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第11話 眠れる蝶は弟の夢を見る②
白く霞む空の下、俺は異国の王城の裏庭に立っていた。
砂漠とオアシスの国・ラザール王国。
豪奢な装飾が施された城壁の向こうには、果てのない赤土の大地が広がっている。
「遠路ご苦労だったな。今日のところは、ゆっくりと休んでくれ」
「ありがとうございます。……こちらの空気は、少し乾燥しているんですね」
そう口にしたとき、俺は思わず隣に目をやった。
レオはいつも通り、少し後ろに控えていたが──
その視線が、俺ではなくジハードをまっすぐに見ているのに気づいた。
微笑んでいるわけでも、睨んでいるわけでもない。
ただ、静かに、冷たく、観察するように。
まるで、「これ以上、近づくな」とでも言いたげな、無言の圧。
──そして。
ジハードはその視線を受け止めた。
ほんの一瞬、何かを見透かすように視線を返し、唇に意味深な笑みを浮かべる。
火花のような沈黙が、ほんの一瞬だけ俺たち三人の間に走った気がした。
(あ、これはもうバチバチ始まってるやつ……!)
「明日になれば、この国の空の匂いにも慣れるさ」
「……楽しみにしております」
口ではそう返しながら、俺の背にぞくりと冷たいものが走った。
誰がどう見ても、これはもう完全に火蓋が切って落とされた。俺の知らないところで、攻略対象同士が火花散らしてる。しかも俺、ど真ん中。
……頼むから、平和な観光旅行のフリを続けてくれ、俺のフラグ。
“無言の帰国”──そんな洒落にならないオチだけは、マジで勘弁だ。
旅の疲れを癒してください──そう案内されたのは、絢爛たる王宮の奥、まるで神殿のような大理石造りの湯殿だった。
天井まで届く柱、湯気の立ち昇る湯船、香油と花びらが浮かぶ泉のような浴槽。
まるで異国の楽園。俺はただ、ぽかんと立ち尽くすしかなかった。
「では、こちらでお脱ぎくださいませ」
声をかけてきたのは、艶やかな黒髪の侍女だった。
その手が、まるで呼吸するように自然に──俺の上着の紐を解き始める。
「えっ、ちょ、待っ──!?」
「リュシアン様」
今度は、正面から声がかかった。
振り向けば、褐色の肌を持つ青年が一礼していた。短く刈られた髪、露出多めの布装に、鍛えられた体躯。
「私は礼浴士と申します。沐浴には付き添いが付くのが、当国の風習でして──」
「いや、あの、ひとりで洗えるよ!? ほんと、何ならシャワーでも!」
「王族への敬意ですので。どうか、お気になさらず」
にっこり微笑むその顔には、断れない文化マウントの気配が宿っていた。
(なんで風呂に文化の壁が立ちはだかるの……!?)
俺がまごまごしているうちに、彼は器用に泡立てた香草の石鹸を手に、俺の肩へと手を伸ばし──
「……何をしているのですか」
低く冷ややかな声が、湯気の奥から届いた。
見れば、そこにはいつの間にか現れたレオ。淡々と歩み寄りながら、右手をふわりと上げる。
「へ──?」
青年が振り返った瞬間、レオの手から何かが閃いた。
かすかな音。肌を裂くような空気の切れ。
青年の首元に、まるで蚊の羽音のように、銀色の針が突き刺さる。
「っ──」
青年が瞬時に崩れ落ちた。
苦しむでもなく、ただ静かに、意識を失ったように。
「え、ちょっ、今の何!? ねぇレオ!? 今の何入れたの!? 血が出てないから余計怖いんだけど!?」
「安心してください。植物性の麻酔です。副作用はありません。……王族護衛用、正式装備です」
俺は湯船から慌てて出ようとするが、全裸に泡付きという状態ゆえ動けず、ただ湯の中でもがくしかできなかった。
「兄さんが触れられるのを見て、つい反応してしまいました」
レオは一切悪びれることなく、青年の気絶した身体を横に寄せると、タオルを掛けてやる。
(やめて!?妙な優しさが逆にホラー!!)
「……代わりに、私がやります」
「待ってレオ! やらなくていい!! というか今の完全に事件だから!! 外交問題になっ──」
「王子には許可を取っています。“万が一の場合はレオに任せていい”と」
(ジハードおおおおお!!!!)
