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第5話 グラスの中のゆらめき
高層階のレストランは、ガラス張りの壁越しに夜の東京を見下ろしていた。
ビルの谷間に浮かぶ無数の灯りが、まるで星屑のように瞬いている。
「……マジで、ここに入るの……?」
エントランスに立ったまま、史狼はしばらく声を失っていた。どこもかしこも洗練されすぎていて、自分の場違いさに身を縮めたくなる。
「ね、言ったでしょ。少し背伸びした場所だって」
海都はどこか楽しげに笑い、史狼の背にそっと手を添える。
その手が押すでもなく、ただ“隣にいる”ことを伝えるだけの動作だと、史狼にはすぐにわかった。
——それだけで、少しだけ呼吸が楽になる。
席につくと、キャンドルの明かりとテーブルの白が、やわらかな陰影を作っていた。
「君は軽めの赤がいいと思うよ。アルコール度数もそんなに高くないから」
「……そ、そんな詳しくねぇけど……飲めないわけじゃ、ねぇし」
「じゃあ、香りの華やかなものを」
海都の指示に応じて運ばれてきた赤ワインは、まるで果実のような香りをふわりと漂わせていた。
一口飲んだ瞬間、史狼は思わず「うま……」と小声を漏らす。
——これは、危険だ。
美味しすぎる。飲みやす過ぎる。
気づけば二口目、三口目を飲んでいて、自分でもそのペースに驚いた。
「大丈夫? 顔、少し赤いよ」
「み、店があったかいからだ……」
「ふふ。そういうことにしておこうか」
海都がくすっと笑うたび、史狼の体温はまた少し上がる気がした。
料理が運ばれてくる。
彩り豊かな前菜、香ばしい鴨のロースト、スパイスの香りがほのかに立ちのぼるソース——
どれも初めて味わうものばかりなのに、驚くほど口に馴染んだ。
「……なあ、海都さん。こういうの、いつも食ってんの?」
「そんなわけないよ。今日は“特別”だから。君が来てくれたから」
「……っ、」
グラスに口をつけようとして、史狼の手が止まった。
“特別”なんて言葉を、この人はいつだってさらりと使う。それが嘘っぽく聞こえないから厄介だ。
「……オレ、騙されやすいタイプかも」
「そうだね、昔からそうかも」
「そこは否定してくれよ……!」
拗ねたように言い返すと、海都は声を立てずに笑った。
雨音が静かに響く中、海都の表情がふと真剣に変わる。
「まあ、実を言うと君に少し相談したいなとは思ってたんだ。……今、担当してる現場の話なんだけどね」
グラスを持つ指先が、ゆっくりとその縁をなぞる。史狼はふと真顔になった。これが『依頼』の話だと、すぐにぴんと来た。
「再開発案件で、世田谷にある古いオフィスビルなんだけど……妙な違和感があって」
「違和感?」
「行くたびに、体調が悪くなる。僕だけじゃない。他のスタッフも同じことを言ってる。
特に、雨の日。何かに“見られてる”ような気配がして……空気が変なんだ」
史狼は黙って聞いていた。
グラスの中で赤いワインが揺れている。その揺れが、自分の中の何かとシンクロしているように思えた。
「でさ……それを、どうにかしてくれっての?」
「そうは言ってない。でも、君がそばにいて適切な対処をアドバイスしてくれたら……心強いなとは思ってた」
「……適切なアドバイスって。オレはただのゴーストハンターだぞ。建築のことなんて分かんねぇし」
「わかってる。でも、見えない“何か”に気づける君は、僕にとって欠かせない存在だ」
その声が、ふと低くなる。
史狼は視線を逸らしてグラスに口をつけたが、もう中身は残っていなかった。
「あれ? これ、いつ飲み切ったっけ」
「シロ君……。何か完全に酔ってる人の言い方だけど、大丈夫?」
「だいじょぶ……たぶん。……ちょっとふわっとしてるだけ」
その頬の赤みと、グラスを持つ指先の落ち着かなさを見て、海都は思わず苦笑した。
「……あんまり無理しないで。今夜はうちに泊まっていけばいいよ。すぐ近くだし、オフィス兼用の住まいだから、客用の部屋もあるよ」
「え……マジで? いいの?」
「もちろん。一応、壱君には連絡しとく。何だかんだ心配性だし、君は君でなかなか連絡したがらないだろし」
「えぇ……」
肩をすくめて笑ったつもりなのに、どこか力が入らない。
泊まるって、つまり──夜を、同じ屋根の下で過ごすってことだ。
頭では「客用の部屋」ってわかってる。なのに、胸の奥がざわつくのはなぜだろう。
「……じゃあ、もう一杯、飲んでいい?」
思わずそう言いかけて、目の前のグラスと海都の視線に、言葉が消える。
「そのくらいにしておきなよ。さあ、そろそろ行こう。雨も強くなってきたし」
立ち上がった海都が、すっと手を差し出す。
迷ったのはほんの一瞬だった。
足元のふらつきを言い訳にして、その手を取った。
(……甘えていいのか、まだよくわかんねぇ)
でも、今は。
この手を離したくない──
ただそれだけは、はっきりしてた。
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