15 / 20
第15話 ループの真相エピソード③
兄さんが“壊れる”のは、俺のせいじゃない。
そう思いたかった。
だけど、もし俺以外の誰かが、兄さんの心に余計なものを植えつけてるとしたら?
……たとえば、やたらと距離を詰めてくる、あの隣国の王子。
気安く腰を抱き、俺の前で“兄さん”の名を馴れ馴れしく呼んだ。
過保護を免罪符のように振りかざし、柔らかな笑みを浮かべた第二王子。
まるで兄さんの心に土足で踏み込むように、甘えた声を向けてきた。
無遠慮に声をかけてきた、公爵家の次男。
まるで軽口のつもりなのか、それともただの無知か――
兄さんの身体にベタベタ触っていた。
忠義を建前にした、騎士団副団長。
その敬意の裏側に滲む感情に、兄さんは気づいていただろうか。
ほんの、小さなきっかけ。
たったそれだけで、すべてが崩れてしまう気がする。
誰かの気配が、ほんの少しでも兄さんの心に入り込んだら――
兄さんの目は、また冷たくなるんじゃないか?
俺を見てくれなくなるんじゃないか?
俺の名前を呼ばなくなって、
俺の存在を、記憶の隅へと追いやってしまうんじゃないか……?
怖かった。
たまらなく、怖かった。
……そうなる前に。
兄さんの心が壊れてしまう前に。
いや、俺の方が壊れてしまう前に。
“排除”しなければならなかった。
本当は――兄さんじゃなくて、あいつらを殺したかった。
でも、殺したところで、またやり直しができるとは限らない。
もし、もう一度やり直せなかったら――
俺は罪人として裁かれ、投獄されて、二度と兄さんに会えなくなる。
……それだけは、どうしても嫌だった。
この手で人を殺すよりも、
兄さんを失う方が、何倍も、何千倍も――怖かった。
この世界で兄さんの傍にいられる、たった一つの方法。
誰よりも近くにいて、誰よりも兄さんを見ていられる立場。
だから、俺は志願した。
“執事見習い”として、兄さんの傍につく道を。
それは忠誠なんかじゃない。正しさなんて要らない。
ただただ――兄さんを守りたかった。
“壊させたくなかった”。
……俺以外の誰にも、触れさせたくなかった。
けれどそれでも、やはり兄さんは、冷たくなってしまう。
どんなに気を配っても、どれだけ排除しても。
(……いったい、なにが原因なんだ……?)
(なにが、兄さんを変えてしまう……?)
わからない。
でも、だからこそ。
俺は、繰り返す。
繰り返して、繰り返して。
今度こそ、兄さんを壊させないために――。
でも、兄さんを殺すたびに、俺の心も一緒に死んでいった。
耐え難い苦痛に、喉が裂けるほど叫び、血の涙を流し続けた。
なのに、また殺した。
何度だって、何度だって──俺のこの手で、兄さんを。
それは、俺を誰よりも愛してくれた人を、自らの手で踏み躙る行為だった。
それでもやめられなかった。兄さんが笑えば、誰かを愛せば、俺は壊れそうになった。
そんな俺の心を守るために、“狂人”という仮面を被った。
壊れてなどいないふりをした。
理性の仮面を被らなければ、嫉妬と執着の熱で脳が焼け落ちてしまいそうだった。
壊れていたのは──最初から、俺の方だったのかもしれない。
兄さんを“守る”という言い訳で、奪って、縛って、傷つけて。
本当は、何度も泣いて、叫んで、縋りついて──
それでも“壊れる”兄を前に、 ……どうしても、壊れてしまうしかなかったんだ。
でも――
兄さんがまた“壊れた”夜、今度は、誰にも会っていなかった。
ただ、少しだけ庭を見ていただけ。
誰の声も、誰の手も触れていないのに――
それでも、あの目になっていた。
「……レオ? なんで泣いてるんだ?」
わからない。
俺にはもう、なにが原因で兄さんが壊れるのかわからない。
だったら、どうすればいいんだ。
なにを――なにを奪えばいいんだ。
もう、全部……消すしか、ないのか。
***
真っ白な世界。
規則正しい機械音だけが、やけに鮮明に響いている。
視界が、ぐにゃりと歪んだ。
気がつくと俺は、天井に近い高さから室内を見下ろしていた。
……いや、見下ろしている“これ”は、一体なんだ?