「他国の者に、兄さんの肌を見せるわけにはいきません」
湯縁に近づいてきたレオが、淡々と言い放つ。
「無理、無理無理無理、むりむりむり──」
(なんで俺、逃げ場ないの!?)
レオが湯船に入ってきていた。――執事服のままで。
「お気になさらず。湯加減の調整を見たかっただけです」
シャツも、ジャケットも、ネクタイさえ締まったまま。
濡れた布がぴたりと身体に貼りついている。
なのに、彼はいつも通りの顔で、そこに立っていた。
「やらなくていいから!? いや本当に、洗わなくていい、泡流すだけで──ってうわああっ」
レオが俺の背後に回り、両肩にそっと泡を乗せる。
しかもなんか手慣れてて、無駄に丁寧。指先がゆっくり肩甲骨のあたりをなぞるたび、ぞわぞわと変な感覚が走った。
濡れた前髪の隙間から覗く瞳が、どこか獣じみた熱を孕んでいて。
見透かされている気がして、ぞくりと背中が震えた。
その手が伸びてくる。
濡れた手袋越しに、俺の肩を撫でる。
泡の上から、ゆっくり、撫でるように――いや、確かめるように。
「……ここで触れたら、兄さんはもう、俺から逃げられなくなりますよ」
声が低くて、静かで。
けれど、心の奥を掴まれたように、息が止まりそうになった。
何かが壊れる。そんな予感がした。
だけど、レオは次の瞬間、すっと手を引いた。
そして湯桶を手に取ると、何事もなかったかのように、俺の肩の泡を流す。
淡々と、丁寧に。いつもと同じような仕草で。
けれど――
その指先の動きには、ほんの少しだけ力がこもっていた。
彼の視線が肌に触れるたび、心臓が跳ねる。
その中に潜んでいるものが、俺を“見ている”からだ。
今はまだ触れない。
けれど、きっと――次は、もう。
レオの瞳がそう告げていた。
(ダメだ、風呂なのに全然疲れが癒えなかった……)
***
朝になり、薄明かりの差し込む部屋の窓を開けると、乾いた風が一気に頬をなでていった。
淡く香草のような匂いが混じる空気は、まだこの国の空気に慣れない肺には少し軽すぎる気がする。
──今日から、この異国での滞在が本格的に始まる。
身支度を整え、階下に降りると、既にレオが玄関前で待機していた。
深い青の詰襟服に身を包み、背筋を伸ばして立つ彼は、どう見ても「見習い」の域を越えている。
ただ、その視線だけは、主を見守る従者というより、何か──猛獣のような気配すら孕んでいて、思わず視線を逸らした。
「おはようございます、兄さん。お体の調子は問題ありませんか?」
「……あ、ああ。よく眠れた」
(ああ〜〜、もうっ、風呂での出来事が頭をチラつく……!!)
一礼した彼に軽く頷き返し、屋外に出る。
途端に、肌を焼くような陽光と、広がる青空に目を細めた。
玄関前に出ると、既にジハードが待っていた。
「さあ、リュシアン。こちらへ」
穏やかに微笑みながら、彼が手綱を持っているのは、巨大な幻獣セントバル。
ふわりと柔らかなクリーム色の毛並み、大きなつぶらな瞳、長い睫毛と二本の角のような耳を持つ、愛らしい草食獣。
「……でっか」
ゲームでも見たことはあるけれど、実物は迫力が違う。そして、なによりもふもふで可愛い。
「安心して。とてもおとなしい。ラザールでは、友好を示す者と共にセントバルに乗るのが慣わしなんだ」
「は、はあ……」
差し出された手に戸惑っていると、ふとその視線の奥に、静かに控える影が映った。
少し離れた場所、セントバルから数歩後ろに、レオが立っていた。
一応は執事見習いとして随行しているはずなのに、今日は「同乗しない」という判断らしい。だが、その双眸はまっすぐに俺を射抜いていた。
(……レオ、見てる……っていうか、たぶん怒ってる……?)
けれど彼は、なにも言わなかった。
あくまで無表情を貫いたまま、静かに付き従っているふりをして。
俺がそっと手を伸ばすと、ジハードにぐいと軽々と持ち上げられ、ふわふわの背中に座らされる。
当然のように、ジハードもその背に続いて乗ってきた。
「えっ、一緒に乗るの?」
「もちろん。ほら、落ちないように……」
腰に回された手に、思わず肩がびくついた。
(ちょっ、距離が近……! いや、これは文化……文化だから……!)
