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第12話 眠れる蝶は弟の夢を見る③※薬漬け監禁
ラザール王国から戻って数日後、兄――セシルの執務室に届けられた一通の書状が、すべての空気を変えた。
差出人は、ジハード・アラ・ラザール第一王子。
セシル兄さんが読み上げた文面は、礼儀正しく、外交辞令に満ちていた。
けれど、核心はあまりにもはっきりしていた。
『奇跡の白薔薇である貴国の第三王子、リュシアン殿を“心の后”としてお迎えしたく存じます』
『御身の自由意思を尊重することを前提に、正式に許しを請うものです』
セシル兄さんの声が止まり、室内が一瞬、無音になる。
その場にいた誰もが、言葉を選びかねているのがわかった。
そんな沈黙を、セシル兄さんが簡潔に断ち切る。
「……断る。取り合う必要はない」
淡々とした声音だった。
けれど、俺はその後ろ姿に、わずかな苛立ちと、ほんの少しの迷いを見た。
だが、事態はそれで終わらなかった。
二通目の書状には、別の文言が添えられていた。
『もしリュシアン殿の派遣が難しいのであれば──今後の香辛料交易に関して再交渉の余地を設ける必要がある』
香辛料。
ただの食卓の話ではない。
あれは、王国経済に関わる柱だ。
関税の変動ひとつで、貴族たちの利権が揺れる。つまり──俺という個人の名を通して、ジハードはこの国を“動かそう”としている。
読み上げられたその瞬間、レオの隣に立っていた俺は、彼の呼吸が少しだけ乱れるのを感じた。
「……彼は、本気です」
掠れた声で呟いたレオの横顔は、驚くほど真剣だった。
静かな瞳に宿る焦りを見て、思わず目を逸らしそうになった。
俺のせいだとは、誰も言わない。
でも、誰も否定もしてくれない。
「形式上“后ではない”と強調されたとしても、第一王子の“心の后”という肩書は、他国への影響が大きすぎる」
セシル兄さんの冷静な判断は、正しい。
いつも通りに理知的で、外交官としても、家族としても、頼れる兄だった。
──だけど、俺は、ただ黙っていた。
何を言えばいいのか、わからなかった。
俺は、あの舞踏会で、たった一度踊っただけだ。
それなのに、どうしてこんな風に、国の空気まで変えてしまうのか。
「後悔しているか?」と誰かに聞かれたら、答えに詰まると思う。
でもひとつ、確かなことがある。
ジハードは、踊り方も、恋の仕方も、たぶん……とても、強引だった。
──こうして、俺の外交デビューは静かに、けれど確かに、「事件」となった。
***
玉座の間は、息が詰まるほど静まり返っていた。
兄たちも、レオも、誰一人として言葉を発しない。ただ、王の声だけがゆるやかに響く。
「この申し出は、もはや一王子の恋慕に留まらぬ。我が国にとっても、極めて重要な分岐点となろう」
父の声は、淡々としていた。感情の波がない分、それが命令であることを誰もが察した。
「リュシアン。お前には、ラザール王国への再訪を命じる」
頭の中で、何かが音を立てて崩れた気がした。
「……それは、后として、という意味ですか」
声が出た自分に驚いた。震えてなどいないはずだと、必死に自分に言い聞かせた。
王は、目を細めて小さく首を振った。
「あくまで“外交使節”としての派遣である。だが、先方の意志が固い以上、相応の礼は尽くす必要があるだろう。誤解を避けるためにも、お前の立場を明確にせねばならん」
体の奥で、冷たいものが広がっていく。
——これは建前だ。
形を整えたうえで、ジハードの手に俺を渡す。最初から、そう決まっていたような語り口だった。
壁際に控えるレオが、小さく息を呑んだのが聞こえた。
そちらに視線を向ければ、レオはほんの一瞬、拳を握りしめていた。
だが、それもすぐにほどかれて、何事もなかったように静かに立っている。
何も言わなかった。……言えなかったのだろう。
セシル兄さんは、何かを言いかけて、やはり飲み込んだ。
「……御意に」
そう応えたのは、俺だった。
きっと、ここで拒めば、誰かが代わりに傷つく。
兄さんやレオの立場を崩さないための、俺の役目なのだと。
そう自分に言い聞かせながら、俺は静かに、頭を垂れた。
夜半、寝室の扉が静かに閉じられる音がした。
