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第6話 弟に愛されすぎて毒を飲みました②※遺体へのキス、愛情表現あり
夜の静寂を破ったのは、自分の足音だった。
喉が渇いて、ふらりと立ち上がったはずが……気づけば、廊下の薄明かりのなか、向かい合うふたりの影を見つけてしまった。
「……あれ? セシル兄さんと、レオ?」
途端に、視界がぐらりと揺れる。
思わず膝が崩れそうになった瞬間、誰かの腕が肩を支えた。
「無理をしては駄目だよ、リュシアン」
セシル兄さんだった。
いつもの柔らかな声色だけど、その手には、ほんの僅かに力がこもっていた。
ちらりと横目でレオを見た。
黒衣のまま、ひと言もなくただ俺たちを見ていた。何も言わず、何も動かず――まるで、見送るしかないことを悟っているみたいだった。
「私が付き添うよ」
静かな牽制の言葉。
俺の体温とは関係なく、廊下の空気がきりりと冷えた。
ベッドに戻った時、レオの姿はもうなかった。
「……ごめん、セシル兄さん。変な空気になった」
毛布に包まりながら、そう呟いた。
セシル兄さんは椅子に腰かけたまま、小さく首を振る。
「君が謝ることじゃない。けれど……」
そこで言葉を切って、しばらく考えるように沈黙したあと、兄さんは俺の目をまっすぐ見てきた。
「……リュシアン。私は、レオの行動を“忠誠”として看過するには、もう限界を感じている。君は……どう思っているんだい?」
その声音は、穏やかだけれど、逃げ場のない真剣さを孕んでいた。
俺は、少しだけ目を伏せる。
わかってる。
レオがしていることの一部は、もう“守る”の範疇を超えている。
それでも、あいつの気持ちを知ってるからこそ――俺は、まだ何も言えていない。
けれど、それでも。
喉が詰まりそうになりながら、俺は口を開いた。
「あいつなりに、俺を守ろうとしてる……んだと思う。ちょっと空回りしてるけどさ。……でも、そこがレオらしいっていうか。俺は……嫌いじゃない」
そう言った俺に、セシル兄さんはふっと息を吐いた。
「……そうか。なら、いい。いずれは話し合おうと考えていたが――君の意志を、何よりも尊重したい」
「ありがとう、セシル兄さん……」
――だって俺、レオとラブラブルート目指してるし!
そりゃあ、たまにやりすぎてるし、目が死んでるときもあるよ!?
でも、口が裂けても言えない!「そういうとこも愛しい」とか、「ちょっと狂ってるくらいが刺さる」なんて!
……いや、実際刺されてるけどね!?(物理)
「……私で良ければ、いつでも君の盾になるよ」
セシル兄さんの言葉は、優しすぎるくらい優しかった。
こんなとき、ほっとするのは当たり前。でも――
「ありがとう。兄さんがそう言ってくれると、安心する」
そう笑って返しながらも、俺は内心、守られるんじゃなくて、レオのことを守りたいと思っていた。
本当は。
あいつの、あの狂いかけた目ごと、丸ごと――この手で抱きしめていたいんだ。
「……おやすみ、リュシアン」
「おやすみ。ありがと、兄さん」
扉がそっと閉じる音がして、部屋に静けさが戻る。
窓の向こう、夜の帳が濃く降りていた。
けれど、胸の奥にはまだ、熱が残っていた。
***
翌日、正午前。
静まり返った廊下に、革靴の音が一つ、吸い込まれていく。
リュシアンの寝室の扉に手をかけようとした、その瞬間――
「……お控えください、セシル殿下」
ぬるりと影のように立ち塞がったのは、黒衣の騎士。レオだった。
その瞳には、微塵の揺らぎもない。
「ご公務に差し支えます。殿下には、どうかご退室を」
レオの声は丁寧で、低く、しかし剣を帯びていた。
「……ずいぶんな忠義心だな。弟一人、見舞うことすら赦されないのか?」
セシルの言葉に、レオは瞬きひとつしなかった。ただ、その目は、氷のように冷たい光を宿していた。
「それほどまでに、私には“監視される理由”があると?」
セシルが探るように問うと、レオはふ、と口角を上げた。けれど、笑っていなかった。
「――あなたが“正常”であるというのなら、それで結構です」