手足の重みがない。呼吸の熱さもない。
ただの意識の塊と化した俺の眼下に広がる光景に見覚えがある。
ここは、実家の――俺の部屋だ。
ベッドに、誰かが横たわっている。
……誰だ?
そう思った直後、理解するまでに数秒を要した。
顔は浮腫み、無精髭と伸びきった髪。
手足だけが不自然に細く、まるで作り物みたいに痩せ細っている。
「……まさか……俺……?」
それが“元の俺の肉体”だと気づいた瞬間、存在しないはずの全身に悪寒が走った。
酸素供給器。経管栄養のチューブ。
わずかに上下する胸。
……生きている。
まだ――死んでいない。
「……俺……死んで、ない……?」
思考が追いつかない。
じゃあ、あの『ラストラビリンス』の世界は——
あの温もりも、触れた手も、交わした言葉も、全部、死に損なった俺が見ている、ただの都合のいい妄想なのか?
……違う。
断じて、夢なわけがない。
指先に残る痺れるような残実感、喉の奥に張り付いたレオの名前。
あれは、確かに“そこ”にあった。
考えろ。繋ぎ合わせろ。
――そもそも、なぜ俺はループを強要されていた?
ラストラビリンスにおいて、リュシアンは主人公だ。
物語の心臓。世界の軸。
本来なら、物語を完遂するまで、簡単に“消える”ことなど許されない存在。
……いや、違う。
RPGという性質上、主人公の“死”そのものは、確かに存在する。
敗北すればゲームオーバー。
画面は暗転し、タイトルへ戻る。
なのに俺は、何度も死に、何度もレオとの出会いからやり直させられた。
……そんな仕様、どこにも存在しない。
少なくとも、俺が心酔した『ラストラビリンス』には。
可能性があるとすれば、俺が未プレイのまま終わった、フルリメイク版――“スペシャルエディション”。
追加攻略対象、追加イベント、新規ルート……。
だが――物語の根幹をひっくり返すような改変など、あるはずがない。
本編の美しさを台無しにするような博打を、開発が打つとは到底思えない。
……思えない。けれど。
「攻略対象が、主人公を殺す」?
そんな、攻略もへったくれもない展開、恋愛ゲームとして成立するのか?
……いや、待て。逆だ。
“殺人”こそが、あの世界の「禁じ手」だったとしたら?
用意されていないイベント。存在しないフラグ。
システムが想定していない「愛による殺害」というエラーが、世界の継ぎ目に決定的な亀裂を入れたのだとしたら――。
……バグ。
俺の死は、ゲームオーバーではなかった。
処理不能の例外だった。
だから――
終わらずに、巻き戻った。
そうだ。
最初に腹を刺された、あの瞬間から、何かが狂っていた。
なぜあいつは、あそこまで俺に執着した?
なぜ、どのループでも……俺を殺す?
わからない。
考えれば考えるほど、霧が濃くなる。
……思い出せ。
レオの言葉。あの目。怒り。涙。
そこに、答えがある。
俺を殺すことが、あいつの願い……?
なぜだ。
……待て。
俺が死ぬと、世界は巻き戻る。
死ぬたびに、レオとの出会いからやり直す。
つまり――
ループを起こしていたのは、俺じゃない。
……レオだ。
レオが、俺を殺すことで。
何度も。何度も。
世界を巻き戻していたんだ――。
でも、もしそうだとして、俺に記憶があるのは、なぜなんだ?
ありえない。そんなこと、起きるはずがない。
……いや、本来なら「起きるはずがない」からこそ、これはバグなのだ。
世界の摂理さえ捻じ曲げる、たった一人の狂気的な執念。
……いや、分からない。ただの憶測だ。
でも、レオには、そこまでして成し遂げたい目的があったはずだ。
「兄さん……俺のこと、捨てないで」
あのとき、俺を刺す直前にレオが見せた、子供のような泣き顔。
ずっと喉に刺さった棘のように、あの一言が離れない。
捨てたことなんてない。一度だって、あいつを裏切ったことなんて――。
――待てよ。
……俺の意識がこっちの世界にある間、あっち――ラストラビリンスの“リュシアンの体”は、どうなっているんだ?
