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第4話
そもそもアレッサンドロがリュカを敬称抜きで呼んでいることすら本来あってはならないのだ。世話になる身でこちらからは注意しづらいため、黙認しているだけである。
その上自分を愛称で呼べとは、容認できる域を超えている。
「殿下。それはいけません」
怖い顔のレネに一瞥くれてから、アレッサンドロはリュカに目線を合わせた。
「なあ、リュカ。俺のことはアルと呼べよ」
「アル?」
レネは狼狽する。
「リュカ様。いけません」
「俺がいいと言っているんだからいいだろう。アルだ。お前もそう呼べ。次に殿下と呼んだら海に突き落とすぞ」
「いえ、あの」
困った人だ。
「わかりました。では、アル様とお呼びします。それ以上はとてもできません」
「仕方がないな。それで許してやろう」
アレッサンドロは実に楽しそうだった。レネは呆れる。少なくともルヴァンヌの王族にこんな人はいない。
が、街に出ると、「こんな人」と思ったそれがまだまだ序の口だったことを思い知らされた。
「アレッサンドロ王子!」
「おはようございます、王子!」
港に向かう道々で、さまざまな人がアレッサンドロに挨拶してきた。彼の方でも時折立ち止まり、彼らと親しく言葉を交わす。
「今日の漁はどうだった、パオロ」
「大漁ですよ! 後ほど城にお届けにまいりましょう」
「ああ、頼む。ここにいる客人に美味い海老を食わせてやりたいからな」
これを、一介の漁師相手にやる。同じ地面に立って、同じ目線で。
王子の態度とはとても思えない。レネは開いた口が塞がらなかった。
「お前たちも店を覗いてみろ。何か欲しいものがあれば買ってやる」
「いえ、そんな」
王子に何かねだる者などいるだろうか? 妃でもないのに。
「アレッサンドロ殿下は……いえ、アル様は、こだわらない方なのですね」
「なんだ? 王子らしくないか? それを言うならお前たちもそうだろう」
彼はレネとリュカの繋いだ手を差している。
痛いところを突かれた。
ルヴァンヌの常識で言うなら、いかに幼くとも王子と従者が手を繋ぐなど許されない。だが、これはリュカのためでもあり、レネのためでもある。
異国でリュカに逃げられたらたまらない。
周りに何人もの人々を従えて、一行は港に入った。最初から伴ってきた従者たちに続き、街の人や、子どもたちまでついてくる。どうやらアレッサンドロは人気者のようだ。
「リュカ。レネ。あれを見ろ」
彼の指の先には巨大な全装帆船が浮かんでいた。船首に両手を広げる女性の像が掲げられている。
「すごいですね。王室の船ですか?」
「ああ。うるわしのサラキア、ベルーサの誇る海の女王だ。我が国の造船技術の粋を集めた最高傑作だよ」
リュカが船体に何か見つけた。
「たいほう」
「ああ。そう、大砲だな。海の女王は気が荒い。甘く見ると痛い目に遭うぞ」
リュカにはまだ早い話題だ。
「サラキアとは、確か神話の女神の名前でしたね」
「よく知っているな。海の王ネプトゥヌスの妻、女王サラキアだ。我々にとっては重要な神のひとりだ」
「船にはネプトゥヌスではなく、サラキアの名前をつけるのですね」
「船は女だと言われるからな。船乗りに男が多いからだとか……」
これも、リュカにはあまりよろしくない話題のように思える。
どうごまかそうか考えていたレネだったが、アレッサンドロの方が先に動いた。
「来い」
彼に従い、レネはリュカの手を引いて帆船サラキアへ近づいた。傍で見ると気圧されるほどの大きさだ。それでいて優美。これに比べれば、自分たちが乗ってきた船などなんと貧弱なことか。
「美しいだろう。俺はこの船がこの世で一番美しいと思う」
「素晴らしい船です」
お世辞ではない、本音だった。サラキアはまるで海に浮かぶ城だ。
