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第68話 赤髪の聖女⑦

 その夜は、法皇猊下の快復を祝って神に感謝を捧げる、小さくも厳かな食事会が開かれた。  案内された法皇ピウス猊下の私的な居間は、白と金を基調とした穏やかな光に満ちていて、まるでこの部屋そのものが「救い」を深く息づかせているように思えた。  席につくのは、ピウス法皇と奥方、バレンティン皇子、ルミナス枢機卿、ミシェル王子、そして聖女ユーリアである俺――わずか6名。  法皇が病に伏して以来、初めて口にする清めの聖餐(せいさん)だった。土気色だった顔は、いくぶん血色を取り戻し、その瞳にははっきりと生気が戻っている。  「聖女ユーリア様。貴女の神の恩寵に、心より感謝を」  バレンティン皇子が深く頭を垂れる。  俺は、締め付けるコルセットに息を殺しつつ、“沈黙の聖女”としての慈愛の微笑みをゆるやかに浮かべ、静かに頷いた。 ​(くっそ、コルセットきつい! 法皇の快復を祈る儀式って名目で軽食しか出ないのが唯一の救いだ!)  食器の触れ合うかすかな音が、祈りの場の沈黙を壊さぬよう細心の注意で立てられる。  壁際には、アヴィとジョバンニ氏――ふたりの従者が控え、主を守る影のように静かに佇んでいた。  「ところでバレンティン、隣の美しいご婦人は、お前の婚約者なのか?」  突然の法皇猊下の爆弾発言に、ミシェル王子が「えっ僕!?」と目をひんむく。  すかさずバレンティン皇子が、椅子からずり落ちそうな勢いで前のめりに訂正した。  「父上、バレンティンは私です。そちらのお方は、アルケイン王国のミシェル王子でございます」  「おお、そうだった。バレンティンはお前だったな」  と、法皇猊下は今度は皇子の肩をぽんぽん。  ミシェル王子は苦笑いしながら姿勢を正し、バレンティン皇子は必死で場を整える。  「それと父上。ミシェル王子の隣の方は婚約者ではなく、アルケイン王国よりお越しの聖女様です」  「聖女さま? それはそれは!」  法皇猊下はぱっと顔を明るくして、まるで孫の友達でも迎えるかのような朗らかさで手を合わせた。  「遠路はるばるようこそ。どうぞ、ゆっくりしていきなさい」  吹き出しそうになるのをこらえながら、俺はニッコリ微笑んで一礼する。  「で、お前の婚約者はどっちなんだ?」  法皇猊下が、ミシェル王子と俺の顔を、まったく悪気なく交互にスキャンしてきた。  ミシェル王子は慌てて手を振る。  「ち、違います法皇猊下! 僕はアルケインの王子で、男です……!」  (俺に至っては、“女装させられた男”なんですけどね!!)  俺は“沈黙の聖女スマイル”で静かにフォロー。  「父上、ミシェル王子もユーリア様も私の婚約者ではございません」  バレンティン皇子がきっちり締めた――その瞬間。  「そうか……両手に花だな」  法皇はさらに混乱を深めてきた。  「……申し訳ありません。ミシェル王子、ユーリア様……」  バレンティン皇子はひとつ肩を落として深々と頭を下げる。  その一連のやり取りに、俺とミシェル王子は思わず顔を見合わせ、小さく笑い合った。 ​ バレンティン皇子は終始、猊下と“忘却コント”を繰り広げながらも、どこか嬉しそうだった。それは、昨日まで正気でなかった父が、穏やかで朗らかな表情を取り戻したことへの、純粋な安堵に見えた。  清めの会食が終わり、ルミナス枢機卿と法皇が侍従に付き添われて隣室へ退いていった。  ​「ミシェル王子。そしてユーリア様。長旅と献身的な御業で、さぞお疲れでしょう。感謝の念は尽きませんが、今宵はゆっくりと心身をお休めください」  バレンティン皇子の声音は相変わらず端正で、でも、俺はそれどころじゃなかった。  コルセットの軋む音を悟られないようにしながら深く一礼する。  (やった、やっとこの地獄のハイヒールとコルセットから解放される……! あとはアヴィに愚痴を言って、さっさと寝る!)  ​俺は、一秒でも早く客室に戻ることだけを考え、アヴィの手を借りて立ち上がった。  「お先に失礼します、バレンティン皇子殿下」  ミシェル王子が優雅に退室の挨拶を述べる。俺とアヴィも続こうと、重厚な扉へ向かった――そのときだった。  カツン――パキッ。  足裏から、乾いた、嫌な、そして致命的な音。  (……え?)  視界がふっと浮いた。  疲労とコルセットでめちゃくちゃになった重心が、細すぎる純白のヒールに限界を強いたのだ。折れた片方のヒールが床を転がる。  「っ――!!」  足首にグギッと嫌すぎる感触。  鋭い痛みが走り、俺は呼吸すら奪われる。  (い゛っっっってぇぇぇ〜〜〜〜〜〜ッ!!)  「ユーリア様ッ!!」  アヴィが影のような速さで俺を抱きとめた。片膝をつき、俺の身体を支えたまま膝上に引き寄せる。  「大丈夫ですか!? すぐに治癒魔法を!」  焦りを押し殺しながらも、アヴィは一瞬だけ鋭い殺気を周囲に放った。  俺がケガした。自分が守れなかった。その事実が彼の中で最大のプレッシャーになっている。  バレンティン皇子が一歩前へ出る。  「お待ちください。治癒術師をすぐ手配させましょう」  皇子は侍従に合図を送り、折れたヒールと俺の足首へと視線を落とした。  「ユーリア様、ひとまず隣の応接間へ。手当てと、替えの靴もご用意します」  (いや、治すのは自分でできるんだけどな……。でも靴は確かに必要だし……まぁいいか……)  ぼんやりそう考えていると、突然フワリと体が宙に浮いた。  「……っ!!?」  「応接間はどちらですか?」  気づけばアヴィの腕の中に収まり、がっつりお姫様抱っこされていた。  (ちょ、なにこれ、皇子の前で公開処刑なんですけど……!?)  アヴィは皇子を真正面から睨みつけた。  その双眸には、「主の負傷は貴様らのせいだ」という無言の敵意が、寸分の隙なく宿っている。  慌てて俺は、アヴィの胸元を肘でそっと小突いた。  (落ち着け……死ぬのは靴と俺の足裏だけで十分だ……!)  そんな俺たちの、どう見ても距離の近すぎるやり取りに、バレンティン皇子は一瞬だけ眉を顰めたが、すぐに表情を整えた。  「……こちらへ」  皇子の案内に従い、アヴィは俺を抱えながら、応接間へと進んだ。  途中、廊下で心配そうに待機していたミシェル王子とジョバンニ氏にすれ違う。  声は出せないけれど、俺は小さく笑みを浮かべ、頷きと目の動きで「大丈夫」と伝えた。  二人はその意思を察しつつも、俺たちが応接間に消えるまで、じっと見送っていた。

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