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第9話 弟の愛が重すぎて見えなくなりました③※視力喪失、微R
俺の視界は、未だに闇のままだった。
重たい布の感触――いや、違う。これは包帯か。眼窩を塞ぐそれが、微かな痛みと共に俺の鼓動を早めていた。
「兄さん、起きてますか?」
耳元で、あの声がした。
柔らかくて、優しくて、けれどもう俺には、その響きだけで背筋が震える。
「……レオ」
喉が渇いている。息を呑んだだけで咳き込みそうになって、それでも彼の気配が近づいてきたのが分かった。
足音はない。多分もう、すぐ傍にいる。
「今日は……ちゃんと朝ごはん、食べてくださいね。兄さんの好きな、あれ……つくっておきましたから」
言葉の終わりに、そっと何かが触れた。
首筋に、冷えた指先。
ぞくりと背中を伝う感覚。俺の全神経が、肌の一点に集中する。
「ふっ……!」
思わず身体をこわばらせた俺を、レオの指先がなぞっていく。
首から鎖骨へ、鎖骨から胸元へ。指先は肌の上を淡く、けれど確かに触れてきて――
「こわいですか?」
囁きが耳元に落ちる。
その息が、俺の耳殻を掠めた瞬間、心臓が跳ねた。
怖い。だけど。
「レオ……どうして……こんな……」
「兄さんが悪いんですよ」
唇が、触れた。
額に。目元に。何も見えない瞼の上に、熱のように押し当てられる柔らかな感触。
「アレクシスの方を見た。話した。笑った。……俺以外の人に、心を向けた」
ひとつひとつの言葉が、罪状のように告げられていく。
そのたびに、指先が肌のどこかを優しく撫でる。
呼吸が苦しい。なのに、抗えない。
「もう、見えなくても大丈夫ですよ。
兄さんの世界には、俺だけいればいいんです」
耳の奥に届く声が、甘くて、冷たい毒のようだった。
声と、指先と、唇だけで支配されていく。
見えないはずの世界が、レオの声だけで染まっていく。
「大丈夫……ぜんぶ、俺がやってあげますからね」
指先が、俺の胸の中心に触れた。
目が見えない分、感覚だけが研ぎ澄まされていく。
その手がどこを這い、どこで止まるのか――わからない。わからないのに、全部感じてしまう。
嗚呼。
怖い。怖いのに、
この声に縋ってしまいたくなる。
この手に抱かれてしまえば、何も考えずに済む――
そんな誘惑が、闇のなかで甘く、俺を包み込んでいく。
「兄さんの肌、まだ……ちゃんとあったかいですね」
ぽつりと呟かれた声は、まるで独り言のようだった。
でも、俺にしっかり届いていた。
「……それは、生きてるからだよ」
冗談めかして言ったつもりだったのに、声が震えていた。
包帯の下の空虚が、じわじわと広がっていく。
「うん、知ってます。……だから、こうして触れてるんです」
レオの指先が、また胸元に戻ってくる。
まるでその熱を確かめるように、掌がそっと俺の体温に重なる。
「兄さんの全部……俺のものですよね?」
その問いに、俺は何も言えなかった。
怖くて、言えなかったんじゃない。
その声音が、あまりに優しすぎたから。
甘やかで、まるで恋人に囁くようで――あの頃、前世のゲームで憧れた“レオの愛”そのままで。
「ねえ、何も見えないなら……俺の声だけ聞いてて。
俺の指だけ、感じてて……他には何も、いらないでしょう?」
熱を含んだ囁きが、額をなぞる唇の温度と重なる。
レオは俺の頬に触れ、包帯の隙間から髪を撫で、
そのまま、手を添えるようにして俺の口元をなぞった。
「ここ……俺にしか、キスさせちゃダメですよ?」
唇に触れたその一瞬。
全身にびり、と電気が走った。
怖いはずなのに。
なのに、たまらなく甘くて、
脳がふわふわしてくる。
――怖い。
でも、嫌じゃない。
ああ、これはきっと罠だ。
「好きですよ、兄さん。
だいすき……可愛い兄さん。ずっと、俺のそばにいてくださいね」
見えない世界のなかで、
レオの言葉だけが光だった。
何も見えない俺にとって、
その声と、優しい手のひらと、柔らかなキスだけが――
もう、全てだった。
息が、近い。
唇が、喉仏をなぞっていく。
見えないことが、こんなにも感覚を研ぎ澄ませるなんて――。
レオの指が鎖骨をなぞるように触れたとき、俺の背筋がぞくりと震えた。
