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ファーストアタック④
廊下には、夕日が長く差し込んでいた。あちらこちらから活気のある音が聞こえてくる。
廊下の角を曲がったところで、雪弥が吹き出した。人前で見せることのない素の表情で笑っている。そういうときの雪弥はまっすぐに横に伸びた眉が八の字に垂れて、冷たさが引っ込み少々愛嬌のある顔つきになる。
天陽はその笑顔を見つめて、つられたように口元を緩めている。
「琢磨の奴、相変わらず、俺に突っかかってくんのな。ちょっと前の天陽そっくりだ」
「え、俺、あんなだったっけか」
「そうだよ。ここに入ったばっかの頃、覚えてない? 俺にだけ敵意を向けてた」
寮に入った日、雪弥がルームメートの天陽からかけられた第一声目が『お前が藤堂雪弥か。フンッ』だった。
外見も内面も育ちの良さを感じさせ、どの生徒にも人当たりの良い天陽が、雪弥にだけは挑戦的だった。
おそらくは、雪弥が天陽にとっての最初の挫折だったのだろう。天陽は生まれも育ちも良い優れたαで、さほど努力することもなく、何でも軽々とこなしてきたはずだ。
それが、公立小学校出身のぽっと出の雪弥に入試得点で抜かされたのだから、愕然としたに違いない。
しかし、それも最初のうちだけで、すぐに天陽は白旗を上げて、雪弥に打ち解けてきた。
雪弥にとっては大型犬が警戒を解いて懐いてきたような感覚だった。
「まあ、俺はすぐに諦めたからな。雪弥には勝てないって」
「大体、お前は欲張りなんだよ。バスケもしたいし、生徒会も手を抜きたくない、って。だから、中途半端になるんだよな。試験では俺を抜かせないし、数オリは入賞できないし、バスケはインターハイで敗退だしな」
「いたたっ、雪弥さんっ、俺を抉らないで。インターハイは今でも夢に見るんだから」
天陽は胸に手を当てて痛がってみせた。確かに最後の試合は惜しかった。
全国から化け物を集めたような強豪校を相手に、天陽たちは良く戦った。その強豪校は結局優勝したのだから、全国二位の実力だった可能性もある。しかし、負けは負けだ。
「抉れろ抉れろ」
「次の試験こそ、雪弥を抜かすからね?」
「これ以上フラグ立てるなって」
残念ながら、次の試験でも雪弥は首位を譲る気はない。天陽は六年間、ずっと雪弥を抜かせないまま卒業することになるだろう。
「あーあー、あと半年かあ」
天陽は急にたそがれた声を出した。
「天陽との腐れ縁もやっと解消だな」
中学入学以来、雪弥と天陽は、クラスも寮の部屋もずっと同じだった。出会いこそ良くなかったが、天陽が気の合わない奴ではなかったことに、雪弥は心から感謝している。
「雪弥は俺を捨ててアメリカに行っちゃうんだもんなあ」
夕暮れの廊下に、その声が寂しげに響く。
放課後の校舎は、平和で、そしてどこかしら物寂しい。そこがいずれ去らなければならない場所だとわかっているからだろうか。
今、このとき、もう二度と過ごすことのないかけがえのない時間を過ごしている。いずれは別々の場所へと旅立つ仲間とともに。
「自分のものじゃないものは捨てられないだろ」
「はあ? 俺も俺の財布も雪弥のものですけど? こんなにご主人様に尽くしてきたのにィ。何でアメリカに行っちゃうのかなあ?」
天陽は先ほどの百万を当てこすってか、そんなことを言っている。
「お前もくればいい。まだ間に合う」
「俺、米と味噌汁がないと生きていけない平成時代の人間だし」
「ほお、ご主人様よりそっちを取るのか」
冗談めかしているが、天陽のような由緒正しい家柄では好きな道を選ぶことなどままならないことは雪弥にもわかっている。将来、天成学園グループを背負うことになる天陽には、決められた道というのがあるのだろう。
(自由気ままだけど喜んで出迎えてくれる家族もいない俺と、立派なレールが用意されているものの制限の多い天陽とどっちがマシかな)
雪弥は天陽と自分とを比べて見たものの、すぐに自嘲する。答えはわかりきっている。両親の愛を受けてすくすくと伸びやかに育った天陽に、雪弥が叶うはずもない。
(天陽は俺なんかとは比べ物にならない。人間の出来が違う)
雪弥は、名実ともにこの学園のトップで、リーダー的存在であるが、アンチも多い。琢磨のように直接にぶつかってくるのはまだ可愛げがあるが、「傲慢」だの「冷淡」だの陰口を叩いている輩も多い。
(思えば天陽にずっと救われてきたのかもしれない)
雪弥への批判や非難が、燃え立つこともなく穏やかに過ごせてきたのは、天陽のお陰かもしれなかった。雪弥のとがった態度を、いつも隣にいる天陽が中和してきたに違いないのだ。
雪弥がいなければ、天陽が学園のトップに君臨していたはずで、天陽が勉強一本に絞れば、雪弥を抜かすことも可能だっただろう。正直、雪弥は毎度ぎりぎりで逃げ延びてきたという実感がある。
(トップの座を天陽に譲られているのだとしたら……)
ときおり浮かぶその考えがそのときも浮かんだ。それを考え始めると惨めな気持ちになる。なんの根拠もない考えでしかなかったが、雪弥が抱える鬱屈がその卑屈な考えを育て上げてしまう。
(俺は惨めに思うだろう)
「あー腹減ったなー」
天陽がのんきな声を出した。
雪弥のなかで膨らみかけてきた卑屈さが、天陽の声で霧散する。
「なー、雪弥ー、今日の晩飯なんだろうー。肉食いてえ、あ、魚でもいい、何でもいいから食いてえー」
隣の天陽は雪弥と目が合うと、にへらっと笑った。
(何でこいつ、あほっぽい顔してるんだろうな。そして、そのあほっぽい顔になんで俺は安心してしまうんだろう)
何があっても雪弥の天陽への信頼だけは消えない。いつの間にかそばにいるのが当たり前で、もっとも心地の良い場所、それが天陽の隣だ。
天陽の伸びやかな顔を見ているうちに、自然と雪弥は顔がほころんだ。笑みを浮かべる。
天陽は雪弥の顔を、見返してきた。そして、ふと前を向くと大声を出した。
放課後の廊下に天陽の声が涼しく響く。
「ずっと今のままでいてーなー」
雪弥の胸にも同じ想いが沸き起こる。
(ずっとこのままでいたい。ずっと天陽と)
しかし、その想いは大きく広がる前に打ち消さなければならない。
雪弥はレールの敷かれていない道を行く。その道を輝かしいものに出来るだけの自負はある。
そして、その道は天陽の行く道とは別々の地平へと続いている。
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