身を投げ出すようにベッドに腰を下ろしていた俺の前に、レオが立っていた。壁際で控えていたあのときとは違う。足音ひとつ立てず、けれど確かにここにいる。
「兄さんは、本当にそれで良いんですか?」
低い声だった。だが、怒っていた。静かに、けれど紛れもなく怒っている声音だった。
「……良いわけ、ないよ」
そう言うだけで喉が詰まる。
笑ってごまかせるような話じゃなかった。目を逸らすのも、もう限界だった。
「でも……仕方がないんだ。俺に選ぶ権利なんてない。始めから、そんなもの──」
「……仕方がないから、兄さんが他の男に抱かれるのを、黙って見てろってことですか?」
レオの声が、ほんの少しだけ震えた。抑え込んでいる分、余計に刺さる。
「……っ、そんな言い方、ないだろ……!」
気づけば、声を上げていた。
胸の内がざわついて、熱くて、苦しくて。ぐしゃぐしゃになって、言葉にならない。
「俺だって……どうしたら良いか分かんないんだよ……!」
止まらなかった。
流れるものを自分でぬぐうことすらできなかった。情けなさも、悔しさも、混ざっていて──
泣いていた。
それが何の涙なのか、自分でも分からなかった。
「……ごめん。一人にして……」
ベッドにうつ伏せるようにして、顔を隠した。これ以上、見られたくなかった。
けれど、次の言葉が、すぐに降ってきた。
「……嫌です」
はっきりと。迷いのない声だった。
背後でレオの足音が近づいて、そっと、背に体温が寄り添う。
「泣いてる兄さんを一人にできるわけないじゃないですか」
肩に触れる手が、あたたかかった。
「……“外交案件”だなんて言って、兄さんを物みたいに扱わせるつもりはありません。
兄さんは“物”じゃない。俺の……兄さんですから」
その声音は優しいのに、瞳は氷のように澄んでいた。
「陛下の命? 兄弟の義? 知ったことじゃありません」
「……レオ……」
「兄さんが泣くくらいなら、俺が悪者になります。
兄さんの笑顔を守るためなら、地位も誇りも、全部手放してもいいんです」
そう呟いたレオは、ゆっくりと俺を引き寄せ、抱きしめてくる。その腕は温かく、力強かった。
「だから兄さんは、安心して下さい」
囁きと同時に、首筋に冷たいものが触れる。ぞくりと背筋が震えた瞬間、プス、と肌を刺す感触。
「……っ、あ……っ」
「大丈夫。これでずっと、俺と二人きりでいられますよ……」
身体が、動かない。 瞼が重く、声も出せない。
「……っ……レオ、……どうして」
かすれた声を絞り出した直後、頬にそっと触れる手の感触があった。
「……ごめんなさい。今度こそ守りますから」
その声は静かで、慈しみに満ちていた。
意識が遠のく直前、視界の端に映ったのは、自分をそっと抱き上げる、レオの腕だった。
***
目を覚ました時、最初に感じたのは違和感のない静けさだった。
扉は重く閉ざされ、高い天井には吸音材のように柔らかな布。
窓は無く、時間の流れさえも断ち切られている。
まるで世界のすべてが、ここだけになったみたいだ。
「ここ、どこ……?」
小さく声に出すと、すぐに扉の外から気配がした。
「お目覚めですか、兄さん」
扉が開く音。レオの声はいつも通り静かだった。けれどその瞳には、確かに何かが宿っていた。
「もう大丈夫です。誰にも兄さんを触れさせたりしません。香辛料も外交も、全部俺が何とかしますから」
「……レオ? まさか、ここ……」
「兄さんが王宮に戻る必要はありません。ここは兄さんのために作ったんです。兄さんが、誰にも奪われないように」
笑っていた。悲しいくらい優しく、怖いほど確信に満ちていた。
「……レオ、これ……なに……?」
ゆっくりと、震える指を首筋へ。
そこにあったのは、冷たい金属の感触。触れるたび、カチャリと小さな音を立てる。
――首輪。
優美な銀細工が彫り込まれ、まるで宝飾品のように美しい。だが、それは確かに“拘束”だった。
「……ご安心を。痛くはありません。装飾としてもとても似合っています」
「レオ、これ、まさか……」
「ええ。所有の証です。逃げられたくありませんから」
レオが、悲しげに笑った気がした。
その表情を見た瞬間、心の奥がきゅうと痛む。けれど、どうしてなのかは分からない。
「この時間が、永遠に続けばいいのに」
そんな声が聞こえた。
誰に言っているのか分からなかったけれど──たぶん、俺に。
彼の指先が、そっと俺の髪に触れる。
