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第66話 赤髪の聖女⑤
アヴィが扉を開けると、そこに立っていたのは純白のローブを纏った男――
ルミナス枢機卿 と名乗る人物だった。年齢はバレンティン皇子より上、彫像のように硬い表情と、すべてを見透かす氷の瞳。
「聖女ユーリア様。お寛ぎのところ失礼いたします。
法皇猊下のご容態について、主治医としてご報告に参りました」
その視線がアヴィを一瞥した瞬間、ほんの一瞬だけ露骨な嫌悪が浮かぶ。しかしアヴィは眉ひとつ動かず、静かに睨み返していた。
俺は頷いて枢機卿を室内へ招き入れ、ソファを勧める。彼が腰を落ち着けたところで、俺も向かいに座った。
ルミナス枢機卿は胸の奥で何かを嚙み殺すように、一拍だけ呼吸を置いた。
やがて、冷気を孕んだ眼差しがまっすぐ俺を射抜く。
「……率直に申し上げましょう。我々が貴国の聖女様に縋った理由は、ただ一つ。――救っていただきたいのは、ピウス法皇猊下、その人にございます」
その声は、威厳ある聖座宮の高官のものではなかった。ひとりの人間が、どうしようもない終わりに怯え、縋り付く音だった。
俺は静かに頷くしかなかった。
「猊下の病は、単なる老いではございません。時に、奥方様やご子息の顔すらわからなくなり……夜中に宮殿内を徘徊なさることもあります。さらには、神官に突然暴言や暴力を振るわれることも」
徘徊、記憶障害、暴言暴力――。
握っていた筆談用の羊皮紙がしっとりと湿る。
背中に冷や汗が流れる。
「本来の猊下は、温厚で、信心深く、人々を深く愛しておられました。それが“悪魔”に取り憑かれてからというもの……まるで別人のように荒れ果ててしまい、手が付けられない状態なのです」
“悪魔”という言葉が落ちた瞬間、
俺の脳裏に前世の光景が突き刺さるように蘇る。
「もちろん、治癒術師による回復魔法、そして神官による悪魔祓いも施しましたが、一切効き目はございません。猊下に取り憑いた悪魔が、神の御心に抗っているのです」
――そうだ。前世のばあちゃんも、まったく同じだった。俺が一人暮らしする前、痴呆が悪化してグループホームに入ったんだ。家族の顔がわからなくなって、夜中に家の中を歩き回り、誰もいないのに「泥棒だ!」って怒鳴ってた。
(その症状って、もしかして認知症!? 悪魔じゃなくて、脳の病気なんじゃ……?)
長年、その過酷な現実を見ていた俺には、枢機卿が語る「悪魔憑き」が、あまりにも現実の難病と重なって見えた。
(俺の“ソウルリトリーバル”は、心と魂の回復だ。既に萎縮してしまった脳細胞は元には戻せない……!)
胸が凍りつくのを自覚したとき、
枢機卿は深く頭を垂れた。
「聖女様。どうか、その奇跡の御力で、
猊下に取り憑く悪魔をお祓いくださいませ」
(無理なもんは無理だぁ……!!)
心の中で盛大に頭を抱えていると、傍らで控えていたアヴィが、静かに息を整えて口を開いた。
「恐れながら、ひとつお伺いしてもよろしいでしょうか?」
俺と枢機卿が目で促すと、アヴィはわずかに前へ出る。
「猊下に施された回復魔法とは……エクストラヒールでしょうか?」
枢機卿は苦い顔で首を振った。
「いいえ。我が国にはエクストラヒールを使える者がおりませぬ。施せる最上位はグランドヒールのみ。……ですが、その二つは『単体回復』か『複数回復』かの違いであり、人一人にかけた際の効力は同等だと理解しております」
たしかに、“普通の”エクストラヒールなら、そうだ。
――だが俺のエクストラヒールは、どう考えても普通ではない。
番になった獣人を媒介すると発動する筋肉バフ。
全ステータス1.5倍。バフかかりすぎてマッスルたちの筋肉が更にバキバキになる、あの規格外のやつだぞ!?
(……いやもう、最後に頼れるのは筋肉バフしかねぇのか!?)
