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第3話 君を探す朝

 東京の街は、朝からすでに光と音で満ちていた。  複雑に入り組んだ鉄とコンクリートの都市。その心臓のように、駅の改札口は絶え間なく人を吸い込み、吐き出していた。  この街で海都は建築デザイナーとして働いている。この街のあちこちに、彼が手掛けた建物があるのだと思うと不思議な気分だった。 「今度は東京に来てよ。案内するから」  あの雨の日の夜、社交辞令かもしれないと思った海都の言葉。  けれど、それでも何かが始まる気がして、史狼は東京行きをなんとなくLINEで伝えた。  すぐに返事が来た。そこにはひとこと——「池尻大橋駅、改札出たところで」。  ——池尻大橋。  思った以上に人が多く、乗り換えの案内表示も、どこか非現実的に思えた。  慣れない空気に、知らない街の湿度に、少しだけ気圧されながら、史狼は駅前のコンビニのガラスに映った自分をちらと見た。 「……ダサくねえよな、これ」  ダークデニムのジャケットに、白いTシャツ。  少し光沢のあるクロスのネックレスは、鏡の前で三度選び直した“勝負アイテム”だった。  兄・壱狼には「その格好、デートでも行くのか?」と茶化されたが、否定できなかった。  むしろ、してしまえば何かが壊れそうで、笑ってごまかしただけだった。 「ち、ちげーし。……案内してもらうだけ、だし」  ぶつぶつ呟いていると、改札の向こう側から、すっと手を挙げる人影が見えた。 「シロ君、こっち」  スリムなグレーのシャツに、光の加減で淡く色が変わるスーツジャケット。  涼しげな白銀の髪が、朝の陽射しを受けてやわらかくきらめいている。 「……海都さん……」  思わず見惚れてしまって、歩みが半歩遅れる。  都会の空気に馴染みきったその立ち姿が、同じ時を生きてきたはずなのに、ほんの少し遠くに見えた。 「おはよう、シロ君。……迷わなかった?」 「お、おう。ギリ大丈夫だった。……てか、すげぇな、都会って」 「はは、そんなに見回してると、観光客丸出しだよ?」  そう言って笑った海都の声に、史狼の緊張が少しだけ和らぐ。  二人で歩き出すと、すぐに分かった。  海都は自然に歩幅を合わせ、交差点では軽く腕を引いて安全を確認する。道の角では日陰に誘導し、さりげなく自分の歩く位置をコントロールする。 「……なんか、スマートすぎない? 普段からそんな感じなん?」 「ん? 何が?」 「いや、……なんでも」  言ってから、耳が熱くなる。  何度も鏡で確認したはずの髪型が崩れていないか気になって、無意識に前髪を直す。  自分が「一緒に歩くにふさわしい男」になれているのか。  歩くたびにその疑問が胸の奥に渦巻いた。  それでも——。 「今日は天気もいいし、午前中はちょっと足を延ばして、世田谷公園でも歩こうか」 「おう。……つか、案内されんの、久々かも。高校んとき以来?」 「うん、そうだね」  その穏やかな声に、“五年ぶり”という時間がふいに思い出された。  池尻大橋から少し歩くと、目黒川沿いの緑が視界を潤す。  大通りを一歩外れただけで、都心とは思えないほどの静けさが広がっていた。 「東京にも、こういうとこあるんだな」 「静かなエリア、ちゃんと探せばたくさんあるよ。  僕の仕事場も、もう少し先。川沿いで、日当たりもよくて、近くに美味しいパン屋さんもあってね」 「……まじで? 完璧すぎない?」 「まあ、“シロ君が好きそうな街”って思って選んだんだけど」 「……えっ」  思わず立ち止まってしまった。  海都は気にせず、前を向いたまま歩き続ける。 「ほら、まだ案内してないところ、たくさんあるから」  その背中を追いかけて、史狼もまた歩き出した。  朝の光がまぶしくて、  表情を見られなくて、少しだけ助かった。  駅から歩いて十五分ほど。  目黒川沿いの緑が途切れると、急に空がひらけた。  ◇  世田谷公園。  噴水広場と小さな遊具、そして周囲を囲むように木々が広がる、静かな空間。  まだ午前十時前。人も少なく、聞こえるのは自転車のブレーキ音と、風に揺れる葉のささやきだけだった。 「この辺、意外と知られてないんだよ。  代官山とか下北みたいな“映えスポット”に比べて、地味だから」  そう言って、海都はベンチに腰を下ろした。  史狼も、少し間を空けて隣に座る。微妙な距離が、一瞬だけ風のように揺れる。 「けど、いいな。こういう場所……空気がちょっとやわらかいっていうか」 「うん。東京って、意外と静かになれる場所があるんだよ」  海都の横顔を盗み見る。  目を細めて遠くの木々を眺めているその顔は、どこか少年のようだった。 「……なあ、海都さん」  史狼はふと、言葉を探しながら口を開いた。 「五年前のこと……覚えてる?」  一瞬、海都の視線がこちらを向いた。  けれど、その表情には驚きも戸惑いもなく、ただ静かな余韻があった。 「もちろん。あの夜、君にブレスレットを渡したことも、ちゃんと覚えてる」  史狼の喉がかすかに鳴った。  ブレスレット——あれは、いまもまだ、彼の手首にある。見えないように隠しながら、思わずもう片方の手で触れた。 「……オレさ、あの時、勝手に勘違いしてた」  目を逸らしながら、ぽつりと言った。 「少しだけ、特別だって思った。……けど、すぐ“弟みたい”って言われて……なんか、全部間違いだったのかなって」  海都は、静かに笑った。  嘲笑ではない。どこか、優しい、それでいて少しだけ切ない笑みだった。 「……間違いじゃないよ」 「……え?」 「ただ、あの時の僕は——自分の気持ちに、ちゃんと向き合えなかっただけ」  その言葉が、ゆっくりと史狼の胸の奥に沈んでいく。  それは、確かに聞きたかったはずの言葉だった。  けれど、どう受け止めればいいのか、すぐにはわからなかった。  風が吹いた。  ベンチの隣で、海都の髪がそっと揺れた。 「……髪、伸びたね」 「え?」 「前はもっと短かった。……今のほうが、似合ってる」  そう言って、海都の指がふいに伸び、史狼の前髪にそっと触れた。  一瞬、息が止まる。 「ちょ、ちょっと……そういうの、やめろって」  史狼は思わず身を引いた。  耳が、赤い。手が無意識に前髪を整える。 「“弟”に、そんなことすんなよ……」  その言葉に、海都の動きが止まった。  ほんの一瞬、空気が張りつめたように感じた。 「……ごめん」  海都は視線を落とし、つぶやくように言った。 「昔みたいに、接してるつもりだった。……でも、違うのかもしれないね」  史狼は言葉を失った。  でも、胸の奥が、確かに熱くなっていた。  それが何の感情なのか、今はまだはっきりしなかった。  けれど、確かに“何か”が変わった気がした。

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