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第14話 ループの真相エピソード②※R描写
月明かりだけが静かに二人を照らしていた。
ベッドの上、俺は兄さんの横顔を見つめている。
昼間の凛とした王子としての顔ではない、いつも俺にだけ向けてくれる柔らかな表情。
だけど今夜は、その目の奥が微かに揺れていた。
差し伸べた俺の手を拒みはしないけれど、どこか怯えているようで――。
それでも、俺のすべてを受け入れようとしてくれているのが、痛いほど伝わってきた。
「兄さん……」
震える指先でその柔らかな肌をなぞると、彼は期待と熱に浮かされたように、ぴくりと肩を震わせた。
触れるたびに、甘い毒を回されるように思考が溶けていく。
その吸い付くような肌も、乱れた表情も、切なげな吐息も――すべてが俺の理性を、粉々に食い散らかしていく。
最初は、ただ抱きしめるだけで満たされると思っていた。
凍えた身体を温め合い、祈るように唇を重ねて、それだけでいいと。
けれど、兄さんが俺の接吻 に縋るように応えてくれるたび、心の最深部で眠っていた暗い獣が、ゆっくりと首をもたげ始める。
「……ふ、ぁ……っ、レオ……」
鼓膜を揺らすその声が、たまらなかった。
湿り気を帯びて、苦しげで、けれど確かに俺の名を呼んでいる。
もっと触れたい。もっと深く、この人を蹂躙し、愛したい――。
その衝動が、静かに、けれど確実に俺の中で牙を剥いていく。
震える手でシャツのボタンを外すと、月光を吸い込んだような滑らかな肌が露わになる。
指先でそっと触れるだけで、期待に怯えるように跳ねるその様に、俺の喉が熱く鳴った。
俺の唇が、喉元から鎖骨の窪みへと、吸い付くように這い降りる。
その形を魂に刻み込むように、ゆっくりと、愛おしげに。けれど、二度と離さないという意志を込めて深く。
指先がゆるやかになぞる胸元、敏感に反応し、逃げ場なく震える身体。
視界に入るすべてが、俺を苛烈に突き動かす。
兄さんの熱が、その無防備な反応のすべてが――俺を、狂おしいほどに煽り立てる。
「んっ……ぁ、あっ……や……っ、レオ……」
切なげに漏れる声が、耳腔を甘くくすぐる。
俺の手が、太腿の奥、そのもっと深い場所を撫でると、彼は無意識に腰を浮かせた。
……ダメだ。もう、誰にも止められない。
「ねぇ、兄さん……どうしてそんなに俺を惑わせるの……? もう、触れるだけじゃ足りない」
拒むように、あるいは縋るようにふるふると首を振る仕草さえ、俺を狂わせる誘惑にしかならない。
だから、愛撫は自制を失い、どんどん深くなっていく。
何度も、壊れ物を慈しむように。何度も、執拗に、逃げ場を塞ぐように。
指先で甘く蕩ける場所を探り当てながら、俺は熱い吐息を耳元に流し込み、呪いのように囁いた。
「兄さんがこんなになるの、俺しか知らないよね……? 他の誰にも、こんな顔、見せないよね……?」
答えなんて要らなかった。
だってもう、彼の身体が、何より雄弁に語っていたから。
「レオ……もう……だめ、あっ、だめぇ……」
声が裏返り、甘く喘ぐたび、俺の愛撫は自制を失い、狂おしいほど滑らかに深まっていく。
与える快楽が、彼の気高い心を少しずつ溶かし、
その輪郭を失わせていくのが、手に取るようにわかる。
「好きだよ、兄さん……。好きすぎて、いっそ、このまま壊してしまいたくなる……」
唇も、指先も、熱を帯びた舌も。持てるすべてを動員して、俺に縋る彼を貪り尽くす。
誰にも渡さない。愛して、愛して、二度と元の形に戻れないほど愛し抜くように。
汗ばんだ肌は、指に絡むたびに吸い付くような艶を増していく。
