5 / 12

第5話 グラスの中のゆらめき

 高層階のレストランは、ガラス張りの壁越しに夜の東京を見下ろしていた。  ビルの谷間に浮かぶ無数の灯りが、まるで星屑のように瞬いている。 「……マジで、ここに入るの……?」  エントランスに立ったまま、史狼はしばらく声を失っていた。どこもかしこも洗練されすぎていて、自分の場違いさに身を縮めたくなる。 「ね、言ったでしょ。少し背伸びした場所だって」  海都はどこか楽しげに笑い、史狼の背にそっと手を添える。  その手が押すでもなく、ただ“隣にいる”ことを伝えるだけの動作だと、史狼にはすぐにわかった。  ——それだけで、少しだけ呼吸が楽になる。  席につくと、キャンドルの明かりとテーブルの白が、やわらかな陰影を作っていた。 「君は軽めの赤がいいと思うよ。アルコール度数もそんなに高くないから」 「……そ、そんな詳しくねぇけど……飲めないわけじゃ、ねぇし」 「じゃあ、香りの華やかなものを」  海都の指示に応じて運ばれてきた赤ワインは、まるで果実のような香りをふわりと漂わせていた。  一口飲んだ瞬間、史狼は思わず「うま……」と小声を漏らす。  ——これは、危険だ。  美味しすぎる。飲みやす過ぎる。  気づけば二口目、三口目を飲んでいて、自分でもそのペースに驚いた。 「大丈夫? 顔、少し赤いよ」 「み、店があったかいからだ……」 「ふふ。そういうことにしておこうか」  海都がくすっと笑うたび、史狼の体温はまた少し上がる気がした。  料理が運ばれてくる。  彩り豊かな前菜、香ばしい鴨のロースト、スパイスの香りがほのかに立ちのぼるソース——  どれも初めて味わうものばかりなのに、驚くほど口に馴染んだ。 「……なあ、海都さん。こういうの、いつも食ってんの?」 「そんなわけないよ。今日は“特別”だから。君が来てくれたから」 「……っ、」  グラスに口をつけようとして、史狼の手が止まった。  “特別”なんて言葉を、この人はいつだってさらりと使う。それが嘘っぽく聞こえないから厄介だ。 「……オレ、騙されやすいタイプかも」 「そうだね、昔からそうかも」 「そこは否定してくれよ……!」  拗ねたように言い返すと、海都は声を立てずに笑った。  雨音が静かに響く中、海都の表情がふと真剣に変わる。 「まあ、実を言うと君に少し相談したいなとは思ってたんだ。……今、担当してる現場の話なんだけどね」  グラスを持つ指先が、ゆっくりとその縁をなぞる。史狼はふと真顔になった。これが『依頼』の話だと、すぐにぴんと来た。 「再開発案件で、世田谷にある古いオフィスビルなんだけど……妙な違和感があって」 「違和感?」 「行くたびに、体調が悪くなる。僕だけじゃない。他のスタッフも同じことを言ってる。  特に、雨の日。何かに“見られてる”ような気配がして……空気が変なんだ」  史狼は黙って聞いていた。  グラスの中で赤いワインが揺れている。その揺れが、自分の中の何かとシンクロしているように思えた。 「でさ……それを、どうにかしてくれっての?」 「そうは言ってない。でも、君がそばにいて適切な対処をアドバイスしてくれたら……心強いなとは思ってた」 「……適切なアドバイスって。オレはただのゴーストハンターだぞ。建築のことなんて分かんねぇし」 「わかってる。でも、見えない“何か”に気づける君は、僕にとって欠かせない存在だ」  その声が、ふと低くなる。  史狼は視線を逸らしてグラスに口をつけたが、もう中身は残っていなかった。 「あれ? これ、いつ飲み切ったっけ」 「シロ君……。何か完全に酔ってる人の言い方だけど、大丈夫?」 「だいじょぶ……たぶん。……ちょっとふわっとしてるだけ」 その頬の赤みと、グラスを持つ指先の落ち着かなさを見て、海都は思わず苦笑した。 「……あんまり無理しないで。今夜はうちに泊まっていけばいいよ。すぐ近くだし、オフィス兼用の住まいだから、客用の部屋もあるよ」 「え……マジで? いいの?」 「もちろん。一応、壱君には連絡しとく。何だかんだ心配性だし、君は君でなかなか連絡したがらないだろし」 「えぇ……」 肩をすくめて笑ったつもりなのに、どこか力が入らない。 泊まるって、つまり──夜を、同じ屋根の下で過ごすってことだ。 頭では「客用の部屋」ってわかってる。なのに、胸の奥がざわつくのはなぜだろう。 「……じゃあ、もう一杯、飲んでいい?」 思わずそう言いかけて、目の前のグラスと海都の視線に、言葉が消える。 「そのくらいにしておきなよ。さあ、そろそろ行こう。雨も強くなってきたし」 立ち上がった海都が、すっと手を差し出す。 迷ったのはほんの一瞬だった。 足元のふらつきを言い訳にして、その手を取った。 (……甘えていいのか、まだよくわかんねぇ) でも、今は。 この手を離したくない── ただそれだけは、はっきりしてた。

ともだちにシェアしよう!