何かを確かめるように、指先が執拗に骨のラインを辿っていく。
そのたびに、どくどくと体温が上がるのが自分でも分かった。
「兄さん、少し……熱くなってきましたね」
くす、と笑うレオの声が、耳元に這う。
その笑い声すら、肌の上を舐めていくみたいで――息が詰まりそうだった。
「もっと……感じて。俺のことだけ、覚えてて」
指先が肌を撫でるたびに、痺れるような感覚が走る。
押しつけるでもなく、乱暴でもなく。
ただ丁寧に、慈しむように触れてくるその動きが、かえって怖い。
……なのに、堪らなかった。
「ね、兄さん……首、少しだけ傾けて?」
言われるがままに首を傾けた瞬間、
レオの唇が、耳の裏を甘く食むように吸った。
「……っん……ぁ……」
漏れた声に、自分でも驚く。
なのにレオは、すぐに嬉しそうに笑った。
「可愛い声……もっと聞かせて。俺だけの、兄さんの声……」
首筋にレオの手が添えられる。
軽く、けれど確かに――喉元を締め上げるような力。
けれどそれは、まるでキスを深くするための前戯のように、甘く、ゆるやかで。
怖いはずなのに、そこから逃れられない。
その手の圧と、唇の熱と、耳元で囁かれる低い声。
見えない世界のなかで、俺の感覚はそれだけになっていた。
「大丈夫……ちゃんと息、できてるでしょう? ねえ……感じて」
「っ……レオ……っ、もう、やめ……」
「やめませんよ。だって……兄さん、感じてる」
レオの指が、俺の唇の端をなぞる。
吐息に濡れた唇を、もう一度深く塞がれた。
柔らかく、けれど逃がさないキス。
奥へ、奥へと誘うように。
甘く舌を絡められて、体の芯が痺れる。
「俺だけ、見て。いや、もう見えないなら……俺だけ、感じてればいい」
レオの声が、体の奥まで染みこんでくる。
もう何も見えない。
見えなくてもいい。
――レオの声と、レオの手と、レオの口づけがあれば。
それが、俺のすべてになっていく。
喉元をゆるやかに締め上げていた手が、そっと緩められた。
「……っ、は……ぁ……」
潤んだ吐息が零れた瞬間、またレオの唇が重なる。
まるで命のように、キスだけが、俺を生かしている。
レオの舌が俺の口腔を丁寧に探りながら、吐息の奥へと絡み込んでくる。
見えないせいか、感覚が異様に鋭くて――
舌が触れるだけで、震えそうだった。
「兄さん、柔らかいですね……やっぱり、俺だけのものだ」
耳元で囁く声が、甘く喉奥を揺らす。
熱くて、優しくて、でも、どこか狂っていて。
それが、もう抗えないほど――心地いい。
「……っレオ……もう、わかんない……っ」
「わかんなくていいんです。考えるのも、見るのも……俺が代わりに全部してあげますから」
今度は、鎖骨の下を指がゆっくりなぞる。
震える胸元をなだめるように、愛撫は続いた。
肌がふるえ、感覚が皮膚に張りつくみたいに過敏になっていく。
ひとさし指の腹が胸を撫で、親指がやわらかく転がしてくると、
背中が自然に反った。
「……や、ぁ……そこ……」
「感じてる声、可愛い……ねえ、もっと甘く鳴いてくださいよ。兄さんの全部を、俺の音で満たしたいんです」
言葉の端々に滲む、支配と渇望。
なのにその声音は、まるで聖者の祈りのように優しくて――怖いくらいに美しい。
ベッドのきしむ音すら、微かに感じる。
誰にも見えない、暗い世界。
でも、レオの声がある。
レオの指が、ある。
レオの熱が、ある。
それが、俺のすべて。
「お願い、もっと……」
自分でも、どうしてそんなことを言ってしまったのか分からなかった。
けれど、レオはすぐに応える。
吐息を唇に落としながら、今度はゆっくりと腰を撫でてくる。
着ていた寝衣をいつの間にか剥がされ、素肌の上に、熱を帯びた掌が這う。
熱い。
怖い。
でも、気持ちいい。
視界を閉ざされているからこそ、音と温度、匂い――
すべてが強く染みつく。
「大丈夫。兄さんは感じてればいい。声を出して、俺に委ねて、ぜんぶ……預けて」
そう囁いたレオが、指先を深く滑り込ませた瞬間――
意識の輪郭が、かすれた。
痛みより、快楽が先に走った。
知らない場所をくすぐられて、息が詰まる。
声を殺そうとしたのに、喉から甘い音が漏れる。
「っ……や、レオ……そこ、やば……っ」
