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第69話 赤髪の聖女⑧
応接間の柔らかなソファにそっと下ろされるや否や、アヴィは膝をつき、俺の足に触れる前から全神経を集中させている気配を漂わせた。
「……失礼します」
その声は驚くほど低い。
慎重に、まるで触れただけで砕けてしまうガラス細工でも扱うように、アヴィは折れたハイヒールを外し、俺の足首へと視線を落とした。
患部はズキズキと疼き、熱を持ち腫れていた。
俺は痛みで冷や汗をかきながらも必死に声を出さないように耐える。
(っ、やば……これ、普通の捻挫じゃなくね……? 骨、いってる可能性ある……?)
アヴィは痛々しい腫れを見て眉を寄せた。
怒り、焦り、自己嫌悪……その全部を押し込めた顔だ。
ほどなくして廊下の向こうから急ぎ足の音が近づいてきた。扉が開き、宮殿付きの治癒術師が慌てて入ってくる。
バレンティン皇子がその後ろに立ち、静かながらも迅速な口調で「聖女様にグランドヒールを」と告げた。
治癒術師はすぐに膝をつき、俺の足首へとそっと触れる。
アヴィはその横で、彼らの一挙手一投足を見逃すまいとする獣のような鋭さで見守っていた。
治癒術師が低く呟きながら術式を展開すると、淡い光が俺の足首を包み込んだ。
温かさがじわりと染み込み、さっきまで脈を打っていた痛みが――すっと引いていく。
(……うわ、めちゃくちゃ効くじゃん……! ありがてえ……!!)
腫れも見る間に引き、足が軽くなる。
俺は胸の前でそっと手を重ね、作り慣れた“聖女スマイル”で礼をした。
アヴィはまだ消えきらない警戒を瞳の奥に宿したまま、治癒術師の動きをじっと見ていた。
俺の足が完全に治ったとわかっても――彼の表情は、どこか曇ったままだった。
(……ああ、そうか)
その翳りの理由が、なんとなく胸に落ちる。
アヴィのせいじゃない。それでも彼は俺が痛んだとき、真っ先に手を伸ばし、彼自身の手で治癒を施せる存在でいたかったのだ。
そのもどかしさが、今の微妙に晴れない顔に滲んでいるんだろう。
(ほんと……アヴィは、そういうとこ一途すぎるよな)
俺はそっと身を前に倒し、アヴィがソファについた手に、自分の指先を重ねた。
ほんの一瞬だけ触れる程度の、軽いタッチ。
けれど、その一瞬に、全部こめる。
(――気にするな)
声に出せない分、まっすぐアヴィの瞳を見て伝える。
アヴィは驚いたように瞬きをし、それから、ほんの少しだけ眉尻を下げた。
その表情は、たぶん……俺にしかわからないほどわずかな緩みだったけど。
俺は小さく息を吐き、そっと手を離す。するとアヴィは腰を上げ、一歩下がり、ソファの傍らに控えた。
しばしの静寂のあと、口を開いたのはバレンティン皇子だった。
「……もしよろしければ、代わりの靴が届くまでの間、少し個人的なお話をしてもよろしいでしょうか?」
皇子は斜め向かいのソファに腰掛け、俺に向かって丁寧に前置きをした。
「もちろん、聖女様は筆談で」と言い、すでに準備してあった羊皮紙と羽根ペンをテーブルに差し出す。
俺は一瞬、思わずボロを出してしまわないか不安になる。けれど、こうした申し出を無碍に断ることもできず、静かに小さく頷いた。
皇子は微笑みながら「ありがとうございます」と姿勢を正す。
「……改めて、今回、聖女様の神の恩寵によって、父上を救ってくださったこと、誠に感謝申し上げます。聖女様の聖なる御力に、ただ感銘を受けるばかりでした」
皇子の低い声が静かに落ちる。
俺は姿勢を正し、胸の前で手を重ねて――聖女の微笑みを形だけ浮かべ、丁寧に礼を返した。
(俺ですらよく分かってない聖なるマッスルチートだよ! あとリハビリとコミュニケーションは絶対サボるなよ……!)
そんな本音は、当然きれいに胸の奥へ押し込める。
皇子はしばし黙し、そしてふっと眉を寄せた。
「……あの。もしお気を悪くされたら申し訳ないのですが」
言い淀みながら、彼は背後に控えるアヴィへと一瞬視線を滑らせる。
そのわずかな動きに、俺の背筋がひやりと強張った。
「……どうして、貴女ほどの方が――彼を従者に?」
獣人、という言葉を飲み込むように。
その眼差しは好奇よりも、どこか嫌悪と戸惑いが混じっている。
(いやいやいや今はこんなんですけど!!!