完熟した果実のように、指一本触れるだけで崩れてしまいそうなその身体は、もう俺の熱を拒む術を知らなかった。
「……っ、レオ、……やっ、ん、やだぁ……」
「やじゃないよね? だって……俺のこと、好きでしょ?」
耳元でささやくたび、彼の腰が甘く跳ねる。
愛撫だけでどこまでも蕩けていく姿が、可愛すぎて。
――もう、ほんとに、壊してしまいたい。
でもまだ、愛したい。もっと。
「兄さん、好き。誰より、何より、……欲しい」
唇を重ねると、彼は泣きそうに笑って、俺の名前を呼んだ。
「……レオ……だいすき……っ」
その声に応えるように、俺は再び唇を落とした。
甘く、深く、狂おしいほどに。
吐息が絡まり、シーツが乱れていく。
彼の脚の奥に手を滑らせたとき――
ぴくりと跳ねる反応と、甘い吐息。
「ここ……、触れられるの、初めて……?」
尋ねると、兄さんはうつむいたまま、かすかに頷いた。
頬は真っ赤に染まって、全身が羞恥と戸惑いに震えている。
けれど、それでも逃げない。
「……レオなら……いいよ」
その言葉が、胸の奥を焼いた。
愛しさと、征服欲と、何より、彼が俺を“選んでくれた”という実感。
「ありがとう、兄さん……ちゃんと、優しくする。だから、怖がらないで……俺に、全部、任せて?」
そっと指を濡らし、彼の奥をゆっくりと探っていく。
柔らかく、でも初めての痛みを少しでも和らげるように、細心の注意で。
「……っ、あ、っ……ん、レオ……っ」
声が、吐息が、震えて重なる。
背筋を撫でるたび、繊細な身体が甘く反応して、
その指先の律動で、彼は次第に受け入れる形にゆるんでいく。
「……大丈夫。すごく、柔らかくなってきた」
何度も唇を重ね、キスで不安をほどくように――
そして、彼の膝の間に身体を落としたとき、兄さんはぎゅっと俺の手を握り返した。
「……怖い、けど……レオが欲しい……」
その言葉だけで、もう限界だった。
優しさを保つ理性が、心ごと崩れていく。
彼の腰を支え、少しずつ奥へと繋がっていく。
熱と熱が絡まり、息が止まりそうなほどの一体感。
「……あ、っ……ん、レオ……っ、んあぁ……っ!」
「……兄さん……すごい……中、きつくて……あったかい……。全部、包んでくれてる……っ、すごく……気持ちいい……」
くちづけながら、奥へ、深く、さらに深く――
やさしく愛しながらも、求める気持ちは隠せなくて。
腰を揺らすたび、彼の喉が甘く震える。
「んっ、あっ、んぅ……レオ、もう、やだ、変になるっ……!」
「いいよ、変になって。……俺の中で、全部蕩けて、俺に壊されて……俺にしか、感じられない身体になって……」
快楽と愛情の狭間で、彼の身体は波打つように反応し、目の端に涙をにじませながら、それでも俺を求めてくる。
「っ、レオ、……もっと、きて……っ」
その声に応えて、強く深く、腰を打ちつける。
「兄さん……俺の中で、全部感じて。……離さない。絶対に、ずっと、俺だけのものだから……」
「……うん……レオのもの、だよ……っ」
とろける瞳、熱に浮かされたような表情――
それを見てしまったら、もう何も我慢できない。
体を貫くたびに、繋がりが深まり、心の奥まで満たされていく。
世界にふたりしかいないような、甘く、狂おしい夜だった。
快楽の渦の中で、もう、互いの名前しか呼べない。
「兄さん……兄さん、好き、好きだ、愛してる……っ」
「……ん、レオ……レオ……っ、すき、だいすき……っ」
最後の一突きと共に、ふたりの身体が強く震える。
熱い鼓動、指の絡み、口づけ、快楽の余韻――
そのすべてが、永遠を誓うように重なり合っていた。
……夜が明けても、彼は俺の腕の中から離れない。
柔らかく微笑むその顔を、何度も、何度もキスで確かめた。