ぞっとするほど優しくて、昔、誰かにこんなふうに髪を撫でられた記憶さえ、ぼやけていく。
懐かしさではなく、違和感に似た何かが胸を騒がせる。
「兄さんが誰にも奪われないように、俺が全部、守ってあげます。もう誰にも見せないように、誰にも触れられないように、鍵も記憶も全部、俺が管理しますね」
その言葉に、背筋が凍りついた。
何かがおかしい──いや、ずっとおかしかったのかもしれない。
指先が震える。自分の意志じゃないみたいに。
そんな俺の様子を、レオは見逃さなかった。
微笑みながら、静かに囁く。
「怖がらないで。何もしませんよ。……今日はまだ」
笑みの奥にある、得体の知れない熱が怖い。
湯気の立つ銀の器が差し出される。
白いスープ。甘い香り。そして、喉の奥に微かに覚えのある苦み。
何度か……味わったことがある。けれど、はっきりとは思い出せない。
嫌だ。これは、何か入ってる──。
「さあ、兄さん。今日も、いい子にしてください」
「……嫌だ……っ、俺、こんなの、望んでない……!」
声が震えていた。
何もかもが分からない。
どうしてこんなことになっているのか、どうしてレオがそんな目をするのか、全然わからない。
なのに、彼の指が、そっと俺の唇に触れる。
「大丈夫。兄さんがどんなに怖がっても、どんなに拒んでも……全部、俺が受け止めます」
優しくて、壊れたような言葉。
逃げたくても、体が思うように動かない。
スプーンが俺の口元に運ばれる。
抵抗しようとしたのに、声が出ない。
喉が勝手に飲み込んで、そして──視界が滲み始める。
頭が、ふわりと浮く。
思考が、どろどろと溶け出していく。
どこかで……何度も、こんなふうにされた気がする。
でも思い出せない。
足元が沼に沈むみたいに、記憶の輪郭が崩れていく。
そんな中で──ただひとつ、はっきりと聞こえたのは。
「兄さんは、俺の“神様”だったんです。わかりますか?」
レオの声だった。
「俺がどれだけ、兄さんの一言に救われてきたか……。俺のために笑ってくれた兄さんが、全部を捧げてくれたあの瞬間が……愛おしくて、堪らなかったんです」
頬に触れる指先。そっと触れる唇。
それすらも、遠くなっていく。
そして最後に、耳元で囁かれた。
「だから……壊れてしまってもいい。もう兄さんは、誰にも見せない」
その言葉が、甘くて、怖かった。
「“飼って”あげますよ、兄さん」
――深く沈むまどろみの底で、俺はそれが呪いの言葉だと、なぜか確信した。
目が覚めたとき、そこは知らない部屋だった。
木で囲まれた室内。足元を覆うのは、しっとりとした手触りの深い絨毯。
きちんと整えられた家具には、埃ひとつ落ちていない。
カーテンの隙間から差し込む柔らかな光が、床に揺れる葉の影を落としている。
窓の向こうには、深い森が静かに息づいていた。
寝台の脇には、小さな花瓶。
誰かが毎朝、新しい花を挿れているようだ。
「……ここは……」
声がかすれて出ない。身体に力が入らない。動かそうとした足に、何か重いものが絡んでいる。
首も。そうだ。あれは……首輪。夢じゃなかった。
「おはようございます、兄さん」
扉が開いて、レオが入ってきた。 トレイには温かいスープと、焼き立てのパン。まるで夢のように整った朝食。
「よく眠れましたか? 薬の効きは悪くなかったですか?」
あくまで優しい声。慈しみを含んだ微笑。 でもその“優しさ”の裏にある何かに、俺はぞっとする。
「……どうして、こんなことを……」
「兄さんが攫われるくらいなら、閉じ込めてしまえばいいと、そう思っただけです」
「正気じゃないよ、レオ……」
呟いた俺に、レオは困ったように笑った。
「それは、兄さんを守るために必要な“狂気”です」
食事は美味しい。湯も張ってくれる。話し相手も、必要な本も揃っている。傷ひとつつけられない。
でも外には出られない。扉も、窓も、鍵がかかっている。部屋の中には小さな鐘が置かれていて、それを鳴らせばレオが来る。すぐに、優しい顔で。
「寂しい時は、呼んでくださいね。俺はいつだってそばにいます」
俺が笑っても、怒っても、泣いても、レオは変わらない。
あの夜の「ごめん、一人にして」に、「嫌です」と返したあの時から――
この世界には、俺とレオしかいなくなった。
