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第65話 赤髪の聖女④

 客室の重厚な扉がカタンと閉まり、アヴィと二人きりになった。  限界だった。  俺はそのまま、糸の切れた操り人形のようにベッドに倒れ込み、深いため息を漏らした。  「いってぇ……少し歩いただけなのに靴擦れなってら。どーりで痛いと思った……てか、屈むのもしんど……それに、これ全然脱げねぇ!」  聖女服は腹筋の自由を奪うほどぴっちりで、長旅で浮腫んだ足はヒールにみっちりハマり、まるで鉄の拘束具だ。  「ご主人様、無理に外すと傷が広がります。僕が――」  アヴィがすぐに片膝をつき、俺の足元へと静かに跪く。  忠誠を誓う騎士のような所作。  足の匂いや汚れなど気にも留めない、そのまっすぐな瞳が少しだけ胸に刺さる。  「……悪いな」  俺がそう漏らすと、アヴィは小さく首を振り、「お気になさらず」と柔らかく微笑んだ。  両手でそっと踵を包み込み、触れているかどうか分からないほどの微細な力で、わずかにひねりながら引き抜く。  ――プシュ。  踵が外れた瞬間、熱が逃げ、血が巡り、痺れるような快楽が脳天まで突き抜けた。  「あ〜……苦痛から解放される〜……」  アヴィは脱がせたヒールを丁寧に並べると、赤く擦れて血が滲んだ俺の足首をそっと指先でなぞる。  その触れ方は、壊れ物に触れるように慎重で――優しい。  「……ひどい傷です、ご主人様」  「ほんとだ、水ぶくれが破けてら。ヒールでもしとくか……」  「待ってください」  「あ……?」  アヴィは俺の足を、壊れ物を拾い上げるようにそっと掬い上げると、傷口を覗き込み――フッと、微かに息を吹きかけた。  熱い吐息が、擦り切れた靴擦れに触れる。  (ま、待て……その流れは絶対やべぇやつだろ……! やめろ、やめろ、やめろ……!!)  脳内警報が最大音量で鳴り響く。  だがアヴィは静かに顔を伏せ、そのまま傷口へ唇を寄せ――  「舐めるなッ!!」  反射的に叫んだ俺の声は、沈黙の聖女設定を木っ端微塵にしたが、アヴィは微動だにしなかった。  次の瞬間、舌先が傷口をそっと掠める。  ピリピリとした痛みを、溶かすように。  まるで“聖女”よりも神聖に扱うように、丁寧に、ひたむきに舐め上げる。  「な、なにやってんだよ!!」  思わず叫ぶと、アヴィの長い睫毛が揺れた。  「……治療される前に、ご主人様の血の味を味わっておこうと思いまして」  「こえーよ!! お前は大蝙蝠(キロプテラ)か!! 無類の足フェチかと思ったわ!!」  その瞬間、アヴィの動きがぴたりと止まった。  握ったままの俺の足首に力がこもる。  ゆっくりと顔を上げると、真面目な顔のまま――ぞくりとするほど妖艶に微笑んだ。  「惜しいです」  「……は?」  「僕は、ご主人様の“手”がいちばん好きなんです」  言いながら、アヴィはそっと俺の足から手を離し、ベッドに置いていた俺の手をすくい上げた。  まるで祈り子が聖遺物に触れるように、両手で包み込み――頬を寄せた。  手の甲に落ちる吐息が、異様に熱い。  「この手が、僕の頭を撫でてくれるのが好きです。この手が、僕を叱ってくれるのも好きです。……この手が、僕の傷に触れてくれる時が――いちばん、幸せなんです」  そして、親指の付け根にゆっくりと口づけを落とす。  その唇があまりにも熱くて、優しくて、  足を舐められた羞恥も痛みも一瞬で上書きされていった。  (足フェチじゃなくて手フェチだったのかよ!! どっちにしろ変態だろ……ッ!!)  けれどアヴィの愛は、歪んでいて、純粋で、  あまりにも真剣すぎて――反論する言葉が喉で溶けた。  彼は俺の手にまだ口づけを残したまま、ふっと目線を上へ滑らせた。  「……ご主人様。お疲れでしょう。息が苦しいのも、歩きづらいのも……全部、そのコルセットのせいです」  「そりゃ分かってるけど……まだ脱ぐわけにはいかないしな……」  ちょっと動くだけで肋骨が悲鳴を上げる。  でも、宮殿の侍従さんたちが、いつ部屋に出入りするか分からないし、まだ変装を解くわけにはいかなかった。  