「兄さん、これから何度でも愛する。……壊れるまで、何度でも」
彼は言葉もなく、ただ俺の胸に頬をすり寄せた。
――それが何よりの、返事だった。
***
幸せ、とは、きっとこういうことを言うんだろう。
目が覚めてすぐ、腕の中に兄さんがいる。
昨夜の熱がまだ微かに残る頬を指先でなぞれば、くすぐったそうに眉をひそめる。その無防備な反応を見るたび、俺の器はひたひたと満たされていくんだ。
昼、公務に励む兄さんの笑顔は、太陽よりも眩しい。
凛とした話し声も、ふとした瞬間に見せる柔らかな仕草も――すべてが愛おしくて、そのたびに、残酷なほど「時間が止まればいい」と願ってしまう。
そして夜は、互いの肌を重ね、求め合い、溶け合うことで、魂の隙間までが埋まっていく。
(ああ、兄さんは、俺のものだ)
誰にも渡さない。もう、どこにも行かせない。
たとえ世界が明日終わるとしても、俺はこの手を離さないし、離させない。
……こんなにも、満たされているんだ。
唯一、この楽園を壊すものがあるとすれば、それは――。
「兄さんが、俺以外の何かを見てしまうことだけ」
でも、大丈夫。
兄さんはいつだって、俺を一番に、俺だけを、見てくれるから。
――ねぇ、そうでしょう? 兄さん。
でも、あの夜――。
兄さんの寝室の扉が、心臓を抉るような冷たい音を立てて開いた。
そこにいたのは、リュシアン。
俺の兄であり、唯一無二の恋人であったはずの人。
けれど、その瞳は――。
氷の壁に閉ざされたように無機質で、俺の姿など、最初から映ってさえいなかった。
「……兄さん、おかえり」
無理に作った微笑みが、声ごと微かに震える。
リュシアンは足を止め、見知らぬ不審者を見るような目で俺を射抜いた。
その瞳には、昨夜俺に抱かれ、甘く熱く潤んでいた面影など、塵ほども残っていない。
「……ただいま、レオ。どうして、許可もなく俺の寝室に入っているんだ?」
その声は、どこまでも平坦で、他人行儀だった。
「……え? どうしてって……、兄さんと、少しでも話がしたくて――」
縋るように伸ばした俺の手を、リュシアンは嫌悪感を露わにして一歩引き、拒絶した。
「っ、やめろ……! 何の真似だ。お前、少しおかしいんじゃないのか?」
脳裏を稲妻が走り、目の前が真っ白になる。
罵倒よりも、その怯えたような、汚物を見るような目が、何よりも残酷な刃となって俺の胸を貫いた。
「……兄さん……?」
絞り出すような俺の声など、今の彼には届かない。リュシアンはまた一歩、俺との間に修復不可能な距離を置いた。
「……おーい、リュシアン」
背後からジークが顔を覗かせる。
「次の訓練、付き合ってくれよ」
「ジーク。……ああ、今行くよ」
その瞬間、リュシアンの顔に柔らかな光が灯る。俺が愛した、あの兄さんの声だ。
なのに、その温かな微笑みは――もう、俺だけに向けられたものではなかった。
「……? 何かあったのか?」
ジークが怪訝そうに俺へ視線を向ける。
「……いや。なんだか、こいつの様子が変なんだ。気味が悪い」
「……ふーん? お前らが喧嘩なんて珍しいな。まあ、ほどほどにしとけよ?」
軽く笑って、ジークはリュシアンと肩を並べて歩き出す。
俺は、その場に縫い止められたように立ち尽くしたまま、指先一つ動かせなかった。
(兄さんに……嫌われた……?)
なんで、どうして。
触れようとしただけで、あんな風に、汚らわしいものを見るように避けるんだ。
昨夜、俺の名前を甘く何度も、泣きながら呼んだくせに。
あんなに熱く、俺を求めて抱きしめてくれたくせに。
(……俺が、怒らせたのか?)
愛を求めすぎて、怖がらせた? 俺の執着が重すぎて、正気に戻った兄さんに軽蔑されたのか……?
