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戻らない日常⑦

(俺はΩになったんだ) もう目を逸らしてはいられない。自覚なしに過ごしていればこれからも危険な目に遭うだろう。 雪弥はΩになったことを認めるしかなかった。 そのことは雪弥を打ちのめした。しばらく落ち込んだ後、なんとかしなければ、と思い始める。 (Ωになったならαに戻る方法もあるはずだ) しかし、その鍵を握っているはずの大山はいない。 『Victim』が関係あることは間違いない。 (あれ以来、俺の体はおかしくなっている) ネットで事例を調べれば、実例と思えるものは見当たらなかった。 敵対するαをΩに変えて弱体化させたり、邪悪なαを正義のαが威圧の力でΩに変えてうち滅ぼす、というような、アメコミを低俗にしたような話があふれていたが、どれも実話だと思えなかった。 だが、どうやら、αの『欲情』のフェロモンのこもる威圧を受けることでαでもΩになるようだ。雪弥は、おぼろげにそんなことを掴んだ。 それも大量に複数のαから『欲情』フェロモンを受けてしまえば。『Victim』は『欲情』フェロモンのきっかけになり、それ以降、雪弥の体がおかしくなったのは間違いはない。 (敵対するα。大山は俺を敵視していたのか。あの大山が、俺に? 俺は邪悪なα、邪悪だから成敗されたのか) 雪弥にはこれまでαとして傲慢な態度を取った認識はあった。もちろん、先輩の大山に対しても、高慢だった自覚はある。 (俺の存在自体が大山の審美眼では許せなかったのか?) 奇人変人の思考回路は雪弥には全く想像もつかない。 雪弥は第二性専門の病院を検索した。 (治療方法はないのか) これまで第二性について積極的には調べることはなかった。何も困ることなどなかったからだ。 Ωは忌避すべき存在、その認識があるだけだった。 弱い部分を抱えて困った事情にならないと病院など見向きもしないものだ。ついこの間まで病院に用などなかったのに。 「病院に行くの?」 背後から天陽が画面をのぞき込んできた。 座卓にパソコンを置いて座る雪弥の背後に、雪弥を抱えるように天陽が座っている。天陽は、スマホ視聴中の衛星授業を止めて、イヤホンを外した。 「……わかんない」 天陽が雪弥のシャツの裾から中に手を入れてきた。雪弥の肩に顎を乗せて、胸の突起を探り当ててくる。 廊下での事件以降、雪弥はかたときも天陽から離れないようになった。天陽の居場所を視界の端で確認し、天陽が席から立てば自分も立ち上がり、教室の移動でも自分から天陽のそばにいった。 寮で部屋から出るときも天陽が一緒じゃなければ寮内を出歩かなくなった。 雪弥は天陽の姿が見えないだけで不安になる。 Ωの自覚が雪弥にそうさせた。身を守るすべとして、天陽のそばから離れなくさせている。 そのかわり、とでもいうわけではないが、天陽の自分に差し伸べられる手を跳ねのけることもしなくなった。 天陽に胸を撫でられて雪弥は背中をしならせる。 天陽は雪弥を自分に向かせると、そのままカーペットにそっと押し倒した。シャツをめくり上げて、胸の突起に口を寄せる。チュ、チュと音を立てて吸う。 雪弥はその場所でも快楽を拾えるようになってしまったことが恨めしかった。ビクッと背中が跳ねてしまってはそれを恥じる。 「そ、そこは、あんまり、す、きじゃない」 「うん」 「あんまり、し、ないで、ほしい」 「うん」 天陽は返事だけはいいが、一向にやめない。執拗に胸をなぶってくる。 なぶられるうちに息が上がる。 存分に胸をいじめておいて、天陽は雪弥をベッドへ連れて行く。 天陽は雪弥を裸にむくと、じっくりと見下ろしてくる。もう体の隅々まで暴き立てられて、雪弥はすっかり天陽に差し出している。 天陽の意のままに雪弥の体がビクビクと震える。 行為が終わると、甘い余韻に、雪弥は天陽の髪に頬にひたすら口づけを落としていた。上半身を起こして、さも大切な存在のように、天陽の形を確かめながら口づけを落とす。 (俺のα) そんな雪弥を天陽がじっと見つめてくる。天陽の目線に、雪弥は自分を恥じる。 「ごめん。