ひたり、と空気が凍りついた。
セシルはすぐには言葉を返さなかった。ただ静かにレオを見つめ、目を細める。そして一つ、深く息を吐く。
「……この件は、陛下に報告させてもらうよ」
そう告げたセシルに、レオは一歩も退かなかった。
「ええ。それが“殿下のご判断”であるならば、私には止められません」
一見丁寧な物言いだ。だがその奥に、明確な“挑発”があった。
まるで、“報告すれば、どうなるかはお察しでしょう?”とでも言うかのように。
静かに背を向け、歩き去るセシル。その足音が遠ざかるなか、扉の前に残されたレオの拳が、かすかに震えていた。
(……あと一言でも、兄さんの名を口にされていたら――)
自らの喉元を掻き切らぬよう、レオはゆっくりと息を吐く。
騎士の仮面を被っていなければ、たった今ここで“誤って”剣を抜いていただろう。
……そうなれば、全てが壊れていた。
翌日、再びリュシアンの寝室の扉の前にセシルは立っていた。軽くノックをすると、扉の内側で衣擦れの音がした。
開いたのは、漆黒の礼装に身を包んだ青年――レオだった。
「……ご足労、痛み入ります。リュシアン様の容態に変化はありません」
声は冷静だった。だがその瞳は、見間違うはずもない――敵意に染まっていた。
「それは良かった。だが本日は、容態とは別の話で来た」
セシルの声はあくまで柔らかい。だが、その手に抱えた文書が告げる事実は、冷酷だった。
「本日付で、君はリュシアン付きの侍従を解かれる」
静かな一言に、空気が凍る。
レオは微動だにしなかった。だが、セシルは見逃さなかった。
その白手袋の下、拳が静かに、わなないていたことを。
「陛下の判断だ。私情ではない。……理解してくれ」
「理解はしました。納得はしておりませんが」
初めて、レオが目を細めた。
それは“忠義の騎士”の表情ではなかった。
――まるで、王族を断罪する“死刑執行人”のようだった。
「……王命に背くつもりはありません。ですが――この決定が、リュシアン様の望まぬものであることだけは、お忘れなきように」
その声は、氷のように冷たかった。敬語の裏に隠された警告と怨嗟の刃。
セシルは答えなかった。ただ静かに一礼し、踵を返す。
廊下に残されたレオは、一歩も動かず、扉の前に立ち尽くしていた。
――その視線の先、背を向けた兄の姿を、断罪者の眼で射抜きながら。
***
「……兄さん、まだ少し熱はありますが、脈も落ち着いてきました。でもまだ安静になさって下さい」
しん……と静まり返った寝室に、レオの穏やかな声が響く。
その声だけが妙に耳に残る。いや、反響している気がした。
けれど、どこか心地よくて、俺は逆らえずにベッドに身を預けていた。
冷たいタオルが額にそっと触れる。
レオの微笑みは、まるで慈母のように穏やかで、完璧だった。
だけど。
その手のひらは、うっすらと震えていた。
「食欲が戻られないのではと、厨房にお願いして、少しだけ消化の良いものを頼みました」
そう言って微笑むレオの表情に、どこか影があるような気がしたけれど、熱に浮かされた頭ではうまく考えられなかった。
やがて、温かな香りを運ぶ蒸気とともに、小さな器が運ばれてくる。
ポタージュのようなとろりとしたスープ。見た目はやさしく、どこか懐かしい匂いがした。
「……自分で食べられるよ」
手を伸ばしかけた俺の指を、レオがそっと止めた。
彼の手は冷たくて、やさしかった。
「こんな時くらい……甘えてください」
微笑むレオの目が、ほんの一瞬、揺れた気がした。
でもそれはたぶん、俺の目の焦点が合っていなかっただけだ。
口元に運ばれたスプーンを、素直に受け取る。
ひとくち、口に含むと――
(……美味しい)
それだけで、心がほぐれる気がした。
次のひとくちは、もう少し深く味わって、そしてまたひとくち。
穏やかで、どこか懐かしい味がする。
塩気と甘みのバランスが絶妙で、喉をすんなり通っていく。
レオは黙って、淡々とスプーンを運び続けた。
その所作は、まるで祈りのように静かで、ひたすらにやさしい。
気づけば、皿の底が見えていた。
