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第70話 赤髪の聖女⑨

 客室へ戻ると、俺はソファへ吸い込まれるように腰を下ろした。  アヴィは部屋に備え付けられた小さな“魔導コンロ”にポットをかけ、慣れた手つきでハーブティーを淹れてくれる。  さすがに、この時間になって宮殿の侍従が来ることはないだろう。  俺はようやくハイヒールを脱ぎ捨て、裸足をもこもこの絨毯へ投げ出して、ほぅ……と息をついた。  ――問題は、このコルセットだけだ。  これさえ外せれば、俺の肉体は完全に解放される。だが、これは自分ひとりでは、着るのも脱ぐのも不可能な代物。  ヴェスタリア滞在中は、アルケイン王国の城から同行してくれたメイドさんが、朝晩部屋を訪れて手伝ってくれていたのだ。  「……早くメイドさん来ないかな〜」  ハーブティーをひと口飲み、気の抜けた声でそんなことを呟く。  すると、向かいのソファで同じくカップを傾けていたアヴィが、ふいに言った。  「今日はもう、誰も来ませんよ」  その一言に、カップを持つ俺の手がぴたりと止まった。  “今日はもう誰も来ない”――その意味を噛みしめた時、心臓がドキリとひとつ脈打った。  きっとアヴィは、城のメイドさんに――  「来なくていい理由」なんて、その気になれば百万通りでも捻り出せるほどの適当さで、事前に手回ししていたのだ。  そんな確信が胸に落ちた瞬間、俺はゆっくりと顔を上げた。  アヴィは、まるで何事もなかったかのように。  いつもの穏やかな――けれどどこか含みを帯びた、柔らかな笑みを浮かべていた。  もう誰も来ないのが分かっているくせに、優雅にハーブティーなんて嗜んでいる。  まるで「どうぞごゆっくり」とでも言うように、穏やかに、涼しい顔で。  ……ということはつまり、これは。  (俺からアヴィに「脱がして♡」ってお願いしなきゃいけないパターンってことか……!?!?)  動揺で、カップの中のハーブティーが波打った。  そして、俺と視線が合った途端。  アヴィは、ふ、と微笑んだ。  その微笑みが。  あきらかに。  完全に。  “分かっている側”の微笑みだった。  (おまえ……絶対狙ってるだろ……!?)  「……ご主人様」  低く、落ち着きすぎて逆に逃げ場がない声が、静まり返った客室に落ちた。  「な、なんだよ……」  意図せず、背筋がカチッと強張る。  アヴィの呼びかけは、どうしてこう毎回、心臓に悪いのか。  「……その長髪姿も、明日で見納めかと思うと――少し名残惜しいですね」  ティーカップをそっと置く仕草は優雅そのものなのに、次の瞬間にはもう俺のそばにいる。  音も気配も、気づく隙さえ与えず。  ただ気がついたら、目の前で跪いていた。  アヴィは自然そのものの動作で、俺の付け毛に手を伸ばし、指先で柔らかく梳いた。  その仕草が妙に慣れていて、俺の方が狼狽える。  「……ご主人様は、長髪もよくお似合いですね」  その低い囁きに続いて、アヴィの指先がするりと毛先を滑り落ちる。  ほんの一瞬触れただけの体温すら、やけに鮮明に意識へ残った。  「お、“俺だったらなんでもいい”とか抜かしてるお前の言うことは信用できねぇよ。  俺が丸刈りにしたって、どうせ同じこと言うんだろ?」  言い返したつもりなのに、声が微妙に上ずっている自分に腹が立つ。  アヴィは一拍おいて微笑んだ。  柔らかいのに、どこか逃げ道を封じる系の笑みだ。  「……ふふ。はい、きっと言いますね。ですが――丸刈りは困ります。僕は、ご主人様の……この柔らかい髪に触れるのが好きなので」  言いながら、アヴィは俺の襟足に足した長い付け毛をそっと掬い取る。  ただの髪飾りを扱うにしては、その指先があまりにも丁寧すぎた。  そして、ほんの迷いもなく――その毛先へ静かに口づけを落とす。  「……おい、それ、俺の毛じゃねぇよ」  かろうじて冷静を装って言うと、アヴィは伏し目がちに微笑した。  その目が、酷く優しくて、同時に底が見えない。  「はい。分かってます」  付け毛に触れたまま、アヴィは淡々と続ける。  「でも、ご主人様の匂いがするので、これはもうご主人様の一部です」  俺の呼吸が一瞬止まった。  アヴィは本気だ。  付け毛だろうが靴だろうが、俺に触れたものは全部“俺の一部”扱いする気だ。  「……このつけ髪、あとで僕にくれませんか?」  「……は? なんでだよ?」  「ご主人様がいなくて淋しい夜に、抱いて寝ようかと……」  「こえーわ!! やめろ!! それもう俺の遺髪みたいな扱いじゃねーか!!」  (ヤバい……、ゴミ出しの日にうっかり捨てたら絶対回収しに来るタイプだ……!)  俺がほぼ悲鳴みたいな声を上げると、アヴィはふっと小さく笑った。柔らかくて穏やかで、けれど肩が微かに揺れるような笑い。  なのに――その瞳の奥に燃える熱だけは、欠片も和らいでいない。  「ふふ、冗談ですよ、ご主人様」  「……いや今のトーン、絶対本気だったろ!」  俺が訴えても、アヴィはどこか嬉しそうに視線を外さない。  「僕には、このつけ髪よりも……もっと抱きたいものがありますから」  静かで低い声が、客室の空気をわずかに震わせた。  それが何を指すのか、言葉にされなくてもわかる。  アヴィの渇望は付け毛でも匂いでもなく――  俺自身、その「核」に向けられている。  アヴィはソファに腰かける俺を見上げたまま、ゆっくりと笑みを深めた。  優雅で、丁寧で、どこにも荒っぽさなんてないのに――  逃げ場が、どこにもない。  「……ご主人様」  その目に囚われた瞬間、もう逃げられない。  そんな確信だけが喉の奥でひりついた。  「コルセット、苦しくありませんか?」  落とされた視線が、俺の腹部――きつく締め上げられたコルセットの上をかすめる。  (違ぇよ……苦しいのはコルセットじゃなくて、お前の存在感だっつの……!)  「……お手伝い、させていただけませんか」  そう言いながら、自然すぎるほど自然に、俺の腰へと触れてくる。  優雅で、静かで、狂気じみたほど徹底した“奉仕”。  アヴィの絶対的な愛と独占欲が、そのすべての所作の奥に潜んでいる。  断ったところで――  アヴィは別の形で欲を爆発させる。俺にはそれがわかってしまう。  そして何より、俺自身がもう限界だった。  苦しさも、羞恥も、疲労も、そしてそれ以上に……この窮屈さから一刻も早く解放されたいという、俺自身のどうしようもない本能が背中を押した。  喉の奥で震える息がこぼれ、俺はほんの少し唇を開いた。  「…………たのむ」  その瞬間――  アヴィの瞳に、深い歓喜が静かに満ちていく。  優しいのに、逃げ道は一切ない色。  「――かしこまりました」  低く、誓いを刻むような声。  アヴィは静かに立ち上がり、影のように音もなく俺の背後へ回り込む。  そして、白いケープを脱がすと、聖女服の後ろの編み紐へ迷いの欠片もない指先がそっと触れた。  編み込まれた紐を傷つけまいと、アヴィは慎重に結び目を探り紐をほどいていく。  その仕草は丁寧で、触れるたびに露わになった背中に微かな吐息が降りてきて、肌をくすぐった。  俺は緊張で肩をこわばらせながら、この窮屈さから解き放たれる瞬間を待つ。  ──が。  固く締め上げられたコルセットの結び目に、触れたアヴィの指が、ピタリと止まった。  きつく締められ、身体のラインを歪ませ、肌に食い込む紐。  皇子の前で俺を苦しめた「偽りの姿」の象徴。  その全てを目前で突きつけられたアヴィの理性が、静かに、限界を迎えた。  喉奥で、低い唸りが震える。  「……っ」  次の瞬間――  静寂を裂くように、「ビリッ」「バチッ」と乾いた音が客室に走った。  優雅な指先などどこにもない。  アヴィは解くのをやめた。  ただ、純粋な膂力(りょりょく)で紐を引き千切ったのだ。  硬く編まれた紐がまるで紙のように裂け、床へと落ちていく。  突然走った解放感に、俺は思わず身体を跳ねさせた。  「なっ……! アヴィ!? おまっ、紐を……!」  背後から聞こえるのは、荒い呼吸。  腰から剥ぎ取ったコルセットを握りつぶすようにして、アヴィはそれを乱暴に床へ放り捨てた。  硬質な布地が落ちる鈍い音。  その音は、まるで“聖女ユーリア”という役を打ち捨てた合図のようだ。  「……おい、それっ、また明日着るんだぞ!」  慌ててアヴィの方へ振り向くと、そこには普段の物憂げな笑みを浮かべた彼がいた――しかし、何かが明らかに違う。  獣人特有の低く熱を帯びた呼気が、静かな室内に満ちている。  そしてその琥珀の瞳は、俺の顔ではなく、コルセットから解放された肌をじっと見つめていた。  瞳孔がゆっくりと開き、光を宿したその眼差しは、まるで獲物を前にした捕食者のようだった。  その奥で、理性とは別の――獣のような熱が、確かに燃え盛っている。  あ、これ……ヤバいかも。  ――そう思った時には、もう遅かった。

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