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第16話 ハッピーエンドのその先で①
そこは 森の奥深く、静けさに包まれた小さな小屋。
それはレオが、幾多の世界を巡る中でただひとつ、兄との未来を信じて用意していた場所だった。
ただ、抱きしめあったまま──二人は眠った。
肩にかかる腕の重み、ゆるやかな呼吸のぬくもり。
そのすべてが、俺を深い安堵で包み込んでいた。
もう誰も、何も奪わない。
殺されることも、失うことも、もうないんだと──
俺の中の幾千の警鐘が、ようやく静まっていく。
レオの胸元に顔を埋めると、彼は何も言わず、ただ強く俺を抱きしめ返してくれた。
そこに、欲も焦りもない。ただ互いを慈しみ、赦し合うような、そんな夜だった。
“愛してる”なんて言葉を交わさなくても、十分だった。
今だけは、何も考えず、何も疑わず──ただ、この腕の中にいられたら。
きっとそれが、俺たちにとっての“救い”なのだと、思えた。
どれくらい眠っていたのかは分からない。
けれど、まぶたの裏がじんわりと明るくなっていくのを感じて、レオはゆっくりと目を開けた。
視界の端で、朝の光が淡く揺れている。
柔らかな日差しが、窓辺のカーテン越しに、まるで静かに祝福でもしてくれているようだった。
ぬくもりが傍にあった。
「……兄さん……?」
小さな声だった。
朝の静寂に溶けてしまいそうなほどの、掠れた囁き。
レオは身じろぎもせず、じっと隣に眠る男の横顔を見つめていた。
夢じゃないか。──そう何度も思った。
あの夜、たしかに抱きしめたはずのこの温もりが、朝になったらまたひとりきりで、
冷えたベッドに戻っているんじゃないかと。
リュシアンが、また壊れてしまっているんじゃないかと。
何度も、何百回も、そんな朝を越えてきた。
奇跡を、信じることを恐れてきた。
だから、まぶたの奥が熱くなった。
その時だった。
隣で寝息を立てていたはずのリュシアンが、ふと気配を感じたように目をうっすらと開いた。
焦点の合わない目が、ゆっくりとレオを捉える。
それから、ゆるやかに──本当にゆっくりと、微笑んだ。
「……大丈夫。ここにいるよ」
その声は、ひどくやさしくて、
まるで、すべてを包むようだった。
リュシアンは、まだ寝起きのままの手で、レオの頭をそっと抱き寄せた。
額と額が触れる距離。ぬくもりが伝わってくる。
「……もう、独りにしない」
その言葉が、あまりにも静かで、真っすぐで──
レオは何も言えなかった。
ただ、ゆるされた子どものように、彼の胸に顔を埋めて、目を閉じた。
ぬくもりがあった。
鼓動が、あった。
それだけでよかった。
それだけで、世界はちゃんと、朝を迎えてくれるのだと思えた。
***
柔らかな陽が、木の葉越しに差し込んでくる。
あたたかなぬくもりに包まれたまま、俺はゆっくりと瞼を持ち上げる。すぐ傍には、ぐっすりと眠るレオの寝顔。安心しきった顔で、小さく寝息を立てている。
「……そろそろ、起きなきゃ」
小さく呟きながら、そっと身を起こしかけたその瞬間。
ふいに、手首を掴まれた。
「……レオ?」
振り返ると、半分寝ぼけたようなレオが、俺の手首を離さないまま、目を細めていた。
「兄さん……もうちょっと……」
低く掠れた声。眠気の残るその声音に、胸が妙にくすぐったくなる。
抗う間もなく、ゆるやかに引き戻される。肩が、背中が、再び毛布の中へ沈んでいく。
「……おまえな……」
思わず呆れたように笑ってしまう。でも、心の奥がやわらかくなっていくのを止められなかった。
レオの腕の中にすっぽりと収まると、胸に顔を埋められる。
「……まだ、夢みたいで。もうちょっとだけ……ここにいてください」
囁くようなその言葉に、俺は何も言えなくなった。
レオの手が俺の背をやさしく撫でるたびに、胸の奥がじんわりと満たされていく。
──もう少しだけ。
今朝だけは、もう少しだけこのぬくもりに甘えても、きっと許される。
