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第4話 キミの作る景色

  海都が次に案内してくれたのは、川沿いの小さなカフェだった。  外から見るよりもずっと落ち着いた雰囲気の内装。  ガラス窓から差し込む午後の光が、店内の木のテーブルにやわらかく広がっている。  すべてがゆっくりで、どこか懐かしい時間が流れていた。 「ここ……リノベーションしたって言ってたとこ?」 「うん。あえて“少しだけ古い”空気を残したくてね。床材も、昔のものを磨いて再利用してる。  人の記憶ごと、空間に残せたらいいなと思って」 「へえ……すげぇ、温かい感じするな」  史狼は小さく息を吐きながら、目を丸くして店内を見渡した。  椅子もテーブルも、どれひとつとして同じ形じゃない。  それなのに、不思議と、そこに“整っている”感覚があった。 「こういうの……全部、海都さんが決めてんの?」 「うん。クライアントとの打ち合わせはあるけど、最終的には、“この空間がどう記憶に残るか”を考えるかな」  史狼は、ただ「すげぇな……」と、素直に呟いた。  言葉が追いつかない感嘆というものが、本当にあるのだと思った。  海都が選んだ窓際の席に腰を下ろすと、メニューを開く前にふわりと香ばしいコーヒーの香りが鼻をくすぐる。  まるで、もう“美味しさ”まで設計されているかのようだった。 「ここのガトーショコラが美味しいよ。苦くなくて、しっとりしてて……君好みだと思う」 「……なんで分かるんだよ、そういうの」 「昔から、甘いもの好きだったでしょ?」 「そ、そんな覚えてなくていいし……」  照れ隠しの声がひっくり返る。  耳がじわじわと熱を帯びていくのが、もどかしかった。 「ブレンドは軽めのにしておくね。苦味の少ないタイプ、頼んでみる」 「……うん、ありがと」  オーダーを済ませると、ふたりの間に少しだけ静けさが落ちた。  悪い沈黙ではない。ただ、どちらも言葉を選んでいるような間だった。  史狼は、グラスの水を指先でゆっくりなぞるようにしてから、  ふと、海都の横顔に視線を向けた。  その目は、どこか遠くを見つめているように静かだった。  涼しげな眼差し。その奥に映っている景色の中に、自分はいるのだろうか。  そんなことを考えてしまう。 「……なあ、こういう仕事って、やっぱすごく考える?」 「うん。建物は、“使う人”がいて初めて完成するから」  そう言って、海都はテーブルの端をそっと撫でるように見た。 「この街の中に、自分の“点”を打つ。  そこに人が集まって、暮らして、声を交わして……  そうやって、“点”が“線”になっていくと、やっと景色になるんだ」 「……線になったら、何が見える?」 「その人の人生かな。  朝コーヒーを飲む場所。夜、灯りをともす窓。  誰かと待ち合わせた角のベンチ。  そんな断片がひとつずつ、“その人だけの風景”になる」  史狼は、なんだかうまく呼吸ができない気がして、グラスの水を一口飲んだ。  言葉にするには、喉が少し乾いていた。 「……じゃあさ」 「うん?」 「オレも……」   言いかけた言葉は、コーヒーの香りに紛れて、消えていった。   だけどきっと、彼の心には届いていた。   しまった、と思った。聞きたかったけど、まだ聞けない。   “自分も、その風景の中にいられるのか”なんて。   不自然に途切れた言葉に、海都はカップを傾け、静かに微笑む。 「シロ君も、何?」   それだけで、また耳が熱くなる。   全部、見透かされている気がするから、余計に。 「っ……な、何でもねぇ」 「ふふ、そう?」  そのやさしい笑い方が、くすぐったいほど馴染んでいた。  逃げたくなるのに、ずっとここにいたくなる。そんな場所だった。  やがて、ガトーショコラとブレンドが運ばれてきた。  史狼は拗ねたように視線をそらしながら、フォークを取る。  一口。  甘く、やわらかく、ほんのりラムが香る。  口の中でゆっくり溶けるそれは、驚くほど、心に染みた。 「……うま……」 「でしょ? 君、絶対好きだと思った」 「……くそ、なんかもう、全部読まれてる気がする……」 史狼がふてくされたように呟くと、海都は少しだけ黙った。 カップを見つめる横顔が、ふと真剣なものに変わっていた。 「——僕にとって、君のことは特別だからね」  スプーンを持ったまま、史狼の動きが止まった。  その言葉は、何気ないようで、刃のように鋭かった。  ——また、“特別”。  でもそれは、どういう意味なのか。 「……そーいうの、あんま簡単に言うなよ……」  それでも、言い返せたのは、少しだけ強くなった証拠かもしれない。  海都は、ただ静かに笑っていた。  午後の光が、ふたりの影をテーブルの上で重ね合わせて、ゆっくり揺らしていた。  音のない会話が、確かにそこにあった。

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