「やばい、じゃなくて……気持ちいいんでしょう? もっと欲しいって、ちゃんと言って」
「……しい、……欲しい……レオ、……もっと……」
求める言葉が、嘘みたいに口からこぼれる。
どこかで「おかしい」と思っているはずなのに、
快楽がそれを押し流す。
レオの声に、触れるたびに溶けていく。
何度も、何度も――中を愛撫され、口付けられ、
そのたびに何かが壊れていった。
もう、戻れない。
だけどそれでも、レオの腕の中で溺れていた。
「兄さん、好きです。世界の全部を壊しても……あなた一人が感じていてくれるなら、それでいい」
壊れた声。
歪んだ愛。
だけど、それが俺を包んで、
俺を救って――同時に、堕としていった。
甘く、深く、狂おしいほどに。
目が覚めた瞬間、また暗闇だった。
でも、もう驚かない。
昨日のことが、夢じゃなかったと、すぐに分かったから。
視界がなくなっても、肌が、耳が、匂いが、時間の流れを教えてくれる。
そして何より、ベッドの端に座っている気配が――レオが、ずっとそばにいることを。
「おはようございます、兄さん」
静かに囁かれたその声は、あまりにもやさしくて、昨日あれほど俺を壊した相手とは思えなかった。
「……レオ、朝……?」
「はい。今日はもう誰も会わせません。兄さんはここにいればいい」
「……誰も?」
「ええ。光も、声も、兄さんにはもう必要ない。兄さんが感じる世界は、俺だけでいいんです」
静かすぎる声音。けれどその中には、決して逆らえないような圧が滲んでいた。
「兄さん、あなたは“選ばれた”んです。俺の世界の、中心に」
いつのまにかシーツの上に乗ってきた体が、ふわりと俺の手を包む。
その指先を、彼は愛おしげに唇でなぞり、ひとつひとつ丁寧に口づけていった。
「ねえ兄さん、これが目の代わりです。俺の声と、触れる指先。これで世界を見てください」
「レオ……」
「兄さんが俺を見てくれないなら、世界のすべてを捨てます。でも兄さんが俺を感じてくれるなら、それでいい」
声に、微かに熱が滲む。
悲しみでも、怒りでもない。もっと深くて――もっと純粋に歪んだ、愛の音。
「王子の仕事なんて、もういいでしょう? 誰にも兄さんを見せたくないんです。誰にも触らせたくない。声すら、聞かせたくない」
「そんな……だって、俺には――」
「俺がいます」
食い気味に、否定するように囁かれた。
そして、唇が耳をなぞる。
「俺が、見せます。聞かせます。感じさせます。全部、俺が教えるから……もう、俺だけでいいでしょう?」
甘い声。
けれどその手は、俺の足首に革紐を巻いていた。
「っ……レオ……!?」
「大丈夫、兄さん。これはお守りです。兄さんが俺のそばにいるための。ね?」
ふわりと微笑む声に、なぜか逆らえなかった。
息を呑む。
だめだと分かっているのに、俺の体は震えるだけで、何もできない。
「俺がいれば、いいんですよ。兄さん」
「……レオ……お前……」
「好きです。どうしようもないくらい、好きです」
その言葉が、視界のない世界に甘く沈んだ。
そしてまた、彼の手が俺を撫で始める。
暗闇の中で感じる熱、声、指、すべてがレオだけのもの。
“兄さん”と呼ばれるたびに、快楽の波が押し寄せて、
もう、どうすればいいのか、分からなかった。
誰か助けて、なんて、もう思い出せない。
だってこの世界には、もうレオしかいないから。
最初のうちは、時間の感覚が残っていた。
たとえば食事の回数とか、寝起きのリズムとか、レオの気配が離れる時間の長さで。
でもそれすら、いつの間にか曖昧になった。
気づけば、俺の一日は「レオがくるかどうか」でしか区切れなくなっていた。
「おはようございます、兄さん。今日は寒いですね」
「うん……レオ、来てくれたんだ」
「ええ。少しも離れませんよ。兄さんが一人にならないように、ずっと一緒にいます」
その言葉が、あんなに怖かったのに。
今では、妙に安心する自分がいた。
目隠しはもう外れない。何度か暴れたり叫んだりもしたような気がするけど、そのたびにレオは悲しそうな声で言った。
『どうしてそんなことを言うんですか? 俺だけは、兄さんの味方なのに』
それが、地味に効いた。