語らいの中で、いつしか自然と、レオと“答え合わせ”をしていた。
やはり──俺は、何度も同じ時を辿っていたわけではなかった。
それは、ただの錯覚。ただ、そう思い込んでいただけのことだった。
けれど、“繰り返された記憶”だけが、なぜか俺の中に、確かに残っていた。
なぜ、そんなことが起きたのか。
レオにも、その理由は分からないようだった。
いいや──きっと、誰にも分かりはしないのだろう。
それでも、ひとつだけ、思うことがある。
もしもそれに理由があるとするなら。
それは、レオの──あまりにも深く、重たく、
果てしない「愛」と「執念」ゆえなのではないかと。
レオは、幾多の世界線を旅してきたという。
その一つひとつの結末に、俺がいて。
俺を諦め、手放し、救えなかった痛みがあって──
そのすべてを背負って、ここにたどり着いたのだと。
それが、どれほど気が狂いそうで果てしない旅だったのか。
想像しようとしても、俺の理解は追いつかない。
「……俺は、あまり城の使用人にも、よく思われてなかったんですけど、
俺の陰口をたまたま聞いた兄さんが、庇ってくれたことがあって……」
「え……俺、そんなことしてたの?」
「はい。……『推しを愚弄するな』って。……言ってる意味はよく分からなかったんですけど。
ああ、この人は俺の味方なんだなって思いました」
「ちょ、なにそれ、恥ずかしいんですけど!?」
レオは、俺の知らない“俺”の仕草や、何気ない言葉を、まるで懐かしむように語る。
あの時の笑顔が愛しかった、と。
突然泣き出した時の顔が可愛くて困ったんだ、と。
そんな、聞いているこっちがむず痒くなるような話ばかりだった。
正直、信じきれていない自分もいる。
それでも、レオの目はまっすぐで──何より、
そんなふうに語る彼の声は、ひどく優しくて。
愛おしさに満ちていて。
……そして、その奥底には、どうしようもない哀しみが滲んでいた。
まるで、愛しさゆえに、どうしても“終わらせなければならなかった過去”を、
いまもそっと抱きしめているかのように。
もちろん、「違う」と判断されて、命を奪われた俺もいる。
それでも──そうするしかなかったのだと、
あの時の彼の心を思うと、俺はもう、責めることができなかった。
追い詰められて、狂うほどに、それでもなお“俺”を求めてくれた彼を。
胸の奥がじわりと熱くなった。
レオの指先が、そっと俺の髪を梳く。
まるで触れるたび、何度でも確かめるように。
どれほど抱きしめても、まだ足りないとでも言いたげに。
「……何度も、数え切れないくらい兄さんを抱いたのに……まだ足りないなんて、どうかしてる」
言葉は穏やかだった。でも、その瞳に宿る熱は、やけに深くて──
「……な……っ」
喉の奥がひくついた。
その目で見つめられるだけで、身体が勝手に火照ってくる。
俺の知らない、いくつもの“夜”を、この男は記憶している。
そう思った途端、耳の奥まで熱くなった。
「お……おまえ……!」
わなわなと震える声が、情けなく反響する。
情欲というより、羞恥で死にそうだった。
「まさか出会ってすぐ、事に及んだりとか、してないだろうな……?」
俺の問いに、レオはただ──にやりと口角を上げるだけだった。
何も言わず、何も否定せず、ただその笑みだけを残して。
「……………!!」
息が詰まり、喉がひくつく。
脳裏に、思い出せない“記憶”が浮かび上がりそうになる。
記憶のない自分が、どこかの世界でレオに身体を求められるがまま許していた──
そんな想像だけで、胸が締めつけられた。
「お、おまえっ……!! そういうとこだぞ、ほんと……っ!」
顔が火照って仕方ないのに、レオは嬉しそうに目を細めている。
まるで、照れる俺を味わうのが愉しみのひとつみたいに。
「……可愛いですね。やっぱり、何度やり直しても、兄さんは変わらない」
「うるさいっ……! 変わってるよ、……今は、ちゃんと覚えてるし……!」
「はい。だから……もう、一からやり直す必要はないんです。
記憶のない貴方を騙したり、焦らせたりする必要も、もう……ないですから」
