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Ωの人生④
ノックが鳴った。雪弥は飛び跳ねるようにして立ち上がった。慌てて涙を袖で拭く。
いよいよ天陽を頼って生きるしかない、と追い詰められている。
(俺にはもう行く場所はない、天陽に見捨てられたら、もうまともな生活はない。保護施設しかない)
精一杯、笑みを作って出迎える。
「てんよ………」
しかし、ノックの主は天陽ではなく秀人だった。そう言えばいつものノックの合図と違っていた。
秀人は雪弥を傷つけることはないはずだ。秀人は信頼できる相手だ。
秀人は、体育館でのΩ狩りも止めようと必死だったし、文化祭でも真っ先に抑制剤を飲んでいた。それでも用心する気持ちが働く。
ドアの隙間から声をかける。
「何だ? 天陽がいるときにしてくれ」
「αのΩ化についてです」
雪弥の眉がピクリと反応した。
「直す方法がわかったのか?」
秀人の実家の病院で、何かわかったのかもしれない。
ドアの隙間から、秀人が眼鏡の奥で心配そうな目を向けているのが見える。
「うちの病院に幾つか事例らしきものがあって、研究資料を見ることができたんです。他にもいくつか事例を集めて、Ω化のメカニズムを俺なりに解明してみたんです。共通点がありました」
「アタックか?」
「他にもあります」
「天陽が帰ってきてからじゃ駄目か?」
秀人に不安を感じているわけじゃない。
それよりも、天陽の番になると決めたからには、他のαとは距離を置くに越したことはない。
万が一の身の安全と、天陽の機嫌を損ないたくはないという保身が働いている。
「できれば、今、お話したいことが」
秀人は食い下がってきた。秀人の目には切羽詰まったものが浮かんでいる。
「このまま、Ωで良いんですか? 『Victim』になってもいいんですか?」
雪弥が完全なΩになることこそが大山の目指した完成形なのか。そして雪弥は作品『Victim』として完成するのか。
雪弥はふっと弱弱しい笑みを見せた。
「俺、もういいんだ」
「どうしてです? 藤堂先輩らしくありません」
天陽の部屋で、『Victim』は『Grace』に塗り替えられていた。
アタックなど本当にあったのか。ただ、雪弥はΩになってしまった、それだけのことなのではないか。悪意を抱かれたなどと、自意識過剰な自分の勘違いではないか。
そんな気がしてくる。それに、もう起きたことはしようがない。
雪弥はこれから愛玩物として生きるのだ。
「俺、天陽の番にしてもらうんだ」
秀人の眼鏡の奥がたじろいだ。
「天王寺先輩の番?」
「俺、大学も行かないし、多分、天陽の家で暮らすことになると思う。まだわかんないけど。俺には何も決められないから」
雪弥は凍えるように身を抱きしめて、乾いた声で告げる。
(あのお屋敷で、ご飯もらえて服ももらえて清潔に暮らせて、何より天陽もいて。そのうち、天陽の結婚を祝って、他のΩとも仲良くして)
天陽の兄に会ったことで、雪弥はおぼろげに自分の番としての生活が想像できていた。
お屋敷に住んでご主人様の帰りを待ち、帰ってきたらまとわりついて媚びへつらい、ご主人様の囁きにはしゃぎ声をあげて、新しいΩの出現に戦々恐々として。
(しかし、ご主人様が好きな人なんだ。一方的に好きでもない人に番にされるΩに比べたら、随分幸せだ)
Ωとしては悪くない生活だ。むしろ最上の生活だ。捨てられることさえなければ。
しかしながら、雪弥には、まるで実感を伴わない。
ほんの半年前は世界は雪弥の手の中にあった。どんな未来でも歩めると思っていた。なのに。
「藤堂先輩、本当にそれでいいんですか?」
「だって! 俺には金もない、帰る家もない。頼る家族もない。それで、こんな体になって、どうやって生きろっていうんだ!」
秀人は雪弥の身上に何か異変が起きたことを察したようだった。
「藤堂先輩、俺に出来ることがあれば言ってください。俺、何でも力になります」
「何もできねえよ。俺にだってどうにもならないんだから。あと二ヶ月で寮も追い出される。天陽に番ってもらえなかったら、保護施設に行くしかなくなる。そんなの嫌だ……。絶対、嫌だ………」
秀人は雪弥の目から涙がこぼれ落ちているのを見て息を飲んだ。こんな弱弱しくなった雪弥を秀人はこれまで見たことがない。
以前の威風堂々たる雪弥とはすっかり様子が違っている。
雪弥はほんのつい最近まで、学園の覇者、トップαとして君臨していた、傲慢なほどに。
土産を渡しに来たときにはまだその片鱗は残っていたのに、今やその影もない。
もがいては破れ、もがいては破れて、もう雪弥からは過酷な運命に立ち向かう気力さえも失われている。
秀人は雪弥に手を差し伸ばしかけた。何とかしてやらねば、そんな正義感、親切心、同情心、あるいは別の感情が、秀人に沸き起こっている。その手を雪弥が避けて後ずさる。
「俺に触るな。αの匂いがつく。天陽に疑われたくない。天陽に捨てられたら、俺にはもう行先はない」
ドアを閉めようとした雪弥に、秀人がファイルを押しつけてきた。
「これ、調べたことをまとめたノートです。わかりづらいかもしれませんが読んでください。病院の情報管理が疑われますので、ファイルは他言無用でお願いします。天王寺先輩でもだめです」
「どうしてお前がここまで?」
「藤堂先輩を見ていられないんです。じゃあ、またあとでお邪魔します」
秀人はドアを閉めた。
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