レオは最後のひとくちをすくい上げ、静かに俺の口元へ運ぶ。
それを飲み込んだ瞬間、ふっと――
意識が、揺らいだ。
「……なんだか……眠くなってきた……」
「ええ。ゆっくり、お休みください」
「……レオ……」
「……はい」
「……ありがとう……」
視界が、ゆっくりと霞んでいく。
その瞳に映るのは、ただ一人――レオの姿だけだった。
瞼が重くなる。けれど、不思議と怖くはなかった。
肌を撫でる日差しが心地よくて、今ならこのまま――
レオは、絡め取ったリュシアンの指先に、そっと唇を寄せる。
一本、また一本。
丁寧に、まるで指輪でも嵌めるかのように。
爪の先に舌先が触れる。なぞる。
その形を、温度を、匂いすら記憶に刻み込むように。
咥えるように唇を這わせながら、息を深く吸い込む。
そのまま手の甲から腕へ――なぞるように、口づけていく。
ピクリと、リュシアンの指がかすかに動いた。
そのわずかな反応が、レオの目を潤ませる。
「……まだ、君はここにいる」
囁きにも似た独白のように呟き、レオはその手を胸に引き寄せる。
頬を擦り寄せ、唇で肌をなぞり、肩先へ、鎖骨へ――
舌先が静かに、その輪郭をなぞる。
ぞくり、と背筋を撫でるような感触が残る。
温度が奪われていくのを、必死に覆い隠すように、何度も口づけを落とす。
「綺麗です……ずっと、こんなにも……」
その声には、抑えようのない熱がにじんでいた。
手のひらが頬を撫で、喉元に沿って滑り降りる。
唇は耳元に触れ、熱い吐息が落ちる。
肌の奥まで焼きつけるように、口づけを重ねるたび、
レオの指先は少しずつ、リュシアンの衣服をほどいてゆく。
露わになった肌に、迷いのない舌が触れる。
音も立てず、けれど貪欲に。
唇は鎖骨を辿り、胸元を這い、やがて腹部へと落ちていく。
吐息が肌にかかるたび、過ぎゆく温もりをひとつでも多く刻みつけるように――
静かに、繰り返し、愛撫を重ねた。
「いまだけ……せめて、この体がまだあたたかいうちに……」
愛している。
狂おしいほど。
誰よりも、何よりも。
その唇は、口づけるたびに名残を惜しむように深くなり、
その指は、震えながらも執拗に肌を辿る。
リュシアンが目を閉じていても、感じるように、
もう何も言わなくても、伝わるように。
自らの頬を、リュシアンの胸にすり寄せる。
鼻を深く埋める。
香りを、温もりを、鼓動の記憶を――ひとつでも逃がすまいと、貪るように抱きしめた。
わずかに開いたリュシアンの唇へ、何度も深く口づける。
その舌が開いた口腔をなぞるその仕草は、まるで口移しで命を渡そうとでもしているようで。
けれど、それはもう届かない。
――呼吸が、静かに、止まった。
それでもなお、レオの愛撫は止まなかった。
冷たくなりつつある身体に、なおも「愛している」と伝えるように、肌を這い、息を吹きかけ、舌を落とし、唇を重ねる。
執着も、祈りも、悲しみも、欲望も、全てがそこに込められていた。
彼の愛は、すでに狂気の域にありながら、どこまでも静かで、優しく、美しかった。
その唇に、そっと指を這わせる。
わずかに開かれた口元に、自らの指先を押し入れ、形を確かめるように撫でる。
やわらかく、吸い付くような質感。
かつて声を紡ぎ、名を呼んだ場所。
レオはポケットから小さなガラス瓶を取り出し、躊躇なくそれを己の喉へ流し込む。
そして――
まだ温もりの残るその胸元に、頬を寄せる。
鼻先を、彼の鎖骨に、肩に、髪に埋めて、深く吸い込む。
その香りを、肌の熱を、記憶に焼きつけるように。
「……やっと……一緒に、なれますね……」
最後の言葉は、唇にすがるような囁きだった。
レオはそっとリュシアンの手を取り、そこに口づけた。
もう脈はない。けれど――
たとえ冷えてゆくこの身体が、
骨の奥から崩れてゆくとしても。
この手を、離すつもりはなかった。
静寂の中、彼の涙だけが、なおも――
熱を帯びて、頬を伝っていた。
BAD END:奈落の花嫁
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