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第67話 赤髪の聖女⑥

 翌日。  ヴェスタリア法皇宮殿――王の寝室は、ルミナス枢機卿を筆頭に高位神官たちがずらりと並び、張り詰めた空気で満ちていた。  白を基調とした荘厳な室内。その中央に鎮座する豪奢な天蓋付きベッドには、土気色の顔をしたピウス法皇が臥せっている。肉体は痩せ細り、呼吸も浅い。しかし、その濁った瞳だけは薄く開き、こちらを捉えていた。  沈黙の聖女ユーリアとして、俺はミシェル王子に先導されながら寝室へと入る。  純白の聖衣、容赦ないコルセット、歩く度に足の骨をきしませるハイヒール。  それら全ての苦痛を無理やり“慈愛の微笑み”へ変換して、優雅に一礼した。  「猊下。アルケイン王国より、奇跡の聖女ユーリア様が参られました」  ミシェル王子が恭しく紹介した、その刹那。  臥せっていたはずの法皇が、喉の奥から絞り出すような叫び声を叩きつけてきた。  「誰だこんな醜女をよこしたのは!! つまみ出せ!!」  その絶叫が、寝室の厳粛な空気を派手にぶち破る。  高位神官たちは一斉に硬直し、ルミナス枢機卿とバレンティン皇子は、「ああ……今日もか……」という、半ば諦観じみた表情を浮かべた。  (ハイッ、どうもこんにちは! コルセットとハイヒールに命を狙われている芸術点だけはやたら高いピカソ系美少女(男)です!!)  俺も鏡を見て、法皇とまったく同じ感想を抱いた身としては、分かりみが深すぎる。  ……だが。  隣に控えるアヴィが“いつもの微笑み”を崩さないまま、こめかみに ピキッ と青筋を浮かべたのを見て、一番ヤバいのは法皇じゃなくて、こっちだ!!  と、別の意味で背筋が凍りついた。  「どうか、ユーリア様。悪魔に取り憑かれた猊下をお救いください」  バレンティン皇子にそっと促され、俺は聖女らしい優雅さを装って、ゆっくりとベッド脇へ歩み寄る。  その間にも、法皇は枯れ果てた声で  「近寄るな、化け物……!」「近くで見るとさらにブスだな……!」と、もはや逆に元気そうな罵倒を飛ばしてくる。  ついにアヴィの笑顔が完全にシャットダウンされ「こいつ生かしておく価値あるのか?」とでも言いたげな殺意に満ちた眼光に変わった。  (落ち着けアヴィ! 短剣に手をかけるんじゃない!!)  アヴィが“処理”に動く前に、俺は急いでエクストラヒールをぶち込もうと、アイコンタクトで「殺すな・治すぞ・黙ってろ」を三点セットで伝える。  ベッド脇に膝をつき、ピウス法皇の冷たい手にそっと触れた。  法皇はまだ何か罵りながら手を振り払おうとしてくるが、構わず両手で包み込むようにしっかり握る。  本来、エクストラヒールであれば接触は不要だ。  これは、いかにも奇跡を起こしたように見せかけるための演出にすぎない。  顔を上げて、彼の落ち窪んだ瞼と震える声を間近で感じた時。  胸の奥に、前世で認知症だったばあちゃんの姿がふっと重なった。俺の名前を忘れても、俺の手を握ってさする、あの皺だらけの浮腫んだ指先。  アヴィが打ち合わせ通り、自然な所作でサポートするふりをしながら、俺の背へそっと手を添える。  その触れ方は、外から見ればただの介助、しかし実際は――アヴィを媒介にヒールを発動するための合図だった。  俺は静かに目を伏せ、胸の内に渦巻く魔力の奔流へ意識を沈める。  そして、息に紛れるほど微かな囁きで、ただひとこと。  「……ヒール」  唱えた瞬間、アヴィの足元から、光が爆ぜた。  金色の輝きが床をかすめるように広がり、瞬く間に法皇の寝室を覆い尽くす。  幾重にも重なる光の紋章、絡み合い旋回しながら展開される幾千の術式。  そのひとつひとつが呼応するように脈動し、まるで大地そのものが呼吸しているかのようだった。  あまりにも巨大な光の魔法陣――。  もはや“魔法陣”と認識できる者はひとりもいない。  神官たちの目に映ったのは、ただひとつ。  神が降臨したかのような、黄金色の奇跡。  光は天蓋を揺らし、空気そのものを震わせる。  沈黙の聖女が放ったその術は、彼らが生涯見ることになるすべての奇跡を凌駕していた。   光が溶けて消えたあとも、室内はしんと静まり返っていた。  さっきまで暴れん坊のように罵声を飛ばしていたピウス法皇は、まるで電池が切れたように動きを止め、虚空を見つめている。  そして――ゆっくりと、俺へ視線を向けた。  「……おや。こちらの……美しいご婦人は、どちら様かな?」  (お、お世辞……!? お世辞が言えてる……!! 会話になってる……!!)  「父上……!」  バレンティン皇子が弾かれたようにベッドへ駆け寄る。  「父上、私です! お分かりになりますか……!?」  「……ああ。