アレッサンドロの瞳は真っ直ぐ海原に向いている。レネはいつしか彼が船首に立つ様子を想像していた。海と、まだ見ぬ新天地を見据え、勇気と熱意を持って旅立つ姿を。
「いずれ乗せてやる。もっとベルーサに慣れたらな」
レネは気弱に微笑む。
「揺れませんか?」
「ああ、お前は酔うんだったな。リュカは平気だろう?」
アレッサンドロはリュカを覗き込んだ。リュカはむっとして立ち止まる。
「ふね?」
「そう、船だ。お前は強いだろう」
ルヴァンヌ語を話せないアレッサンドロだが、ベルーサ語で、リュカにわかりやすいよう平易な単語を使っていた。
リュカの方は、まだ彼の気配りまでは理解していないようだが。
「アル様はリュカ様が船に酔わなくてよかったとおっしゃっています」
レネがルヴァンヌ語で言うと、リュカはぷいと顔を背けた。
まだ機嫌が悪いようだ。むしろもっと悪くなりつつあるのか。
それからまたしばらくは街を回る。マリノーニは活気溢れる港町だった。人々の声が飛び交い、笑いが弾け、赤ん坊が元気に泣く。これほど人の営みを生々しく感じるのは初めてかもしれない。
ベルーサは太陽と海の国だ。その恵みをいっぱいに受けて、マリノーニの街は輝いている。
「いい街だろう?」
アレッサンドロが誇らしげに胸を反らす。
「ええ。明るく陽気な街ですね」
街の中心部をひと回りしてから、三人は波止場に戻ってきた。木箱が積まれている。外国からの船荷だろう。荷札は知らない言語で書かれていた。
レネが見ていたその木箱を、リュカがいきなり横から蹴った。どすんと鈍い音が鳴る。靴底で蹴ったため、足を痛めはしなかったようだが。
こちらが何も言わずにいると、リュカはさらに木箱を蹴った。二回、三回。そのうちレネと繋いでいない方の手で落ちていた石を拾い、海に投げ始める。
「ふん、ぼくはこんなまちきらいだ。ぜんぜんおもしろくないよ」
ルヴァンヌ語である。
レネは気づかないふりで海を見つめていた。
アレッサンドロは何か言いたげにしている。
「海を見ましょう」
レネは言った。
肩をすくめ、何も言わないアレッサンドロが、レネにはありがたかった。この人は空気を読む。豪放磊落に見えて、驚くほど気配りをする。こちらの意志を尊重してくれているのがわかる。
リュカは数分の間虚しく怒りを表していたが、レネが反応しないとわかり、ついに言った。
「レネ! ぼくつかれた!」
レネはやっとリュカに視線を合わせた。
「お疲れだったのですね。ベルーサ語で上手に言えましたね。気がつかず申し訳ありませんでした」
「ああ、歩かせすぎたんだな。悪かった」
アレッサンドロも合わせてきた。
間もなく昼の時分どきに近い。今日の朝食をリュカはあまり食べなかった。
「お腹は空いていらっしゃいますか?」
レネの問いに、リュカはうんと頷いた。
「わかりました。では、そろそろ……」
「そうだな。食事にするか」
「え?」
レネは王宮に帰ろうと言うつもりだったのだ。だが、アレッサンドロの口ぶりはどうもそうではない。
「アル様。お食事はどちらで?」
「向こうの店はどうだ?」
レネは表情を険しくする。
「まさかとは思いますが、街の店でお食事をとるおつもりですか」
「嫌か?」
いいとか嫌だとかいう問題ではない。
「大丈夫だ。別に誰も咎めない」
「いえ、そうではなく。リュカ様はルヴァンヌの王子ですよ」
「俺もベルーサの王子だ。どうする、リュカ」
リュカはきょとんとしている。
「いけません。お食事は王宮に戻ってからです」
「父上には昼食は街で食うと言ってきた。残念だが、戻っても用意はないぞ」
「あなたはもう……」
レネは言葉も継げない。
「諦めろ。行くぞ」
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