優しく、でも熱を孕んだ声。
レオの手がそっと俺の手を包む──その温もりが、すべてを語っていた。
「……今度は、ちゃんと……兄さんが“望んで”くれるまで待ちます。
ただし、覚悟しておいてください。今度こそ、何百回分の“兄さん”を、一晩で愛すつもりですから」
「な……っ……バカ、バカかおまえは……!!」
俺の抵抗なんて、たぶん全部、バレてる。
なのに口を塞がずにはいられない──そんな自分にも、腹が立つやら恥ずかしいやらで、
この夜の行き先なんて……考えたくもなかった。
けれど──心の奥底では、ずっと、望んでいたのかもしれない。
レオはそんな俺を、微笑みながら愛しげに見下ろした。
***
小屋での静かな暮らしにも、いつしか幾日かが過ぎていた。
寂しさで空いていた心の隙間を、埋めるように。
俺たちは寄り添い、ただ、互いの鼓動に耳を澄ませながら時を過ごしていた。
触れることも、視線を交わすことも、ずっと足りなかった。
だから、ふとした瞬間にそっと指先が重なり、
唇が触れ合うたびに、胸の奥にしまっていた想いが、少しずつ、静かにほどけていった。
けれど、ずっとこのままというわけにもいかない。
そっと、レオの髪を撫でながら、俺はぽつりと呟いた。
「……いい加減、王都に戻らなきゃな。
みんな、俺のことを心配して……下手したら、大騒ぎになってるかもしれない」
布団の中でまどろんでいたレオが、ふいにこちらに目を向ける。
そして、まるで何でもないことのように、あっさりと言った。
「大丈夫ですよ。この世界線の兄さんは──三年間、行方不明ってことになってますから」
「……は?」
意味が飲み込めず、思わず聞き返してしまった。
レオは肩をすくめながら、ひょいと身を起こす。そして、指先で俺の前髪をふわりと梳いた。
「でも問題ありません。異国の地で囚われていた兄さんを、俺が命懸けで助け出しましたって顔して、しれっと戻るだけですから」
「……おまえって、ほんと……ああ、まぁいいや、もう……」
呆れたように言いながらも、なんだか可笑しくなって、俺は少しだけ笑った。
こんな風に軽口を叩けるようになるまでに、いったいどれだけの時間がかかったんだろう。
「上手くいくのか、それ?」
「抜かりはありません。伊達に、数百の修羅場をくぐってきてませんからね」
得意げに言うレオの目の奥に、ほんの一瞬だけ、鋭い光が差した。
──ああ、そうか。
冗談みたいに言ってるけど、本当に全部、くぐってきたんだ。
俺を取り戻すために。何十、何百と──。
「……そうだな。信じるよ」
そう言って、俺はレオの頬にそっと触れた。
「おまえのその顔、嘘はついてない」
ほんの少し、レオが照れくさそうに笑った。
その笑顔が、今はこんなにも近くにある。
もう、失いたくなんてない。
何度でも、何度でも──この手で、抱きしめたい。
***
王都に戻ったのは、初夏の風が街を撫でる頃だった。
あの森の小屋で、もう少しだけ二人きりの時間を過ごしていたかった。
でも、俺は「帰ろう」と言った。
帰らなければいけない理由も、待ってくれている人々の顔も、胸に浮かんでいたから。
そして、俺たちは戻った。
レオは、「異国に囚われていた王子を救い出した英雄」として迎えられた。
城門が開いたその瞬間から、歓声が沸いた。
俺が生きていることに、人々が涙し、声を上げて喜んでくれる──それが、なんだか不思議だった。
城の中庭で、たくさんの顔に出会った。
ジーク――彼は、泣き笑いで俺に殴りかかってきたかと思えば、そのまま抱きしめて離さなかった。
「リュシアン……! どれだけ、どれだけ探したと思ってんだよッ……!」
アレクシス副団長は、咽び泣きながら肩を震わせ、何度も何度も頷いて──俺を迎え入れてくれた。
「……おかえりなさい、リュシアン殿下。
我々は……我々は、ずっと、あなたを信じておりました」
そして──セシル兄さん。
兄さんの腕の中は、懐かしかった。
その静けさも、包むような温度も、微かに感じる香りまでもが。