自分の指先が、死人のように冷たくなっていくのがわかる。
血の気が引き、視界が歪む。
「……兄さん」
縋るように呟いても、その背中はもう見えない。
心に、底知れない暗い穴が空いた。
最初から何もなかったかのように。
二人で積み上げた温もりも、愛も、約束も――すべては、俺が見ていた醜い夢だったとでも言うように。
夜。眠りという安息にすら、逃げ込むことはできなかった。
気がつけば、吸い寄せられるように兄さんの寝室の前に立っていた。
拒絶の記憶が指先を震わせるのに、心は、勝手にその扉へと手を伸ばしてしまう。
音もなく開いた扉の向こう側。
部屋には、凪 のような安らかな寝息だけが満ちていた。
窓から差し込む淡い月光が、カーテンの揺らめきと共に、愛しい人の貌 を浮かび上がらせる。
(……何も、変わっていない)
穏やかな寝顔。
癖のついた前髪も、少しだけ眉間に寄った皺も――
俺を愛してくれていた、あの頃のままの“兄さん”が、そこにいた。
……けれど。
(昼間の、あの氷のような目が……)
網膜に焼き付いた絶望が、俺を呪縛する。
目を覚ました彼が、またあの他人のような声で俺を突き放すのではないか。
――それでも。
「……兄さん……っ」
漏れ出した声は、嗚咽のように震えていた。
ゆっくりと、リュシアンの睫毛が震える。
露わになった瞳が、微睡みの中で月光を反射し、ゆらりと揺れた。
「……レオ? どうしたの、こんな夜更けに……」
その声は、甘く、柔らかく――。
紛れもなく、俺の名前を呼ぶ、俺の知っている兄さんの温度だった。
堰を切ったように感情が溢れ、俺は縋りつくようにベッドの縁に膝をついた。
「兄さん……お願い、俺を……捨てないで……っ」
剥き出しの悲鳴。胸の奥に閉じ込めていた恐怖が、醜くあふれ出す。
リュシアンは戸惑ったように目を瞬かせ、けれど、その細い指で俺の背をそっと撫でてくれた。
「……えっ、レオ……? どうしたんだよ。俺が君を捨てるなんて……そんなこと、あるわけないだろ」
優しい手。いつもの声。
まるで昼間の拒絶なんて、悪い夢だったと笑い飛ばすかのように。
その慈しみに触れ、心臓を抉られるような痛みが走る。
「……本当に? 俺、まだ兄さんの傍にいてもいいの……?」
氷の牢獄に閉じ込められていた時間が、嘘のように溶けていく。
「……当たり前じゃないか。ずっと、一緒にいるよ」
鼓膜を伝い、魂にまで沁み渡るその一言。
滲んだ視界で見上げれば、そこには確かに、俺を愛してくれた優しい“兄さん”がいた。
「……レオ、大丈夫だから。今夜はもう、ここで眠ろう」
差し出された手の温もりに触れた瞬間、堪えていた涙が止めどなく溢れた。
「……っ、うん……」
その夜、俺たちは深く抱きしめ合って眠りについた。
この腕の温もりがあれば、もう何も怖くない。そう信じられるほど、穏やかな夜だった。
――それなのに。
あんなにも愛おしげに俺を抱き寄せてくれたこの手が。
翌日、何の前触れもなく――また、俺を拒んだ。
「……兄さん?」
振り向いたその顔は、あの夜の人ではなかった。
「……なに?」
その目に、昨夜の記憶は欠片もない。
(……また、変わってる)
夢じゃなかった。
あの夜、確かに手を取ってくれた。
あんなふうに、俺を――
「兄さん。昨夜のこと、覚えてる……?」
「……知らない。何のことだ」
「……っ、俺のこと……もう、好きじゃない?」
口にしてから、自分の声の惨めさに吐き気がした。
「何を言っている。お前は……弟だろ」
“弟”。
その一言が、静かに胸を裂いた。
もう、だめだ。
あの夜は、あんなに優しかったのに。
あの腕で、確かに抱きしめてくれたのに。
どうして今は、こんなにも遠い目をする。
リュシアンは訝しげに眉を寄せ、足早に去っていく。
「……ひどいよ、兄さん……」
背中に向けた声は、届かない。
残された部屋で、俺は立ち尽くす。
指先が震える。
冷えた空気の中に、温もりだけが取り残されていた。
もう何日、あの人の笑顔を見ていない?