最初はマジで! ウサ耳ショタ!! だったんですよ!? 尊い! 守りたい!! ってショタホイホイしてるうちに、気づいたらマッチョの番で伴侶で事実婚の妻になってて!! しかも一夫多妻で他にも妻がいるってどういう人生よ!!!?)
……などと正直にぶっ放せるはずもなく。
俺は呼吸を整え、羽根ペンにそっと手を伸ばした。
ヴェスタリアはアルケインよりも――いや、比べものにならないほど獣人への風当たりが強い。
「従者にする」どころか、入国することすら難しい国だ。
だからこそ、俺は覚悟を決めて、想いを書きしたためた。
『彼と出会った時、彼は奴隷でした。鎖に繋がれた彼を前に、“彼を助けよ。それが貴女自身の助けとなる”と、神より天啓を授かったのです』
皇子は羊皮紙の文字を読み終え、静かに瞳を伏せた。
「……神から、天啓を?」
(そーだよ、“俺の中のショタを愛するショタ神”からのな!! 入信したら、なぜか11人のマッスルがついてきたけどな!!)
もちろん言えるはずもなく、俺はただ慈愛の微笑みを浮かべるだけだった。
皇子は納得したというより、背後に立つアヴィの殺気を前に“それ以上突っ込まない方がいい”と結論づけたように見える。
「なるほど……。聖女様の御心とあらば、獣人の従者を連れ歩くことも異論はございません」
そう言って羊皮紙を置き、完全にアヴィから視線を切り離し、俺へ向き直る。
その目には、さっきまでアヴィに向けていた嫌悪の影は一切なく――
ただ静かで、深い、熱を帯びた“探求心”だけが宿っていた。
「……もう一つ、お尋ねしてもよろしいでしょうか」
皇子はわずかに身を乗り出した。その仕草には、先ほどまでの穏やかな礼節ではなく、確かな“意志”が感じられた。
「先ほどの席でも、ミシェル王子と親しげに見受けられましたが……もしや、貴女様はミシェル王子とご婚約の仲でいらっしゃいますか?」
――直球。
避けようのないストレート。
外交の中心に向かって、スライディングで飛びこんでくるタイプ。
(婚約!? いやいや、ミシェル王子とはただのご学友だし、俺は男で偽聖女で、しかも家ではゆかいなマッスル獣人たちとカオスな日常送ってるんですけど!?)
俺はぎこちなく首を振った。
「では……他に、心に決めた方が?」
ほんの一瞬、脳の配線が全部溶けて消えた。
(……心に決めた方? ちょっと待って、これ、まさか……)
俺が答えられずにいる、その刹那――
背後で、“何か”が爆ぜた。
アヴィだ。
喉奥から低く掠れた唸りが漏れ、飛びかかる寸前の獣の気配が、背中にヒシヒシ伝わる。
だが――
バレンティン皇子は眉ひとつ動かさなかった。
刺さる殺気を受けてもなお、その双眸を俺から逸らさない。
「……私はこれまで、多くの王侯貴族や公爵夫人たちと顔を合わせてまいりました。けれど――貴女様ほど、神の御業を超えた美しさを宿す方に出会ったことはございません」
低い声音が、空気を震わせる。
「特に……その力強くも繊細な骨格。そして、内奥に秘めた情熱を宿した眼差しには、思わず息を呑んでしまうほど……」
固まった。
固まるしかなかった。
(え……骨格? 力強い?
俺ってピカソ系美少女(男)じゃなかったっけ……?)
その瞬間、俺の中でひらめきがズガーン!! 稲妻のように脳を貫いた。
(…………!!! いた……!!
ブス専神官はいなかったけど、ブス専皇子がいた……!!)
世界の真理を掴んだ気すらした。
そんな俺の混乱など知らぬまま、皇子は熱を帯びた瞳で、まっすぐ俺を射抜いた。
「……もし、貴女にすでに心に決めたお方がいらっしゃらないのであれば」
一拍の間。
「まずは友誼 の形からで構いません。
どうか、私と今後も親交を深めていただけませんか?」
その声音は丁寧で、礼節をわきまえている。
――けれど、奥に潜む熱だけは隠しきれていなかった。
皇子のあからさますぎる、ピュア度100%の好意に――
俺は、罪悪感で死にそうだった。
(ヤバい。ヤバいやつきた。言いたい。全部ぶち撒けたい。いっそ今ここで「俺、男なんです!!」ってスライディング土下座したい!!)
