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戻らない日常⑥

一度、生じたほころびは、確実に広がっていく。油断を突いて、そのほころびに足をすくわれる。 雪弥の当たり前の日常はもう塗り替わってしまっていたことを、その日、思い知る。 せわしない日常に埋没する、何でもない出来事。ただ、学校に行き、友だちに挨拶を交わし、注目を浴びながら、教室に向かう。それだけの道のりでそれが起きた。 (そろそろ推薦状をもらわないと間に合わねえな。先生にもう一度言っとくか) あとからついてくる天陽にそれを告げないで職員室へ行く角を曲がった。誰かに呼び止められた天陽が雪弥に追いついてこられていないことを気に止めることもなかった。 教師とやり取りののち、いつもの澄ました顔で三年の教棟へ向かう。 三年の教室の並ぶ廊下で、口笛が鳴った。 「藤堂さんじゃん、かーわい」 気安い声がかかる。そんな下卑た声かけをされることはこれまでなかった。親しい友だちは呼び捨てだし、さん付けならば、「かーわい」など、からかわれるような口調で話しかけられるはずがない。 急に足が重くなり、雪弥は立ち止まった。 (威圧……? 何だ? ヘタクソな威圧) いつもの習慣で、雪弥はやり返そうと威圧を込めた。その程度の威圧ならほんのわずかな力で跳ね返せる。 (…………?) しかし、雪弥からは威圧は出なかった。何度出そうとしても出ない。 (威圧が出ない………?) 内心で激しく動揺する。 (やはり、お、れは、αじゃなくなったのか?) 予想していたことだったが、実際に味わってみると打ちのめされる。ここ数日、あえて威圧を試さなかった。αだのΩだの考えるのをやめていた。 しかし、攻撃を受けて、こんな形で自分から威圧が消えたことをまざまざと思い知らされるとは。 (やはり、俺はΩになってしまったのか。Ωなんかに) 重くなった足で前に行く。数歩、進んだところで威圧が加わわった。集団に威圧を向けられているのだ。それでも筋力で振り払える程度の威圧だ。 (こんな雑魚な威圧をやり返せないなんて) 雪弥のなかで耐えがたい屈辱とともに恐怖が蘇る。 Ωだったときの恐怖が。Ωそのものだったあの日に味わった恐怖が。暴力への恐怖が。 (逃げなきゃ) そう咄嗟に考えるも、すぐに冷静に考える。 (いや、逃げてどうする? Ωだから逃げるのか? いや堂々としてろ。俺がΩだなんてことは誰も知らない) しかし、雪弥に威圧を仕掛けてくるということは、雪弥にやられ返すことを知ってのことだ。 真正面から誰かに威圧を向けたことはないが、体育祭などで漏れ出る威圧からして、雪弥の威圧がかなり強いものであることは誰もがわかっているはずだ。 それをあえて雪弥に威圧を向けてくるということは。 ぞろぞろと三年の教室から出てきた相手の顔を見て、雪弥は凍り付く。後夜祭の夜に雪弥を襲ってきた暴漢たちだった。 暴漢らは雪弥の行く手を阻んできた。無遠慮に距離を詰めて、馴れ馴れしく腰に手を回してくる。 「藤堂さァん、何で、あんた、この学校にいられんの?」 「笑っちゃうね、αとして学園に君臨してるくせに、実は」 そこで耳に口寄せて、小声で囁かれる。 「Ωだったなんてね」 暴漢の一人が雪弥の首元に顔をうずめてきた。匂いを嗅がれているのだ。 「はああ、この匂い。たまんねえわ、あんた」 「もし、今、強制発情させたらどうなると思う?」 αにはその強いフェロモンで、Ωを発情させることができる。だが、それができるのは一部のαだけだ。雪弥はもちろんそんなことを試したことがないし、間近で見たこともない。耳にしたことがあるだけだ。 「お前らにそんな力はない」 「さあね、わかんないよ?」 「暴行したら停学だぞ」 「あんた、Ωってバレたら停学どころか退学じゃん」 「俺はαだ」 「強がっちゃって、かーわい。こっちおいで。誰もいないところに行こ」 雪弥の腕が引っ張られ、背中を押される。 「大声を出すぞ」 「俺はΩです、αの食い物ですって言っちゃう? おおごとになっちゃうね」 (αの食い物……) 『Victim』の文字が脳内で点滅し始める。抵抗する気力が萎え始める。 (Ωはαの食い物になるしかない……のか。俺はΩだから食い物になるしか) まさか学校で朝っぱらからこんな目に遭うなんて。 「行くよ? 大人しくついて来ないと藤堂さんがΩだって言いふらしちゃうかも」 暴漢は脅迫めいたことを耳打ちしてくる。 (誰もこいつらの言うことよりも俺のことを信じるはずだ。言いふらされても構うことはない。否定すればいいだけだ) そう思うも、足が竦んで動けない。 αばかりのこの場所で、もしも、Ωだとバレたら。Ωとバレたら雪弥は終わりだ。 そのとき雪弥に向けられた威圧が消えた。暴漢らが一斉に顔をゆがめ始める。「うがが」と、うなりながらよだれをこぼす。首が変な方向に曲がっている。 天陽の威圧に違いなかった。 暴漢らは体を重そうにしながら雪弥からのろのろと離れた。顔が恐怖に引きつっている。 背後から天陽の低い声がした。 「お前ら、二度と雪弥に近づくな。それと雪弥のことで妙なデマを流すなよ。やったらぶっ殺すぞ!」 天陽は、暴漢らが何度も頷くのを確認して解放する。暴漢らは逃げ去るように教室へと戻っていった。 (て、てんよう………) 雪弥は立ちすくんだまま動けないでいる。クラスメートの声が聞こえる。 「何? 今、何かあったの? 藤堂、絡まれてたの?」 「テンテン、何で怒鳴ったの? お前が怒るの珍しくね?」  天陽は「え、俺って怒ってばっかだよ?」と、話しかけてきた生徒に笑いかけている。 雪弥はガタガタと震えていた。 天陽が「雪弥、俺、怒りっぽいよな?」と肩を組んで、雪弥が前に進めるように促してきた。 「ああ、アホっぽいよな」 雪弥の声は震えている。 助かったとの思いで気が緩む。天陽の腕の温もりに安心する。 (あつい……あつ、俺……) 雪弥はすがるような目で天陽を見た。天陽も雪弥の異変に気付いて足を止めた。 天陽は雪弥の手を引くと、「駐車場まで走れ」と耳打ちした。 *** 自動車に乗り込むなり、雪弥は天陽に抱き着いた。唇を重ね合わせる。天陽も応じて舌を絡ませて来る。 (もうどうにでもなれ) 半ば自暴自棄になっている。今は、目の前の天陽だけが欲しい。 暴漢のせいで発情が起きたのか、自分の天陽への気持ちで起きたのかわからなかった。しかし、雪弥の体温は上がり、発情に近い状態であることに違いない。 鮮やかに助け出されて、身も心もひれ伏したいほどの気持ちで、天陽を求めている。 (てんよう、いつも助けてくれる。俺の、俺の天陽) 「ごめん、迷惑かけてばかり」 雪弥の口からポロリと素直な言葉が出てきた。 手は互いのシャツのボタンを外し始めている。 「別にいいよ?」 天陽は目を細めて微笑んだ。

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