今が朝なのか夜なのか──それくらいは窓の外を見ればわかるけれど。
もう俺は、今日が何曜日なのか、何度眠ったのか、そういうことはもう分からなくなっていた。
時計はない。レオがすべてを管理している。
照明の明るさすら、彼の気まぐれひとつだ。
だから、時間の流れが曖昧になっていく。
まるで、俺だけが世界から切り離されてしまったみたいに。
……薬のせいなのか、分からない。
ときどき、意識が混濁する。
覚えていたはずのことが、いつの間にか欠けている。
話したはずの言葉、泣いた記憶、拒んだこと──全部がぼんやりして、まるで夢の中にいるみたいだった。
そんなふうに、時間の感覚も自分の感情もぐちゃぐちゃになっていく中で……
レオが絵本を読んでくれる時だけ、何故か、心が静かになる。
彼の声は、ずっと変わらない。
少し低くて、優しくて、昔どこかで──……いや、違う。
「どこかで」じゃない。あれは、きっと、昔の──
……思い出せない。
けれど、レオの声を聞いていると、不思議と気持ちが穏やかになる気がした。
それが怖くて、涙が出たことがある。
なのにレオは、何も言わずに、頭を撫でてくれた。
まるで、全部わかっているような目で。
その優しさに、救われるような気がした自分が、一番怖かった。
「……ねぇ、レオ……」
「……はい」
「……ううん、なんでもない……」
また、薬が効いてきたのかもしれない。
体が重い。まぶたが落ちていく。
まどろみの中、レオの読んでいる物語の声だけが、すうっと耳に入り込んでくる。
その物語の主人公は、鳥籠の中に閉じ込められた蝶だった。
自由を奪われ、眠らされ、それでも微笑み続ける──
でも誰かが鍵を開けても、その蝶は逃げようとはしなかった。
そこが一番、心地のいい場所だと、知ってしまったから……。
……ああ、それはまるで……
(でも、俺は……)
そこまで思考が巡ったところで、ふっと意識が途切れた。
リュシアンは、静かに笑っていた。
何の痛みも、悲しみも、感じていないような瞳だった。
いや、それは“感じられなくなった”瞳だ。
温度のない、空のような色をした眼差しが、レオを真っ直ぐに映している。
「レオ……どうして泣いてるの?」
その声に、レオは肩を震わせた。
嗚咽が喉を詰まらせ、思わず膝をつく。
リュシアンが近づいてきた。その足音は無垢で、まるで何も知らない子供のように迷いがなかった。
「俺、何か……悪いこと、言った?」
違う──違うんだ。
悪いのは、全部自分だ。
全部、自分が壊してしまったんだ。
レオは、そっと短剣を取り出した。
手は震えていた。それでも、ゆっくりと、やさしく、リュシアンの胸元に刃をあてがう。
「レオ?」
「……ごめんなさい、兄さん」
それが、レオがかけた最後の言葉だった。
刃が、肉を裂く音はあまりに静かだった。
リュシアンの体がふっと力を失い、レオの腕の中に崩れ落ちる。
頬に、微笑が浮かんでいた。
あるいは、それは単なる死後硬直だったかもしれない。
けれどレオは、その顔に口づけた。
微かに震える唇が、愛しさと後悔に濡れていた。
「……これで、やっと……苦しまずにすむね」
ぽろぽろと、涙が零れていく。
その涙がリュシアンの胸元に落ちて、赤い花を濡らした。
レオは立ち上がった。
手にした刃は、リュシアンの体から返り血を受けて赤く染まっている。
漆黒の静寂がすべてを包む中、ただ一つ灯る明かりが、ゆらゆらと揺れる。
影がレオの足元に長く伸びて、やがてその輪郭が彼の体に重なった。
「……兄さん。俺ね……ずっと、あなたに救われたままだったんだよ」
「だから……同じ痛みを、ちゃんと受け取るよ」
レオは笑った。
それはどこまでも静かで、どこまでも悲しい、祈るような微笑だった。
ゆっくりと、同じ刃を自分の心臓へと向ける。
一切の迷いも、痛みすらない。
血の音さえも、優しい音楽のように響く。
その場に倒れ伏したレオの表情は、どこか安らかだった。
赤に染まった床の上で、ふたりの身体は寄り添うように眠っていた。
まるで、ようやく永遠の安息を手に入れた恋人たちのように。
けれどこの物語に、終わりはまだ訪れない。
ただ、時計の針が――静かに、再び回りはじめる。
BAD END:鳥籠の蝶
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