心に決めた相手と言っていいのかは分からないけど――
命を張ってでも守りたい奴らなら、ちゃんといる。
せめて、俺のこの気持ちだけは、偽りなく真実を伝えようと、震える指先で羊皮紙に手を伸ばした。
その瞬間だった。
「聖女様は――すでに、心に決めたお方がいらっしゃいます」
低く、落ち着いた声が応接間に響く。
アヴィだった。
羊皮紙が俺の手に触れる寸前、アヴィがすっと前に出た。
その声音は礼節を保ちながらも、奥底に鋭い刃を忍ばせている。
「恐れながら、皇子殿下のご期待には――お応えできません」
言葉と同時に放たれる、冷えた殺気。
その場の温度が一瞬で下がった気がした。
皇子は、わずかに目を細めた。
だが一歩も引かない。
「私は――聖女様ご本人に伺っているのです」
バレンティン皇子は静かに告げた。
声は丁寧だが、その奥にはどうしても隠しきれない“譲らない意思”があった。
対してアヴィも、一歩も引かずに前へ出た。
まるで俺を庇う盾のように。
「僕は、聖女様の代弁者でもあります。
僕の言葉はすなわち――聖女様の、ご意思です」
空気が、ピシッと割れた。
(や、やばい……!!
容姿・性別・種族の概念ごと超越した手フェチのアヴィと、ピカソ系美少女(男)にだけ性的目覚めを起こすブス専皇子が――
よりによって俺を巡って本気で争い始めている……!!)
俺は心の中で顔を覆った。
選ばれた理由が二人とも方向性がおかしいせいで、より地獄が深まっている。
バレンティン皇子はアヴィの真っ直ぐな殺意を受けてもなお、わずかも怯まないまま、静かに俺へ視線を戻した。
「……その“ご意思”を、聖女様ご自身の手で示していただくことは、叶いませんか?」
アヴィの眉がピクリと跳ねる。
「なりません」
(ひえぇぇぇぇ……!!
やめてくれ……!! そもそも俺、男~~~!!
今朝も髭剃りとスネ毛剃りと、ついでに脇まで念入りに剃った男~~~!!!)
俺のメンタルが、腰のコルセットよりぎゅうぎゅうに締め付けられているその瞬間――
侍従たちが、折れたハイヒールの代わりになる靴を何足も運んできた。
(か、神よ……!! あなたがたは神の化身ですか……!?)
台車には色とりどりの靴が整然と並べられ、まるで小さな宮殿が乗っているかのようだ。
アヴィは侍従の女性が動くより先に、無言のまま台車の前に跪く。
慎重に一足一足を手に取り、指先で確かめるように触れていく。
(……あれ、サイズを確認してくれてる……?)
やがて、アヴィは片手で履きやすそうなヒールを持ち上げ、俺の足元に差し出す。
「……これなど、いかがでしょう」
俺は少し照れくさくなりながらも、その靴をそっと足に滑り込ませる。サイズぴったり。しかも太めのヒールで高さも控えめ。これなら歩きやすそうだ。
(……アヴィ、ありがとな……!)
視線を上げると、彼は淡々とした顔のまま俺を見下ろしていたが、目元にはわずかな緩みがあった。
「……皇子殿下のお心遣いに感謝いたします。聖女様はお疲れのご様子なので、これにて失礼させていただきます」
アヴィは静かに俺の手を掬い上げ、そのまま逃がさぬよう包み込む。
そして、優しく――けれど否応なく、俺を立ち上がらせた。
(え、ちょ、強引……! でも助かった……!!)
「……それも“聖女様のご意思”ですか?」
背後から、低い声音が投げかけられる。
バレンティン皇子の瞳は微笑んだまま、あきらかに挑発の色を孕んでいた。
アヴィは振り返りもせず、ただ俺の手を握り直しながら答える。
「ええ、もちろん」
一切の揺らぎもない声音。
皇子の皮肉を真正面から受けてなお、アヴィは微動だにしない。
「……聖女様、今宵はありがとうございました。またお話できる日を楽しみにしております」
チラと背後に視線を向けると、皇子は片足を後ろに引き、深く身をかがめる優雅な礼で見送っていた。
そして、アヴィに視線を移すと、目が合う。彼は何事もなかったかのように、澄ました顔で俺を見つめている。
(……結局、お前は、俺が貶されても褒められても、どっちみちブチ切れるんだな……)
「……どうかしましたか?」
「……いや、なんでも」
アヴィにだけ聞こえる声で、俺は小さく呟き、思わず苦笑した。
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