お前は……私の息子だろう?」  法皇は穏やかな目で息子を見つめ、「名前は……なんだったか……」と小さく首を振る。  「バレンティンです、父上」  皇子の声は震えていた。  「バレンティン……? そうだ、バレンティンだったな」  法皇は頷き、ふっと微笑む。  「バレンティン、大きくなったな」  その瞬間、バレンティン皇子の瞳から、ぽたりと涙が零れた。  「……はい。もう28です、父上」  「そうか……。もうそんなに大きくなったのか。立派になったなあ。で……」  法皇は首をかしげる。  「なんて名前だったかの?」  「……バレンティンです」  「そうだそうだ。近頃、忘れっぽくてなあ」  そのまま、穏やかな表情のまま、ゆるやかな“忘却コント”が続く。  だが、少し前まで荒れ狂っていた法皇とは比べものにならない、柔らかな気配。  ――これが、症状が悪化する前の父の姿なのだ。  バレンティン皇子の頬を伝う涙は、父を取り戻した喜びの証だった。  ピウス法皇は、まだ50代という若さだった。  その年齢で生じる「記憶のほつれ」は、現代医学に照らすなら若年性アルツハイマーに近い。若ければ若いほど進行が早い――そんな残酷な現実までも、思い起こさせる。  アヴィのスキルは変質してしまった脳の細胞を浄化し、俺のソウルリトリーバルは、法皇を縛っていた不安と鬱の影をそっと拭い取った。  それでも、なお記憶の抜け落ちは残ったまま。  ――やはり、失われた脳そのものを取り戻すことはできない。  けれど、残された部分がリハビリによって働きを補えるようになれば、完璧ではなくとも、日常を穏やかに過ごすことはできるはずだ。  穏やかに微笑み合う父と息子を眺めながら、  俺たちは、胸の奥で静かに息をついた。  ***  翌朝。  枢機卿が報告のために客室を訪れ、興奮のあまり半ば駆け込むように扉を押し開けた。  「聖女ユーリア様! 猊下の徘徊も暴言もぴたりと止まりました! まさしく……真の、奇跡にございます!」  俺は用意していた筆談用の羊皮紙に、静かにペンを走らせる。  『猊下の魂の歪みは、修復されました。しかし――いちど失われた記憶が自然と戻るまでには、どうしても相応の時間を要します』  続けて、さらりともう数行。  『悪魔の影がふたたび差し込まぬよう、猊下を決して孤独にしてはなりません。可能な範囲で公務にお戻しし、人々と語らわせ、外気に触れさせ、日々の刺激を与えること。それこそが、何より確かな治療となるでしょう』  もっともらしい文言を、いかにも神託めかして並べ立てる。  (認知症はリハビリとコミュニケーションが命なんだよ……! 悪魔祓いなんかより、散歩とおしゃべりの回数を増やせ!!)  ルミナス枢機卿は、偽聖女から示された神託(?)を、一字一句噛みしめるように読み返し、深く頷いた。  やがて胸の前で両手を組み、感極まったように何度も感謝を述べると、ひとつ大きく息を整えてから、静かに部屋を後にした。  枢機卿が退室してしばらく経った頃、今度はミシェル王子とジョバンニ氏が部屋を訪ねてきた。  どうやら聞きたいことが山ほどあったらしい。要点だけを噛み砕いて説明すると、二人は真剣そのものの表情で耳を傾け、やがて揃って息を呑んだ。  「……まさかアヴィさんに、そんな力があったなんて……」  「ですよねー。ほんと、どんだけ規格外なんだか……」  苦笑するしかない俺の横で、アヴィが静かに口を開く。  「いいえ。これは僕だけの力ではありません。僕とご主人様の愛の結――」  「だからそれやめろォ!!」  余計な単語を差し込む寸前で慌てて制止すると、向かいから柔らかな笑いが漏れた。  「ふふ……しかし事実、わたくしの腰痛と関節炎、それに慢性化した筋肉痛が嘘のように消えました。エクストラヒールには心から感謝しておりますよ」  ジョバンニ氏が深々と礼を述べると、ミシェル王子は瞳を輝かせて身を乗り出した。  「つまり今の僕たちは、全ステータス1.5倍ってことなんですよね!?  ジョバンニ! 効果が切れる前に、法皇宮殿の外周をランニングしたいんだけど、どう思う!?」  「殿下ッ!! それはまた別の意味で大問題になりますので、外交中の筋トレはお控えください!!  それに、わたくしの足腰にも休暇をいただきとうございます!!」  ジョバンニ氏の悲痛な訴えが部屋に響き、思わずその場に和やかな笑いが広がった。  俺はというと、相変わらずコルセットとハイヒールに腰と足裏を殺され続けていたが……  4人で他愛もない話をしながら、ジョバンニ氏が淹れてくれた香り高い紅茶を一口含むと、ほんの少しだけ痛みと、張りつめていた緊張もゆっくりと解けていく気がした。

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