぞ」 しかし、他の仲間は誰もが命を落としてしまった。クラリスたちは瓦礫の中から遺体を見つけ、一人ひとり丁寧に葬った。 やがて、空が白み始める。夜明けの光が、壊れた城を優しく照らした。 「これから……どうすればいいのでしょうか」 ステファンの心細そうな声に、クラリスがそっと肩に手を置く。 「また一から、築いていきましょう。城も、国も──」 ロボアールが力強く名乗りを上げた。 「儂が陣頭に立ちますぞ!」 「俺も手伝うさ。クラリスの兄貴には、たっぷりお世話になっているからね」 ティアが笑い、セイドが拳を掲げる。 「いつでも駆けつけますぜ」 皆の視線が集まる中、エルネストは照れ隠しのように口を開く。 「しょうがねぇな……とことん付き合ってやるよ」 そして、クラリスが静かに言った。 「さあ、アジトに帰りましょう」 皆が力強く頷き、朝日に向かって歩き出す。こうして、イグナーツの討伐は終わりを告げたのだった。 (よくやったぞ、クラリス) ふと、そんな声が聞こえた気がして振り返る。そこには、国葬の時のまま雪を被っていたヴィクターの肖像画があった。 (陛下。貴方の息子はご立派でしたよ) そう胸の中で呟いたクラリスは、まだ寒そうにしているステファンに寄り添った。

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