何度名を呼んでも、あの瞳に“俺”はいない。
伸ばした手は振り払われ、「やめろ」と吐き捨てられる。
なのに、夜だけ。
あの部屋でだけ、優しく笑ってくれる“兄さん”が、まだそこにいるような気がして。
……だけど、それは一夜限りの夢。
朝にはまた、何もかもを忘れてしまう。
だったら、いっそ――
その夜、俺は銀色のナイフを袖に隠して、兄さんの部屋の扉を押し開けた。
「レオ……?」
振り向いた声に、棘はない。
脳の奥まで溶かしてしまいそうなほど優しい、俺の焦がれ続けた兄さんの声だ。
暗がりに浮かび上がるその瞳と視線がぶつかる。……ああ、やっぱり今夜の兄さんは、“俺の愛する”人だ。
いや、もうそう信じるしかなかった。そうでなければ、俺の心は一秒だって持ちはしない。
「兄さん……俺のこと、覚えてる……?」
「……レオ? 当たり前だろう。そんな泣きそうな顔をして、どうしたの?」
兄さんは困ったように笑い、おずおずと手を伸ばした。
俺の髪に触れ、頬を撫でるその指先が、あまりにも慈しみに満ちていて、逆に心臓が焼け付くようにひりついた。
ぬくもりに包まれ、至近距離でその微笑みを見つめる。
ああ、なんて幸せなんだろう。……そう思うほどに、裏腹な絶望が俺を飲み込んでいく。
幸せであればあるほど、俺は――怖かった。
また、夜明けと共にこの熱がいなくなるのが。
また、太陽の下で他人行儀な「弟」という檻に叩き落とされるのが。
また明日には、何もなかったかのような顔をして、俺を突き放すのでしょう……?
「……兄さん。愛してる。世界で一番、愛してる」
縋るように告げると、兄さんは一瞬だけ驚いたように目を見開き、それから……世界を祝福するような、静かな微笑みを浮かべた。
「……うん。俺も、愛しているよ。レオ」
その言葉が、俺の背中を押した。
お願いだから、そんな風に優しくしないで。
忘れてしまうくらいなら。失ってしまうくらいなら。
他人の顔をしたあなたに、この想いを踏み躙られるくらいなら。
もういっそ、この瞬間に、俺たちの時を止めてしまいたい。
ぎゅっと、軋むほどにその背を抱きしめた。
心臓の鼓動が重なる場所。
潤んだ耳元に、熱を流し込むように囁く。
「……兄さん。俺と一緒に、死んで……?」
「……え――?」
次の瞬間。銀色の刃が、兄さんの胸の奥深くへと沈み込んでいた。
ぬるりとした、命が零れる感触が掌に伝わってくる。
目の前で、兄さんの端正な顔が驚愕に歪み、月光を反射していた瞳が、絶望に陰っていく。
込み上げる叫びを飲み込み、震える唇を噛み締めて、俺は崩れ落ちるその身体を必死に抱きとめた。
掠れた瞳が、じっと俺を見つめている。
血に濡れた薄い唇が、微かに、けれど確かに動いた。
「……レ、オ……どう、して……?」
絞り出された最期の問いに、答えを返す術を俺は持たなかった。
ナイフを引き抜くと、抵抗を失った兄さんの身体が、重力に従ってぐったりと沈む。
シーツの上に、真っ赤な闇が広がっていく。
溢れ出す血の、恐ろしいほどの熱量だけが、彼がまだ生きていた唯一の証のようで――。
俺はその身体を、壊れ物どころか、世界そのものを扱うように、ぎゅっと抱きしめた。
「にい、さん……?」
何度名を呼んでも、もう唇が重なることはない。
どれほど触れても、あの優しい微笑みが戻ることはない。
肩を揺らしても、指先から体温は逃げていくばかり。
視界は涙でぐしゃぐしゃに歪み、肺は呼吸を拒んで悲鳴を上げる。
「……ごめん……っ、兄さん、ごめんなさい……っ」
兄さんの胸に顔を埋め、止まらない「謝罪」を吐き出し続けた。
けれど、その言葉が届くべき場所は、もうどこにも存在しなかった。
世界が、急速に色を失っていく。
音も、匂いも、この世界の理すらも、兄さんを失った瞬間にすべて息絶えてしまった。
ただ、鼻を突く血の匂いだけが、呪いのように鮮明で。
俺の手も、服も、愛した人の白い肌も、すべてが毒々しい赤に染まり、混ざり合っていく。
俺の手で、すべてを終わらせた。
だったら――俺も、ここで終わらなければならない。
兄さんのいない世界で、ただ呼吸を続ける理由なんて、どこを探したって見つかりはしないのだから。
命の灯が消えかけた兄さんの隣で、俺は返り血を浴びたナイフを握り直した。
切っ先を、自分の心臓へと向けた、その刹那――。
世界が、ひっくり返った。
真っ白に塗りつぶされた視界。頭の奥で、耳鳴りのようなキーンという音が、鼓膜を突き破らんばかりに響き続けている。
眩しさに目を細め、意識を繋ぎ止めるようにあたりを見渡すと、そこは――あまりにも、残酷なほどに見覚えのある場所だった。
高い天井に、荘厳な石造りの柱。整然と居並ぶ騎士たちの鎧の擦れる音。
ここは、俺と兄さんが三年間を過ごしたこの王城の、謁見の間だった。
(なんで……?)