気持ち悪いよな」 「雪弥は自分がどんだけ可愛いことをしてるか、わかってないでしょ」 暴漢らの下卑た「かーわい」とはまるで違っていたが「可愛い」と言われてしまうことに、立場の違いを感じ取る。 強いαと弱いΩ、強い天陽と弱い雪弥。すっかり立場が変わってしまっている。 これまで対等か、もしくは雪弥が天陽を顎で使ってきたのに。 (これでは強いオスの庇護を求める弱いメスそのものだ) 惨めさに捕らわれる。 (俺はメスとしてオスに守られないと生きていけない存在になったのか) 何度味わっても惨めさには慣れることはない。 (それでも俺には天陽が必要だ。こいつがいてくれないと俺は学校にも行けない) 理性で必要だと考えるその裏側には、本能もある。 (俺のα) Ωの本能で、そう思ってしまうのをやめられない。 天陽が訊いてくる。 「性別検査、受けるの?」 「わかんない」 雪弥は幼いころに性別検査を受けて、αとの診断を受けている。 (もしも、Ωだと診断し直されてしまえば、俺の人生はすべて崩れ去る……) 天成学園にもいられない。大学進学の道も閉ざされる。保護施設に行って、そこで見染められたらαの番になって、その番が良い人であれば人並みの生活ができるようになるが、最悪の場合一生虐待だ。 これまでαとして約束された未来が、まったく別のものになってしまう。 Ωだと診断されれば、もうそこで未来は閉ざされる。 黙り込んだ雪弥の頭を慰めるように天陽が撫でてきた。 (しかし、このままだと野良Ωそのものだ。管理の行き届いていない迷惑な野良Ω) 診断を受けない限り、発情抑制剤も処方されない。そうして、フェロモンをぶちまけながら生活する。それと同じことをするのか。 天陽に届いた手紙を思い出す。Ωの匂いの染みついた手紙。 (俺はαを引っかけようとするΩそのものじゃないか。いや、あのΩよりもタチが悪い。天陽を俺に巻き込んでしまって。俺は野良Ω以下の人間だ) ますます雪弥に惨めさが募る。 (早く、早くαに戻らないと。その方法を見つけないと。大山と何とか連絡をつけないと) 大山の両親の住所地にエアメールを送ったが返事はない。 「天陽、明日、文実の子のところに行きたいんだけど、ついてきてくれないか。大山さんのこと訊いてみる」 「よく言えました。一人でどこかに行こうとしなくなったのはえらいえらい」 「バカにすんな」 「あのさ、αとかΩとかこだわらなくてもいいんじゃないかな、雪弥は雪弥だし。もしもこのままΩのままでも俺がいるし」 天陽はそんなことを言ってきた。言葉を選んでいるようだった。 「俺からαを取ったら何も残らないから」 「純度100%の雪弥が残るでしょ」 雪弥は天陽の言葉に思わず涙がこぼれそうになった。 (俺に価値があるというのか。Ωになった俺に) 「Ωに存在価値はない」 「このままαとして生きればいい。俺が一緒にいれば大丈夫でしょ」 そもそも第二性は外見では区別がつかない。このままαを装って過ごすということか。天陽の横で、野良Ωとして。 「でも、あと半年だろ、そんなの」 雪弥はまた涙がこぼれそうになる。限りのある今、そのことがいつも頭の隅にある。このまま、天陽とずっと一緒にいられるわけもないのに。 「俺と同じ大学にする? そしたら、ずっと一緒に」 「え?」 天陽が何を言い出したのかわからなかった。心臓がどきどきしてくる。 (ずっと一緒に? 天陽は俺とずっと一緒にいてくれるというのか……? ただの親友の俺と?) 「ずっと一緒に学校に行けるしね!」 (あ、忘れてた。こいつはアホだった。何も考えてないアホだった) 雪弥は頭を抱え込んだ。 (ずっと今が続くと思ってんのか。すぐに終わりがくるのに。お前には輝かしい未来が待っているというのに。婚約者と結婚し、家族を作って、家を継いで、そんな未来が待ち受けているのに。Ωの俺が一緒にいる余地などないのに) 「天陽のバーカ」 「バ、バカじゃないもん!」 「天陽のバーカ」 「バカじゃないもん!」 けれども、天陽が雪弥を思って言ってくれていることは間違いない。 (それだけで十分だ)

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