まさか。
ジークやアレクシスのように、設定どおりに動くだけの「主人公」に成り下がっていたんじゃないか。
レオとの記憶も。愛も。触れた温度もない。
役割だけをなぞる、精巧な肉人形。
レオは、それに気づいたんだ。
自分を愛してくれた“魂”が、ある日突然、消えたことに。
目の前の兄が、形だけの“俺ではない何か”に変わったことに。
もし――もし今、俺の心が、この瞬間、“元の体”に戻る運命にあるのだとしたら……。
レオは、何も知らないまま。
ずっと、“俺”と生きられる未来を、探し続けているんじゃないか。
……つまり、このループの目的は――
俺を、“俺のままで”いさせるため……?
……それだけ、だったのか……?
本当に、こんな仮説が合ってるのかは分からない。
けど……
それでも……
ああ、なんだろうな、これ。
魂に目頭なんてあるわけないのに、胸の奥が熱く焼けて、どうしようもなく――泣きたくなった。
……レオ。
……レオ……。
…………レオ!!!!
その運命を拒みたいと願うなら。
レオと、生きたいと願うなら――
変えられるのは、この“俺”しかいない……!!
ベッドの傍らでは、母が小さな椅子に身体を丸めて座り、眠っていた。
髪は白くなり、頬は痩せこけている。
三年という歳月が、彼女を老婆のように変えていた。
見つかっていないんだろう、入所先も。
諦められず、まだ俺を家で看てくれている。
視線の先、サイドボードの上。
そこにあったのは、事故のときに俺が持っていた、レオのアクリルスタンドだった。
バキバキに割れていたはずのそれを、母が修復して、そっと置いてくれていたのだろう。
ひびの入った笑顔が、こちらを見つめていた。
恥ずかしい。
でも――ありがとう、母さん。
静かに降りていく。
意識のまま、吸い寄せられるようにモニターのそばへ。
この細い管に繋がれた現実を捨て、俺はあっちへ戻る。
魂のすべてを賭けて、あの狂おしいほどに愛しいバグを――レオを、止めにいくんだ。
そもそも、物理的に触れられるのかすらわからない。
俺にはもう、骨も肉も、スイッチを押し下げるための指の力さえないはずだ。
だが、伸ばした右手に“レオを救いたい”という烈火のような意思を込める。
祈るように、呪うように。
実体のないはずの指先が、確かにモニターの冷たい感触を捉えた。
パチッ。
乾いた音が、静寂を切り裂く。
――よし、押せた。
これを止めれば、母さんは自分を責めるだろうか。
あるいは、不実な息子を放置したと、誰かに指を差されるだろうか。
「……ごめん、母さん」
たとえ、この先に母さんへの非難が待っていたとしても。
たとえ俺が、親不孝の極みとして地獄に落ちることになったとしても。
それでも、俺はレオの絶望を終わらせに行く。
「……勝手な息子で、ごめん……っ」
俺の見えない手が、スイッチの感触を掴む。
酸素を送り込む機械。
心拍を見守るモニター。
絶え間なく鳴っていたアラーム。
ひとつずつ、そっと、電源を落としていく。
機械が静かに息を潜めていく。
祈りと、呪いと、母への謝罪を込めて。
俺は、自分をこの世界に繋ぎ止めていた、最後の線を断ち切った。
そして、部屋にただ静寂だけが残った。
「……ありがとう」
言葉にならない想いを胸に、
震える声で、そっと続ける。
「俺の体。母さん。」
ただ、静かだった。
世界は、白く、音もなく、静かだった。
***
拘束された椅子に凭れ、
リュシアンは静かに目を閉じていた。
窓の外から差し込む月の光が、
白い肌と乱れた栗色の髪を照らしている。
その光景は、まるで死を待つ聖人のようで──
それでも、レオの瞳には“壊れてしまった兄”にしか見えなかった。
「……もう、俺が壊れるしかないんですか? ──兄さん……」
声は震えていた。
手の中のナイフが、カチカチと小さく音を立てる。
もう、優しかった兄はいない。
あの目の奥の光は、とうに消えている。
何度ループしても、何を変えても、
リュシアンはいつか“壊れてしまう”。
理由がわからない。