セントバルがゆっくりと歩き出す。思っていたよりも揺れは小さく、まるで船に揺られているような心地だ。
街の外れ、遺跡の高台。
そこから見下ろす風景は、青い空と赤い大地のコントラストが美しく、息を呑むほどだった。
「どうだい、気に入ったかい?」
「……うん。すごく綺麗だ」
「君に見せたかったんだ。……その、君の瞳に映る景色を、僕は見てみたいと思った」
その低くて響く声が、すぐ耳元で囁かれる。
——ち、近すぎる。
ふっと息がかかる距離で、まるで耳に触れそうなほど近くて。思わず首をすくめそうになったのを、ぐっと我慢する。
(これは、もしや……いや、ジハードはもともとこういうキャラだし……この段階ではまだフラグは立っていないはず……!)
そんな言い訳を脳内で繰り返しながら、半ばパニック状態になっていた俺は、ふと、何かの視線を感じた。
セントバルの歩みの隣には、黙ってついてくるレオの姿がある。
深い青の詰襟服。整った顔立ち。冷たい薄灰の瞳。 その瞳が、まっすぐに俺を射抜いていた。
(やだ、レオの視線がめっちゃ痛い。これ……動物的本能が“このままだと死ぬ”って言ってる)
俺はそっと、セントバルの耳を撫でた。落ち着け、自分。これは文化。これは外交。これは——
……命を賭けた綱渡り。
思わずため息を噛み殺しながら、俺は乾いた空に視線を逸らした。
宿舎に戻る頃には、空はすっかり深い群青に染まっていた。乾いた夜風が肌をなで、昼間の喧騒が嘘のように静まり返った廊下を、俺とレオの二人だけが並んで歩く。
いや、正確には俺だけが変にそわそわしている。
(……絶対、怒ってるよな、レオ)
背後に感じた“視線”の余韻が、まだ消えていない。セントバルにジハードと相乗りしていたときも、遺跡の丘で耳元に囁かれたあの声の時も。レオはずっと黙っていて、けれど、まっすぐにこちらを見ていた。
そして今、宿舎の部屋へ入って扉が静かに閉まった瞬間。
「……兄さん」
「な、何かな?」
心なしか、部屋の空気が数度下がった気がする。レオはいつも通り整った所作で俺の外套を受け取り、落ち着いた声で続けた。
「ラザールの王族にしか懐かないはずのセントバルが、あなたには随分と心を開いていたようですね」
ぱちりと瞬きをするレオ。その瞳はやわらかく細められていて、けれどその奥にある色はひんやりとした銀。
「……短い滞在で、どうやってそこまで距離を詰めたのか、興味があります」
その言葉を聞いた瞬間、心臓がどくん、と跳ねた。
「しっ、知らない! 俺は別に何もしてないし! あれはたまたま! ほら、動物に好かれやすいタイプっていうか!」
「ふふ、そういうことにしておきましょうか」
笑ってる。いや、笑ってるけど──目が全然笑ってない!!
(ヒィィィ……絶対怒ってる、やっぱりレオの笑顔は信用できない……!)
その後も、レオはいつも通りの完璧な手際で俺の荷を片づけ、お茶を淹れてくれた。けれど、その所作のひとつひとつが、なぜか妙に怖い。
ティーカップを差し出されたときも、「毒とか入ってないよね……?」と心の中で思ったのはここだけの話だ。
***
翌日。
夜にはラザール王宮主催の晩餐会が開かれるということで、俺は慣れない異国の正装に袖を通し、控室でぼんやりと鏡を見つめていた。
(……はあ。なんで俺、こんな緊張してるんだ)
いっそこのまま逃げ出したい気持ちをぐっと堪えながら、俺は深呼吸をひとつ。
控室の外では、既に絃楽器の音が微かに鳴り始めていた。
──今夜の主賓は、俺だ。
