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迫る現実 3
「はいこれ」
「ありがと」
大事な話ならあまり人が来ないところの方がいいだろうと店の奥の席を取っていた俺のもとに、カップを手にしたミャーがやってくる。
ミャーが買ってきてくれたのはホイップクリームの乗ったホットココア。仕事終わりには甘いものがお決まりだ。ミャーの手元にあるのはルイボスティーラテ。いつもは新作か普通にアールグレイなのに珍しい。
「それで、なんて言って連れてきた?」
それで唇を濡らすやいなや、突然話を始めたミャーに口に含んでいたココアをごくんと飲み込む。
「……軽い気持ちで見てみる? って聞いたら、本人が見てみたいって」
唇についたクリームが取れているか気にしながら、ミャーの顔を窺う。怒ってるというより、眉間にしわを寄せた複雑そうな表情だ。
「この前からずっと気になってたんだけど、どういう説明の仕方したんだ? 自分たちの関係のこと。明らかに前より距離近いよな? 俺に相談もなくなったし」
「……実は、俺たちラブラブな恋人なんだよと、教えました」
ずっと俺たちの話を聞いてくれていたミャーからすれば、わざわざ俺の仕事場に来て見ていくのも、俺の呼び方も違和感たっぷりらしい。付き合ってからはずっと「朝生くん」呼びだったから、下の名前で呼ぶだけで相当違和感を覚えているのだろう。
その怪訝な顔からしてだいぶ不審に思われているようで、さすがに素直に自白した。細かいことは言わずとも、普段の朝生くんの態度を知っているミャーからしたらそれで十分だったんだろう。
深いため息をつかれ、こちらは縮こまる。
恋人同士は嘘ではないけれど、俺の認識からしたら「ラブラブ」は明らかに過剰な表現だった。それがわかっているからこそミャーのもの言いたげな視線は居たたまれない。
「で、満足した?」
それでもミャーは責めることなく、端的に聞いてきた。
俺が言った関係性を元に、記憶を失った凌太くんにはずいぶんと優しくしてもらった。たぶん朝生くんとの何年分かより、今の方が一緒にいる時間が長い。そして濃密だ。
それはすべて俺が正しく二人の関係性を言わなかったためで、そんな質問をされるととても悪いことをした気分になる。
「どうすんの、これから」
俺の表情から答えを聞くまでもないと思ったのか、グラスに口を付けて話を続けるミャー。
今までの話の後は、これからの話。
「さっきの様子じゃ記憶戻ってないんだろ? 話しか聞いてないから俺にはわかんないけど、前までは蛍が仕事してるとこを見たいなんて言わなかったよな?」
「うん」
「じゃあ本当にどうすんの? 中身がほぼ別人な男と恋人ごっこして暮らすの?」
「でも、完全に別人ってわけでもないんだよ。根本的な優しさは変わってないし、凌太くんもそれなりに俺のこと気に入ってくれてるみたいで、結構上手くやれてると思うんだけど」
なんなら、距離だけで言えば今の方が近い。そりゃあ戸惑うこともあるけど、日常生活を送るのに不便はない。
それになにかのきっかけで突然思い出すこともあるかもしれないんだから、今までの生活を続けるのがおかしいとは思わない。
けれどミャーは大きく息を吐いて、テーブルに肘をついた。
「それってそいつの本心なわけ? 記憶なくして、一番親身になってくれる相手が『自分たちはラブラブな恋人』って言ってるわけだろ? それって信じるよりほかないっていうか、すがるよな。じゃないと行くとこないんだし」
「それは……」
「そもそも蛍はそれでいいんだ? 蛍の好きになった朝生凌太はどこにいる? サッカー部の朝生先輩もライブに呼んでくれた歌の上手い朝生くんもどこにもいないんだろ?」
勢いよくまくし立てられて、ぐっと言葉に詰まった。
もしもこのまま記憶が戻らず、凌太くんが音楽を選ばなかったら。
メンバーのみんなは歌うだけでいいと言っていたけれど、当然同じようには歌えないだろうし、そもそも音楽自体を選ばないかもしれない。
凌太くんは凌太くんとして、全然別の人生を歩むかもしれない。
その想像が、ミャーの言葉で現実的な話として突き刺さる。
「外見は同じでも中身は別人。わかってるだろ? 思い出も持っていない、考え方も違う、もうバンドもしないんだろ? ほら、蛍の好きになった朝生凌太はもういないって。そんな男に好かれたところで、蛍は今まで通りの愛情を返せる?」
「俺は、でも、朝生くんが好きだし……」
「それはいなくなった『朝生くん』だろ」
いつか記憶が戻るかもしれない。でももしも戻らなかったら。
もしもずっと戻らないまま凌太くんとして別の人生を選んだら。
そう思うと、世界が閉じたみたいに全部の音が遠くなった。
店内の喧騒も誰かの話し声もBGMも、全部が遠い。
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