ただ、庭を見ていただけの夜にさえ、壊れていた──
もう、どうすれば兄を守れるのかわからない。
だったら。
だったら……すべてを消すしか、ない。
そのためには、
この世界の“終わり”を、ここで引き寄せなければならない。
「──ごめんなさい、兄さん」
歩み寄る。
ナイフを、喉元に。
その指にこめられた覚悟は、本物だった。
だが。
そのときだった。
静かに、
リュシアンのまぶたが開いた。
「……レオ」
優しい声だった。
あまりにも、優しかった。
レオの動きが、止まった。
刃がぷるぷると揺れる。
「……にい、さん……?」
その瞳に、狂気はなかった。
憎しみも、怨嗟もなかった。
そこにあったのは、
深い優しさと、
長い時間の果てにたどり着いた哀しみと──
それでも、自分を信じてくれている光。
ナイフが、手から落ちる。
カシャン、と音を立てて、床に転がる。
レオは、その場に崩れ落ちた。
「……どうして……なんで……」
嗚咽が漏れる。
歯が、震えるほど食いしばられていた。
信じたかった。
けれど、信じられなかった。
その“信じたい”と“信じられない”の間で、
何度も何度も世界を殺してきた。
それでも今、目の前にあるのは──
“何度壊れても、自分を許した兄”の眼差しだった。
「ごめん、なさい……俺、また……兄さんを──」
リュシアンは、首を横に振った。
「……おまえが俺を殺そうとしたことなんて、一度もなかったよ」
その言葉に、胸の奥を何かが強く突いた。
息が一瞬止まる。何かを言おうとしたのに、喉がうまく動かなかった。
レオは、ただリュシアンを見つめていた。
言葉を発せようとすれば、何かが崩れてしまいそうで。
「おまえは、いつも“救おう”としてた。俺を。ずっと……ずっと、あのときから……」
レオが顔を伏せ、泣き崩れる。
嗚咽が止まらない。
リュシアンは、拘束されたままの腕を、少しだけ持ち上げようとして──
できないとわかると、優しく、笑った。
「レオ。俺、やっと気づいたんだ。……なにをすれば“終わらせられる”のか」
レオは、ただ黙って聞いていた。
何も言わず、何も抗わず。
静かに、涙だけが頬をつたって落ちていった。
「おまえが、何度も何度も俺を殺して、やり直して、
それでも俺がいなくなって、また戻って。……きっと、あれは、おまえが願ってた未来にすら、たどり着いてなかったんだろ?」
「…………はい」
この瞬間、レオは悟った。
兄は、全部知っているのだと――自分が繰り返してきたことも、その果てに何を失ったのかも。
「だから、今度は、俺が“やってきた”んだよ。
この果てまで。……全部終わらせて、ようやくおまえに“戻って”きた」
“壊れたふりをしてたんだ”
そう告げるような微笑みだった。
けれど、レオの瞳は揺れていた。
それでも、信じきれずにいる。震える声がこぼれる。
「……本当に……終わったんですか? 兄さんは……もう、どこへも行かない?」
「――ああ。終わった。俺は、ちゃんと全部、閉じてきた。
もう誰も死なないし、俺も、おまえの前から消えたりしない。……何があっても、もう二度と」
「本当に……?」
「うん」
「もう、やり直さなくていい……?」
「……もう、やらせない」
レオは顔を伏せて、また泣いた。
それは絶望の涙じゃなかった。
やっと終わったんだと、心が理解した証だった。
静かな沈黙が、ふたりを包んでいた。
言葉はもう、いらなかった。
ただ、胸を打つ心臓の音と、頬を伝う涙の滴る音だけが、
この夜のすべてを物語っていた。
――この夜を境に、世界は変わる。
けれど。
崩れかけていた“兄弟の世界”だけは、
壊れずそこにあった。
いいや――壊れかけたからこそ、
ふたりは、あの頃よりも深く結びついたのかもしれない。
言葉にならない想いが、静かな夜に溶けていく。
涙の熱も、胸の痛みも、すべてを包んでくれるこの場所で。
信じた絆に、もう一度触れることができた。
二人は、ずっと探していた世界に、
ようやくたどり着けたのだった……。
ともだちにシェアしよう!