さっきまで、確かに俺は、兄さんの返り血の中にいた。
震える手でナイフを握り、自分の命ごと、すべてを終わらせようとしていたはずなのに。
どく、どくと、不快なほどに力強く心臓が脈動を刻んでいる。
正面の重厚な扉が、音を立てて開いた。
衛兵たちが一斉に敬礼し、その隙間から三人の人影が、逆光を背負って現れた。
この国の美しき王子たち。――そして、その中央にいたのは。
(……嘘だ。そんなはず、ない)
肺から酸素が消え、呼吸が止まる。
三年前の、リュシアンだった。
あの凛とした立ち姿。深い森のように穏やかな瞳。
見間違えるはずがない。何度も夢に見、幾度となく触れ、そして――この手で失った、“俺の兄さん”が、そこに立っていた。
艶やかな栗色の髪が肩で揺れ、彼はゆっくりと、俺の方へ視線を向ける。
目が合った。
その瞬間、俺の中で張り詰めていた何かが、無残に崩壊した。
全身の震えが止まらない。
俺は、知っている。俺が何をしたか。あんなにも狂おしく愛していた人を、この手で貫いた感触が、まだ掌に残っている。
「う、ぁ……っ、ぅあ……」
堰を切ったように嗚咽が漏れ出した。
情けないほどに膝が笑い、声は掠れ、立っていることすらままならない。
国王である父が、兄たちが、異様な様子に驚いてこちらを振り返る。
だが、誰よりも早く――。
兄さんが、俺の元へと駆け寄ってくれた。
何も問わず、躊躇もせず、ただ真っ直ぐに俺を導き、泣き崩れる俺の肩を、ふわりと抱きしめてくれた。
「……大丈夫だよ、レオ」
耳元で囁かれる、涼やかな、けれど綿菓子のように甘い声。
あの絶望の夜、ずっと求め続けていた、俺の知る兄さんの温度。
温かくて、恋しくて、狂おしいほどに懐かしい。
血に塗れた手で、何度も謝り続けた相手が、今、温かな体温を持って俺を包んでいる。
(本当に……兄さん、なの? 幻じゃないのか……?)
縋るように掴んだ腕の感触が、夢ではないと告げている。
俺は取り返しのつかない大罪を犯した。愛する人を、殺したんだ。
なのに。兄さんは俺を、こうして赦してくれるのか。
何も責めず、何も問いたださず、
――ただの“弟”として、俺をその胸の中に迎え入れてくれた。
「兄さん……っ、兄さん……!」
嗚咽とともにその胸に顔を押し当て、俺は泥沼から引き上げられたような安堵を感じていた。
これはきっと、神が俺に与えた恩寵なのだと。
あの時は、そう信じて疑わなかった。
一度はすべてを失った俺に、やり直す機会をくれたのだと。
だって、再会した兄さんはあの頃と同じ瞳で、俺を見て、微笑んでくれたから。
すべてを赦すように、優しく、温かくて――。
俺が縋れば抱きしめてくれ、名を呼べば、慈しみを込めた返事をしてくれた。
「レオ」
その声が、俺の世界のすべてだった。
兄さんが傍にいてくれるなら、もう他には何も要らない。
王位も、名誉も、約束された未来さえも。
ただ、この腕の中に「彼」がいれば、それでよかった。
むせ返るような密度で、俺たちは愛し合った。
何度も唇を重ね、互いの存在を確かめるように名を呼び合い、俺は、この幸福が永遠に続くと――今度こそ“壊れない”と、信じたかった。
……けれど。
神がくれたのは贈り物ではなく、ただの悪趣味な「試練」だったのだ。
やはり、兄さんは『壊れて』しまう。
覚醒の朝、隣に横たわっているのは、氷の瞳をした、俺の知らない“他人”だった。
「レオ……お前、最近、様子が変じゃないか?」
兄さんの形をした「それ」は、触れようとする俺の手を、まるで汚らわしい不浄のものを見るように、無機質に避ける。
「……兄さん、俺だよ……? 」
必死の訴えも、今の彼の瞳には届かない。
昨夜、あんなに熱く肌を重ねた記憶さえ、塵ひとつ残さず消し去られている。
どうして……。
何が、いけなかった……?