思考が暴走し始めたところで、俺は覚悟を決め、羊皮紙と羽ペンを握った。
そして、日本人がどんな窮地でも使える――最終奥義を書きつける。
『善処します』
「ありがとうございます、聖女様」
敬虔 な声が頭に降り注いだ瞬間。
――俺に課せられた使命は、“ヒールで認知症を治せ”という、絶望的なファンタジーコメディの幕開けだと悟った。
***
さて、どうしたものか。
ルミナス枢機卿が去ったあとも、俺はソファに沈み込んだまま、腕を組んで考え込んでいた。
認知症そのものは治せなくても、ソウルリトリーバルで精神の安定を促すことはできる。
根本解決には程遠いが、徘徊や暴言、暴力が少しでも減る可能性は……ある。
「ご主人様……?」
低く柔らかな声に顔を上げると、いつの間にかアヴィが膝をつき、俺のすぐそばで心配そうに覗き込んでいた。
琥珀色の瞳が、まるで弱った主を見つめる忠犬みたいに揺れている。
「なぁ、アヴィ。普通はエクストラヒールでも病気までは治せないよな?」
「……はい。ピウス法皇は、病を……?」
「ああ。恐らく悪魔憑きじゃない。認知症だよ。脳の問題なんだ。俺のヒールでも、ソウルリトリーバルでも、変性した脳そのものを治すことはできない」
つい、前世のばあちゃん絡みで覚えた現代病名をそのまま口にしてしまった。
だがアヴィは「認知症」という未知の語に眉ひとつ動かさず、むしろ尊敬の色を深める。
「……やはり、ご主人様は凄い方です。この世界の誰もが『悪魔』と決めつける病の正体を、一瞬で見抜いてしまうとは」
そう言って、アヴィはそっと俺の手を取った。
包み込むようにゆっくり撫でるその手つきは、主を労わるそれとも、崇拝にも似た仕草とも取れる。
(いやいや、俺じゃなくて、前世のばあちゃんの知識だから……!)
「とはいえ、こればっかりは……俺じゃどうすることもできないんだよなあ……。もういっそ開き直って『聖女でも無理なもんは無理★』ってバックレるか?」
冗談半分、本音半分の弱音が、ふっと漏れた。
深く息を吐いたそのとき――。
「ご主人様。諦めるのは……まだ早いですよ」
「へ?」
アヴィが静かに微笑んだ。
それは慰めでも励ましでもなく、どこか確信めいた、不敵な笑み。
その笑みに目を奪われた瞬間――ふと、記憶がフラッシュバックする。
……そうだ。治癒魔術士団の研究室で、マルコム室長にアヴィを媒介にしたエクストラヒールを見せた時だ。
『すごいな……。アヴィ君もクー君の時と同じように全ステータス1.5倍のバフがかかるんだね』
マルコム室長が魔道具の水晶球を覗き込みながら顎に手を当てて感心したように頷く。
『おや、固有スキル欄……“異常物質の浄化・排出”って出てるね。これは……解毒系かな?』
『“異常物質”って、つまり何なんです?』
『毒か、病原か……まあ、調べ甲斐はありそうだ』
――あの時のアレ。
そういえば、まだマルコム室長から詳しい話を聞いていなかった。
「……もしかして、お前の固有スキル……“異常物質”がどうのってやつ!」
思わず前のめりに言うと、アヴィはコクンと頷いた。
「はい。マルコムさんが調べた結果では――解毒だけでなく、病気にも一定の効果があるそうです。もちろん万能ではありませんが……ご主人様のお役に立てる可能性はあるかと」
「……まじ!? じゃ、じゃあ……アヴィのスキルで、法皇の認知症が治るかもしれないってことか……!?」
本当に認知症だったとして、すでに萎縮してしまった脳までは修復できないかもしれない。
それでも――病変した細胞だけでも浄化できるなら。
胸の奥に、消えかけていた希望がふっと灯った。
「……まぁ、賭けてみるしかないよな」
「はい、ご主人様。――ヴェスタリアの連中に、僕たちの“愛の力”を見せつけてやりましょう」
「愛で救えたら苦労しないっての……。ていうか、マッスルチートで病気まで治せるなんて、この世界、筋肉優遇しすぎだろ!」
「いいえ。これはチートではありません。僕とご主人様の“愛の結晶”です!」
「だからその言い方をやめろ!!」
――こうして俺たちは、“筋肉チートで認知症を治す”という、医療でも魔術でも説明不能なカオス任務を……明日、本当にやる羽目になった。
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