俺は、どこかでずっと「信じたかった」のかもしれない。
“この狂った世界で、レオだけが味方だ”と。
それは甘くて、でも危険な逃避だった。
気づけば、手足の拘束にも慣れていた。
慣れるっていうのは怖い。
最初は何とかほどこうとしていた革紐も、今では「これがないと不安になる」くらいで――。
「兄さん。そろそろ、お身体、触れてもいいですか?」
「……うん」
自分の口から出たその言葉に、どこかで警鐘が鳴る。
でももう遅かった。
レオの手が、喉を撫でる。
細く冷たい指先は、少しずつ熱を帯びて、俺の皮膚に記憶を刻んでいく。
ゆっくりと、愛おしそうに、壊れた宝物を扱うように。
「兄さんは俺のものです。世界にいらない。俺だけがいればいい」
「……そうかも、しれないな……」
「そうです。兄さんはもう、俺が見せる夢の中で、生きていけばいい」
「うん……レオの声があれば、俺は……」
それはもう、呟きというよりも、祈りのようだった。
レオの声がない時間は、闇が染みてくる。
誰の顔も思い出せない。
王宮も、騎士団も、アレクシスも、子どもたちも――遠い夢の中の話みたいで、現実味がない。
けれどレオの声だけは、鮮やかに胸を打つ。
愛してる、愛してる、ずっと一緒だよ――と囁くその声に、
俺は少しずつ、自分の意志すら手放していった。
思考を奪われ、感覚を縛られ、自由を剥ぎ取られて、
でもそれが「愛されてる証」と思ってしまった時点で、もう戻れなかった。
いつからか、俺はレオの手を、自分から探すようになっていた。
「レオ……声、聞かせて」
「はい、兄さん」
唇に、優しくキスが落ちる。
「あなたのすべては、俺のもの。俺の声が、あなたの世界のすべてです」
そう言われるたび、涙が出そうになる。
何の涙なのかは、もう分からなかった。
だけどその声を、手を、体温を、
拒むことだけは、できなかった。
「……レオ、まだ……いる?」
「ええ。兄さんが眠っても、俺はずっとそばにいますよ」
声だけが、世界の輪郭だった。
目を閉じたまま生きることに、最初は絶望していたはずなのに。
今では、光のない世界が、心地よくすらあった。
触れられることが、怖くてたまらなかったのに。
いま、こうして、そっと喉元を撫でられるだけで、
俺の呼吸は、熱を帯び始める。
「レオ……そこ……やだ、って……」
「嫌ではないですよね? 兄さんの体は……嘘をつけない」
その言葉と同時に、唇が首筋に這う。
耳元で囁かれた瞬間、ぞくりと背筋が反応した。
何度も繰り返された愛撫。
体のどこをどう触れれば、俺がどんな声を漏らすか、
レオはすべてを知っている。
指先が、肌の上をなぞるだけで、
もう、甘い痺れが走って――頭が、白くなっていく。
「や……んっ、そんな、とこ……」
「声、可愛いです。……ほら、もっと感じて。兄さんは、感じるために、生きていいんですよ」
冷たい声のくせに、くすぐるように甘くて、抗えない。
くすぶるような熱が、喉の奥から漏れ出して、
声が、勝手に、縋るようにレオの名前を呼んでしまう。
「レオ……レオ……っ、お願い……」
なにを? なにをお願いしてる?
やめてほしいのか、それとも――もっと?
「兄さんの願いは、全部叶えます。俺が、全部教えてあげる。……生きることも、愛されることも、快楽も、全部――」
何度も何度も与えられたその感覚は、
もはや“刺激”ではなく、“報酬”だった。
それがないと、心が渇いてしまう。
レオの声も、キスも、触れる手も、
どれか一つでも失うのが怖くて――
「ねぇ、レオ……今日も、いっぱい、して……」
そう口にしてしまった瞬間、
自分のなかでなにかが決定的に壊れたと、わかった。
でも、それがどうでもよくなっていた。
怖さも、羞恥も、境界線も、もう全部。
レオの声が優しく「はい、兄さん」と返ってきたのを最後に、
なにも考えられなくなった。
甘くて、あたたかくて、
まるで溶けてしまうような感覚に身を任せながら、
ただ静かに、静かに、沈んでいく――
まるで、
リュシアンという存在が、
この夜の底に、やさしく葬られたようだった。
BAD END:暗室の葬送
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