「ご主人様。僕が少しだけ……紐を緩めて差し上げましょうか?」  「え? できんの?」  「もちろんです。手先は器用ですから」  (器用なのは知ってるけど……なんか嫌な響きだな!?)  そう思う間もなく、アヴィは俺の背後に回った。  ベッドの上で背筋を伸ばすしかなくなるこの姿勢がすでに地獄だ。  そこへアヴィの両手が、ゆっくりと俺の背中のレース越しに触れた。  「ッ……!」  「大丈夫です、触れますよ」  (いやその言い方が大丈夫じゃねえ……!)  指先がコルセットの編み紐を辿り、  きつく締め付けている結び目の位置を確かめるように、ゆっくり、なぞる。  紐越しでも指の動きが生々しく伝わってきて、思わず肩が震えた。  「……ここが一番苦しいところですね」  アヴィの声が低い。  耳のすぐ後ろで、囁くように落ちてくる。  「ご主人様。深呼吸してください。ゆっくり……」  言われるがまま息を吸うと、  アヴィの指が、編み紐をそっと引いた。  ぎ……っ、と張っていた紐が少し緩まり――  肋骨の痛みがふっと和らいだ。  「あっ……楽……」  思わず漏れた声に、アヴィの手が一瞬だけ止まる。  そして――クス、と静かに笑った気配がした。  「……喘がないでください、ご主人様」  「あ、喘いでねぇよ!」  だがアヴィは俺の抗議など最初から眼中にないように、またゆっくりと紐を引き、結び目を解き始めた。  紐がレースの隙間を擦る音がやけにいやらしい。  アヴィの指先が、素肌すぐ近くを行き来するたび、  吐息が漏れそうになるのを必死で堪える。  「あと少し……緩めますね。息がしやすくなりますから」  「っ……あ、はぁ……っ、は〜……!」  「ご主人様。興奮するのでやめてください」  「だから喘いでねぇって……!!」  (いや、お前絶対わざとだろ!!)  そして、アヴィの力強い指が、残りの紐を容赦なく一気に引いた。  ギシ、と革が悲鳴を上げ、胸郭を押し潰していた圧力が――まるで潮が引くように一気に消える。  「……っ、はー……っ!」  肺の奥まで空気が流れ込み、久しく忘れていた“呼吸”が自分のものとして戻ってきた。  肋骨の軋みは霧散し、指先まで熱が巡り、ようやく血が通いはじめる。  「……これで……ようやく、人間に戻れた……」  思わず漏れた弱々しい声に、背中へ触れたアヴィの指先がゆっくりと撫で降りる。  それはまるで、鎖を解いた主人に対する、褒美を待つ獣のようだった。  (なんで紐緩めるだけでなんでこんなエロいんだよ……)  アヴィは俺の背にそっと手を添えたまま、落ち着いた声で言う。  「……ふふ。この役目、ガウルさんとクーさんに取られなくて良かったです」  「……お前なぁ。あんなにヴェスタリア行くの反対してたくせに、切り替え早すぎだろ」  「当たり前じゃないですか。移動日も含めて5日間……ご主人様と二人きりなんですよ?」  言い切る声は、まっすぐ過ぎて。  そのあまりの純度に、思わず呆れた笑いが漏れそうになる。  「そういうもんなのか……?」  「はい。僕、こう見えて意外と単純なんです」  かけられた言葉は柔らかいはずなのに、  その声音は、甘く、温かく、そして――ひどく独占的だった。  逃がす気なんてこれっぽっちもないと告げるように、  背に添えられた腕は、俺をその胸のうちへ閉じ込めていた。  琥珀の瞳が、細められて弧を描く。  コルセットから解放されたばかりの身体が、  今度は別の何かで締め付けられていく。  ――捕らわれた、と意識した、その瞬間。  コン、コン。  重厚な扉を叩く音が、空気を断ち切った。  アヴィは即座に身を離し、兎獣人(クニクルス)特有の鋭い聴覚で音の主を探る。  「ご主人様、お急ぎを。宮殿の従事者の気配です」  背筋が跳ね上がる。  俺は慌てて聖女服の上着を羽織り直し、コルセットは締め直す余裕もないまま、“沈黙の聖女ユーリア”の仮面を無理やり貼り付けた。

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