……控室を出て、数歩。焚き火の灯りが目に入った瞬間、ふわりと熱と香りに包まれた。
焚き火を囲むようにして、床に敷かれた絨毯の上には、色とりどりの皿や果物が並んでいた。
低く設えられた卓を囲むように、客人たちは自然と輪になり、思い思いに腰を下ろしている。華やかな装束の裾が揺れ、香辛料と煙の混じった香りが夜気の中にふわりと広がっていた。
どこに座ればいいのか──いや、誰の隣に座ればいいのか。そんなささやかな迷いが俺の足を止めた、その瞬間。
「こっちにおいで、リュシアン」
気づけばジハードが、さらりと手を伸ばしていた。
まるで、それが当然であるかのように。ごく自然な手つきで隣のスペースを空けると、近くの従者に小さく顎をしゃくって、さらっと敷物を整えさせる。
「客人に席を譲るのが、礼儀だろう?」
そう笑った彼の腕が、腰のあたりをゆるくホールドしてきたのは──
完全に“無意識を装った確信犯”だった。
服越しでも、指の位置がいやに生々しい。
逃げようとしても、力を込めずに“離れられないように”囲い込まれている。
……あ、これ俺、また巻き込まれてるやつだ。雰囲気がヤバい。絶対、爆発する前の静けさ。
目を泳がせると、すぐ近くで控えていたレオと目が合った。
彼は、まったく表情を変えなかった。
ただ、ひとつまばたきもせず、俺とジハードの“距離”だけを凝視していた。
まるで、計測するように。
食事が進み、杯がいくつか交わされたあと。
ジハードが、ふと、何気ない調子で口を開いた。
「それにしても、舞踏会の夜――素晴らしかったな。ねえ、リュシアン?」
……いやな予感。
「ふとした弾みで、踊ることになって。けれど、君の肌がすぐ近くにあって……指先が熱かった。あの夜のことは、ずっと忘れられそうにないよ」
レオが、ゆるやかに拳を握るのが、視界の端に入った。
けれど彼は、言葉ひとつ、音ひとつ、零さない。
ジハードが杯を口に運び、横目でちらりとレオを見やった。
「……そういえば、その夜。君は早くに席を外していたよね。
どうしてだろう? もしかして、もう“先を越された”とでも思ったのかな?」
それは明らかな“撃ち込み”だった。
だが、レオは動じなかった。
「……いいえ。私は、兄さんの気分が悪くなる予兆を感じ取ったまでです」
「ふうん。でも、僕と踊ったあとは、“兄さん”……妙に顔を赤くしていた気がするけどな?」
レオの瞳が、すっと細くなる。
そのときだけ、氷のような光が走った。
殺意ではない。ただ、あまりに静かで、底が見えない。
「王子。……そのような“既成事実”を、わざわざ私に語って何になるのでしょうか?」
──“兄さん”。
ジハードが口にしたその言葉に、胸の奥がざわついた。
レオがいつもそう呼ぶたびに感じる、くすぐったくてあたたかな響き。
けれど今のそれは、まるで別物だった。
あえて、誰かの場所を荒らすように。挑発のために選ばれた言葉。
わざとだ。そうとしか思えない。
「へえ? 怒らないんだね。てっきり、また僕の手を払うかと思ったのに」
「怒りなど不要です。あなたの“焦り”は、既に態度に出ていますから」
ほんの一瞬、ジハードの笑みが引き攣った。
だがすぐに取り繕うように、また杯を傾ける。
そして、わざとらしく俺の耳元に口を寄せてきた。
「君の“弟”は、どうしてそんなにピリピリしてるんだろうね?
……まるで、君の身体に自分以外の指紋がついたのが許せない、って顔をしてたよ」
耳元に吐息がかかる。
顔が熱い。けれど、ここで動いたら、レオがまた――!
