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高まる熱⑦
「雪弥、起きて」
雪弥が目を覚ましたとき、スモークガラス越しに、空が白みかけているのがわかった。何度も求めあって夜中に力尽きた。
天陽は雪弥の上半身を起こして、シートにもたれさせた。
「飲める?」
ペットボトルは手が震えてうまく掴めなかった。
天陽は、ペットボトルを煽り、口移しで雪弥に水を飲ませてきた。
雪弥は天陽が与えてくるものを雛のように従順に飲み込んだ。
雪弥は、うつろな目の焦点を天陽に合わせた。
天陽は何度もペットボトルを煽っては、少しずつ雪弥に水を飲ませる。
雪弥はじっと天陽を見ている。天陽の顎を上に向ける仕草、喉の動き、それらの一つ一つに、雪弥は目を奪われている。
雪弥は天陽に、細胞を瑞々しく呼び覚まされるような甘い痺れを感じていた。
(俺のα……)
体の奥底から、その想いが沸き起こる。
天陽を見る目は、熱っぽく浮かされている。天陽に酔っているようだ。
(てんよう……。俺の……)
天陽の柔らかい髪に手を通す。
(この髪が好きだ。この目も好きだ。この口も好きだ。何もかもが全部好きだ)
天陽の髪に手を差し入れて、大事なもののようにそっと梳かす。
(好きだ。髪に滲んだ汗までも好きだ)
雪弥の唇から天陽の唇が離れるたびに、雪弥は天陽の髪に頬に口づけを落とし始める。
熱に浮かされたように雪弥は天陽に何度も口づけている。
「雪弥? ふふ、くすぐったいよ?」
天陽は微笑んで見返してくる。雪弥も口元を緩めた。雪弥のふわっと愛嬌のある笑顔を、天陽は胸を突かれたような顔で見つめ返してきた。
(天陽、俺の。出会ったころは頬もあどけなかったはずなのに、いつのまにか引き締まった輪郭を持っている)
雪弥には得難い満足感がある。心身に深く満たされたものがある。
(俺のα……)
雪弥は天陽に流し込まれるがままに水を飲み、最後に粒を飲まされたことに気付いた。
口元に甘い笑みを浮かべたまま、雪弥は天陽に尋ねた。
「何を飲ませたんだ?」
(俺のα。好きだ天陽)
いまだ天陽に酩酊して、雪弥の顔は惚けたように天陽に釘付けになっている。
(俺のα。好きだ好きだ天陽)
頭の中で想いを繰り返している。
「アフターピルだよ」
雪弥は笑んだまま首を傾げた。
「ふふっ、何それ?」
(アフターピル?)
反芻する。
(天陽好きだ、アフターピル、俺のα、俺の天陽……)
突然、冷水をかぶったように雪弥の顔が強張った。笑みが引っ込む。
「え……?」
(アフターピル?)
酩酊から突然に醒める。雪弥の視界の色が入れ替わる。甘かった世界が、色あせていく。
(避妊薬?)
天陽との行為の甘やかな余韻が、ばらばらに砕け散った。
避妊薬を飲ませたのは、天陽との行為に妊娠の可能性があるからだ。妊孕できるのは女かΩしかいない。
「おれ、は、おめが、じゃない」
雪弥の声は震えていた。
しかし、天陽を『俺のα』と強く想うこと自体が、それを否定していた。
雪弥はΩなのだと、体だけじゃなく心までΩになったのだと、そう告げている。
雪弥はガタゴトと震え始めていた。その震えを両腕で体を抱いてとめる。
Ωなど嫌悪する対象でしかない。害虫のような存在だ。
(俺はαだ。圧倒的な強者である上位αだ。Ωなんかになるわけがない)
雪弥は奥歯を噛みしめて天陽を見つめた。
(俺のこの天陽を愛しいと思う気持ちまで、Ωになったからなのか)
雪弥が自身にも気づかせないで大事に胸の奥にしまってきた天陽への『好き』まで、汚れたような気がした。
胸の奥にしまった感情が、Ωの本能で上書きされて、薄汚れたものになってしまった。
(俺がめちゃくちゃにした。ほら、やっぱり、惨めなことになっただろ。天陽とこんなことをしてしまったから。俺の想いもぶち壊した)
「Ωじゃなくても、念のためだよ?」
天陽のいつもの伸びやかな顔。その伸びやかな顔が、すっと雪弥を鎮める。歪んでいく思考を平らかに伸ばす。
天陽の存在に、深い深い安堵を抱く。
(好きだ、天陽)
もう一度胸に想いが灯る。
(俺のαじゃない。俺のものでもない。だが好きだ。天陽が好きだ)
真新しい『好き』が沸き起こり、また上書きされる。雪弥はそれをもう一度、胸の奥にしまい込む。
これはしまい込まなければいけない想いだ。それだけはわかっている。
(でも、勝手に好きでいることくらい許されるだろ)
「Ωじゃないよな? 俺がΩのはずがない」
「うちの学校のトップがΩならニュースになるわ」
「それな」
雪弥が不安を紛らわせて笑うと、天陽も声を立てて笑った。天陽の朗らかな笑い声が車内に響く。
「俺、もう匂わないだろ?」
天陽が項に鼻を近づけた。そのまま唇を押し付けてきた。チュ、チュ、と音を響かせる。その音で、この体は天陽に暴かれた、と思い知らされる。
天陽はそのまま唇を頬へ移動させ、唇を重ねてきた。雪弥は身を逸らして、その唇から逃れた。
「やめろ。俺たち、そういうんじゃないだろ」
「そうなの?」
「お前のお陰で助かった。このことは忘れてくれ」
「うん、了解」
天陽の軽い返事にズキリと胸に痛みが走る。
(だよなあ、お前にとっては大したことじゃねえよな。俺とのセックスなんか)
惨めさに涙がにじんでくるのを慌てて手で拭く。
ドアを開けると、夜中に一雨降ったのか、路面がぬれていた。
雨に洗われた澄んだ空気に、気持ちがあらたかになる。
天陽が雪弥のおでこに手を当ててきた。
「うん、もう熱はないね」
明朗な天陽の声が、朝空に溶けていく。
(大丈夫だ、何でもない日常を取り戻せる。かけがえのない日々がこの先もまだ続くんだ)
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