まるで、もっと幼い頃──本当の「子どもだった俺」が知っていたような、そんな懐かしさ。
兄さんも何も言わず、ただ俺を抱きしめてくれていた。
皆が俺を囲み、触れ、涙を流し、笑っていた。
けれど──どこか、奇妙な気持ちだった。
俺の中では、つい昨日のことのように、皆と過ごした日々が残っていて。
時間がすっぽり抜け落ちたまま、ほんの数日ぶりに会ったような気がしてならなかった。
なのに、彼らは三年分の喪失を抱えて、俺を迎えてくれている。
俺だけが、置き去りにされたみたいに、過去に取り残されたままで。
そのことが、どうしようもなく──申し訳なかった。
ふと、その輪の外に視線をやると──
レオが、ひとり、少しだけ離れた柱の影に立っていた。
誰とも言葉を交わすことなく、ただ静かに、俺の様子を見つめていた。
目が合った。
レオは、いつものように柔らかく笑った。けれど──ほんのわずかに、その目が寂しそうに見えた。
あとでそっと聞いた。
「……おまえ、なんであんな顔してたんだ?」
レオは首を横に振って、少しだけ間を置いてから、ぽつりと呟いた。
「……やっぱり、帰らなければよかったって、思っちゃいました。
兄さんは……本当に、ここに必要とされてる人だったんだなって」
俺は、思わずため息をついた。
「バカ言うな。……おまえがいなきゃ、俺はこの場にいなかった」
レオはまた、曖昧に微笑んだ。
けれどその目は、俺の言葉をどこか信じきれていないようにも見えた。
そうか──おまえは、まだ不安なんだな。
何度世界を巡っても、俺の隣に立つ資格を自分に与えてやれてないんだ。
だから、今度は俺が──何度でも証明してやるよ。
おまえが、ここにいていいってことを。
俺の隣に、当然のようにいていいってことを。
そう、強く思った。
***
執務室の窓から差し込む陽光が、机の上に散らばる報告書の端を照らしていた。
久しぶりの王城は、少しだけ空気が硬くて、俺はまだ完全に馴染めずにいた。
そんな中でも──レオは、変わらず俺の傍にいた。
以前のように監視するでもなく、ただ、必要な時に手を差し出してくれる。
だが、不思議なことに──彼は自分の立場を「執事見習い」のまま据え置いたままだった。
「……レオ。いい加減、見習いの肩書き、外してもいいんじゃないか?」
いつものように紅茶を淹れにきたレオに、ふと思いついてそう言った。
彼は静かにカップを置き、俺の言葉に微かに眉を寄せた。
「……いいんです。見習いのままでも。兄さんの隣にいられるなら、それで充分ですから」
その言葉が、俺の胸に棘のように刺さった。
なんで、そこまで自分を引き下げるんだ。
なんで──自分の価値を、そんなふうにしか見ないんだ。
「……それじゃ、周りが納得しない。
おまえは、あの三年間……いや、それ以上に、俺のために、誰よりも多くを見て、選んできた。
そんなおまえが、“見習い”のままでいいわけがない」
レオは、ふと目を伏せた。
そして少ししてから、わずかに唇をほころばせる。
「……じゃあ、命令してください。
“俺の傍にいろ”って。正式に、貴方の執事にしてくれって」
「……命令なんてしなくても、いてくれよ」
俺は立ち上がり、レオの正面に向き合うと、まっすぐにその目を見た。
「レオ。おまえを、俺の正式な執事として迎えたい。
これからも──ずっと、俺の傍で、生きてくれ」
それは、たぶん、王子としての辞令なんかじゃなかった。
もっとずっと、深い感情が乗っていた。俺の、俺だけの本音だった。
レオは驚いたように目を見開き、それから、こくんと小さく頷いた。
「……はい。喜んで、お受けいたします。兄さん」
その声は、何よりも静かで、けれど確かな決意を孕んでいた。
こうして、レオ・ヴァルデンは──
“第三王子リュシアン・ラグランジュ付き第一執事”として、正式に任命された。
俺の傍には、ようやく本当の意味で、レオが戻ってきた。
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