「──レオ……? お、俺、ちょっと風に当たりたくなってきたかも……」
レオは即座に動いた。
すっと音もなく立ち上がり、俺の前に手を差し出す。
「ご案内します。兄さん、こちらへ」
彼の手に触れた瞬間、体温が跳ねた。
それが怒りか、執着か、何かは分からない。
ただ一つ、確かだったのは。
後ろで微笑んで見送るジハードの瞳に宿っていた光が、完全に“宣戦布告”のそれだったということ。
出窓の縁に腰を下ろすと、冷えた石の感触が、舞踏の熱をゆっくりと鎮めていく。
夜風がカーテンをゆるやかに揺らし、頬を撫でた。
「……すー……はー……」
呼吸を整えるふりをして、心のざわつきを押し込める。
気がつけば、レオがすぐ隣に腰を下ろしていた。
まるでそれが当然であるかのように。
肩と肩が、触れないぎりぎりの距離。
けれど風が吹けば、髪がふわりと交わるくらいの近さ。
しばらく、ふたりで風の音だけを聞いていた。
舞踏会の余韻が遠くで続いている。誰かの笑い声が、ひときわ高く夜に溶けていった。
「ジハード王子……怒ってなかった?」
「どうでしょう」
「“どうでしょう”って……。俺、変なこと言ってなかったかな」
心配になって訊ねると、レオがこちらを向いて、静かに言った。
「兄さんの“変なこと”より……王子の“本気”のほうが、俺には問題です」
「……え?」
思わず顔を上げると、すぐ近くにあったレオの瞳とぶつかった。
いつもより少し、熱を帯びているように見えたのは、気のせいだっただろうか。
でもレオは、何も言わずにそっと目を逸らし、夜の景色を見やった。
「……兄さん。今夜は、踊らなくていいですよ」
「え、でも──」
「俺が嫌なので」
その一言に、心臓が跳ねた。
夜風がまた吹き、レオの髪がさらりと揺れた。
その端が、俺の頬をかすめて、すぐに風にさらわれていった。
ここに来て正解だった。さっきの空気、正直しんどすぎる。レオの横顔はずっと無表情だったけど……あの沈黙の圧、耐えられそうになかった。
「──ここにいたんだね、兄さん」
背後からかけられた声に、ハッとした。
ゆっくり振り返ると、ジハードがそこに立っていた。誰にも気づかれずに来たのだろうか、周囲に気配はない。相変わらず、あの人は人の心の隙間を縫うのがうまい。
「探したよ。君の姿が見えなくなったから、気になってね。こんなふうに風に当たっている君も、綺麗だと思ったけど……」
彼は一歩、近づく。俺の前に、手を差し出しながら微笑んだ。
「まだ、僕と踊ってくれる時間は残っているかな?」
言葉は穏やかだけど、視線の奥には静かな熱がある。拒めない雰囲気。だけど俺が迷いかけたその瞬間──
「お下がりください、王子」
張りつめた声が空気を裂いた。
ぴたりと、時間が止まる。
レオは静かな佇まいのまま、俺とジハードの間に一歩、踏み出してくる。
「兄さんは、お疲れです。これ以上のご無理は、控えていただけますか」
淡々とした口調。でも、レオの目が、ジハードを射抜くように鋭かった。
「……君が、判断することかな?」
ジハードは微笑みを崩さないまま、問い返す。
「兄さんの体調も、心も、すべて私が見ています。それが、私の務めですから」
一瞬、ジハードの微笑が、ほんの少しだけ揺らいだように見えた。
俺は言葉を挟むこともできなかった。
レオの背中が、ぴたりと俺の前に立ちはだかっている。静かに、でも確実に守るように──いや、拒むように。
「兄さんを、誰にも渡す気はありません」
レオの言葉が落ちたあと、しばし沈黙が流れた。
ジハードは、レオの真っ直ぐな視線を受けながら、ふ、と唇の端を上げる。
「……なるほど。随分と手厳しいお付きだ」
軽く肩をすくめ、差し出した手をゆっくりと下ろす。 けれど、その指先にはまだ熱が残っているかのように、なぞるような仕草が添えられていた。
「でも、そういうところも……君らしくて、魅力的だと思うよ、兄さん」
名を呼ぶ声は柔らかく、視線はレオを過ぎて、俺だけをまっすぐに捉えていた。
「また、踊ろう。機会はいくらでもある。君の隣に立つ資格は、まだ誰のものでもないのだから」
そしてジハードは、まるで舞を終えた役者のように、優雅に一礼して身を引いた。
「おやすみ、兄さん。……良い夢を」
夜の闇へと消えていくその背には、未練も怒りも見せず。 ただ、その歩みに漂うのは、獲物を逃さぬ狩人のような静かな執念だった。
俺は、ぐったりと肩を落とした。
──命を落とすことはなかったけど、魂のHPは確実にゼロだ。
ジハードの押しの強さも、レオの静かな圧も、これが“王族の駆け引き”ってやつなのかと思うと、もう胃が痛い。
しかも、どっちが本当に怒ってるのか分からないのが一番こわい。
レオの「俺が嫌なので」の威力、思い出すだけでちょっと心臓が変な音する。
隣に座るレオは、何事もなかったように風に髪をなびかせている。
……いや、なびかせすぎだろ。なんで風にすら気品があるんだ。
──こうして、俺の外交デビューは静かに、しっかり、ぐったりと幕を閉じた。
次にこういう場面があったら、今度こそ逃げずに乗り切ってやる。
……とか思ってはみるけど、まずは明日の朝、目が覚めることを祈ろう。
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