また俺は、何かを間違えて、彼に捨てられたのか?
胸の奥が、焼けるように疼く。
俺がどれほどの想いで、この再会を祈り続けたか。
どれほどの夜を、血の混じった涙で濡らしてきたか。
誰にも、わかってたまるものか……っ。
そして俺は――
逃げ場のない絶望の果てに、また、兄さんの胸を貫いた。
その瞬間の兄さんは、いつだって一番優しい目をしている。
「どうしたの?」と俺を案じ、無防備に、無垢な愛を向けてくれる。
隠していたナイフが、吸い込まれるように彼の鼓動を止める。
「……レ、オ……?」
溢れ出す温かな鮮血。俺は泣きながら、その身体を抱きしめた。
どうして、こんなに愛しているのに、
どうして、こんなに求めているのに。
ねえ、兄さん。
いっそ、最初からずっと“壊れたまま”でいてくれたなら。
俺を愛さない他人のままでいてくれたなら、俺は、こんなにも狂わずに済んだのに。
どうせまた、俺を忘れてしまうのなら。
その前に。
俺を愛しているその瞬間のまま、あなたを「標本」にしてしまいたかった。
誰の目にも触れない、俺だけの兄さんに。
――世界は、何度でも繰り返す。
気づけば、また俺は――十五歳の姿で、謁見の間に立っていた。
胸に残るのは、焼き付くような後悔と、愛と、絶望。
どうしたら“俺の兄さん”を失わずに済むのか。
どうすれば、壊れてしまう運命を変えられるのか。
考え得る限りの手段に、俺は手を尽くしてきた。
あらゆる選択を試した。
俺の存在を控えめにしてみたこともあったし、逆に愛を注ぎ続けたこともある。
怒らせないようにした。守るようにした。
何もかも、すべて、兄さんのためだった。
……それでも、変わらなかった。
必ず、ある時を境に、兄さんは“壊れる”。
温かく、優しく、愛をくれた兄さんが、
まるで知らない誰かみたいに、俺を見ない。
触れようとした手を、拒絶するように振り払われたあの瞬間。
俺の名前を呼ばない。
俺のことを――“ただの弟”としか、認識していない瞳。
(なんで……? どうして……?)
わからなかった。
理解なんて、できるわけがなかった。
そうして俺は、
兄さんが俺に冷たくなるたびに、
“それ以外の方法”を選べなくなっていった。
……兄さんを――殺した。
何度も。
何度も、何度も、何度も。
そのたびに、兄さんは驚いたように目を見開いて、怯えたように俺を見つめた。
「どうして……?」
そう訴えるような目で。
俺は……それに、答えることができなかった。
できるわけがない。
だって、俺にとって兄さんは、
失いたくない、ただひとりだったのだから。
壊れる前に戻ってくれるのなら、それでよかった。
それだけでよかったのに……。
――でも、たまに。ほんの少しだけ。
兄さんの目が、違うときがある。
驚きでも怯えでもなく、俺の狂気すら、まるごと抱きしめるような、そんな瞳。
哀しくて、優しくて、痛いほどに温かい――
“あの頃の兄さん”のまなざし。
そのときだけは、俺も泣いてしまう。
何度目かの再会だったとしても、
何百回目の殺害のあとだったとしても、
そのまなざしに、俺はどうしようもなく惹き寄せられてしまう。
それでも、
また、壊れる。
何をしても、変わらない。
……けど、諦めるつもりなんて、なかった。
俺はまた、世界のはじまりに戻っていた。
「……レオといいます。よろしくお願いします……」
いつものように、声をかける。
それだけの、はずだった。
けれど――今回は違った。
兄さんが、言葉を失ったように俺を見つめ、
怯えたように目を見開いたあと、
確かな“決意”を宿した眼差しで、まっすぐ俺を見返してきた。
「……よろしくね、レオ」
そう微笑んだ兄さんに、俺は確信した。
物語が、今ようやく“別の道”へ進みはじめた。
これは、終わりじゃない。
やっと、始まりに手が届いたんだ。
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