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第85話 仔竜の贈り物⑪

 俺は、冷たい床の感触で、微かに意識を取り戻した。  (……寒い……いや、熱い?)  頭がガンガンと痛み、目の前は湯気でぼやけている。  どうやら、自分は風呂場にいるらしい。  ぼんやりとした意識の中で、濡れた床にへたり込む自分の身体を、ガウルの大きな手が、驚くほど丁寧に洗い流していくのが分かった。  「……あ、ガウル……」  「目ェ覚めたか。もう少しで終わる」  ガウルの声は、いつもよりずっと低い。そして、少しだけ罪悪感が滲んでいる気がした。  俺の背中に回された無骨な指が、優しく、しかし確かな力で泡を立てていく。昨晩の激戦で強張った全身の筋肉が、温かい湯と彼の手に触れられ、少しずつ緩んでいくのが分かった。  「……背中、痛いか」  ガウルがそう尋ねる。  俺は、「お前のせいだ」とツッコミを入れる気力もなく、弱々しく首を横に振る。  「……ん、だ、いじょぶ……」  ガウルは返事をせず、黙って俺の襟足についた泡を、丁寧にすすいだ。  「待ってろ。すぐ湯に浸からせてやる」  その献身的な手つきと、武骨な優しさが、かえって俺の羞恥心を刺激した。  (……くそ、俺、どんだけボロボロなんだよ……)  自分で自分の身体を支える力さえ残っていない。ガウルが俺の腕を掴み、まるで壊れ物のように支えていなければ、俺はとっくに浴槽の底に沈んでいたはずだ。  (なんで俺、長旅で疲れてるはずの奴に、こんな介護されてんだ……!)  だが、抗議する力もない。俺は結局、ガウルの腕と、彼の持つ底なしの体力に、完全に屈服してしまったのだ。  ​俺は諦めて、熱い湯気に包まれながら、再び意識を白い霧の中に手放した。  彼の手の温かさが、唯一の現実の感触だった。  ***  俺は、朝日が眩しい窓の方ではなく、壁側を向いたまま、呻き声を上げた。  「んん……いてぇ……っ、……ん? いや、待て。……痛くねぇぞ?」  目は重い。身体もだるい。  一晩中、激しい嵐のど真ん中に放り込まれていたような、言葉にしがたい倦怠感は確かに残っている。  ――けど。  本来あるはずの、全身の筋肉が軋むような痛み。  特に、腰から下――昨夜あれほど酷使されたはずの“そこ”が、焼けるようにジンジンする感覚が、綺麗さっぱり消えていた。  隣に目をやると、ベッドはすでに冷たかった。当然のように、ガウルはもうそこに居ない。  (あの体力オバケ……一体いつ寝て、いつ起きたんだよ……)  重い身体を引きずって起き上がり、無意識に腰へ手を伸ばす。  「まさかガウルのやつ……、俺に治癒グミ使ったのか……?」  寝ている隙を狙って、某万能軟膏よろしく、治癒グミを潰して塗り込まれた可能性がある。  よりにもよって、そんな場所に。  想像したら情けなくて、恥ずかしくて、ついでにちょっと涙が出てきた。  まあ、治癒グミを使ったところで、癒せるのは肉体の損傷だけだ。本当にヒールが必要なのは、この一晩で打ち砕かれた俺のメンタルである。  腰と尻の痛みは治癒グミで誤魔化せたとしても、眠気と全身の倦怠感までは取れない。しかし、今日は学校を休むわけにはいかない。  (一ヶ月分の我慢を、まとめて清算された気分だ……)  俺は自虐的なモノローグを脳内で繰り返しながら、重い体に鞭打ってローブを纏った。足が、まるで他人のもののように重い。  俺はあくびを噛み殺し、一階の食堂へと足を運んだ。  眠い目を擦りながら、食堂に顔を出す。  「……おはよう」  間髪入れず「お、おはようございます、兄貴」とチビの声が返ってきた。  ……が。  そこで、ようやく気づく。  なにかがおかしい。  いや、チビたちだけじゃない。  食堂全体が、妙な空気に包まれている。  既に席についているアヴィは、かつてないほど機嫌が悪い。腕を固く組み、負のオーラを無言で放っている。  その隣で、クーがやけに真剣な顔で俺を見つめてくる。心配というか、憐れみというか……そんな目だ。  リィノとリーヤは、俯いたまま視線を合わせてくれない。  ライトに至っては、この空気すら面白がっているのか、口角をわずかに上げている。  極めつけは、チビたちだった。  やけにそわそわしていて、落ち着きがない。  目が合うと、あからさまに逸らされる。  なぜか全員、眠そうで――  ……そして、揃いも揃って、顔が赤い。  (……なんだ、この空気……)  嫌な予感が背筋を這い上がる。  「な、なんか……おまえら元気ないけど……だ、大丈夫か……?」  恐る恐るそう聞くと、チビが肩をすくめ、もごもごと口を開いた。  「……申し訳ねぇ、兄貴。その……ちぃとばかし、言いにくい事なんすけどね」  その言葉と同時に、食堂の空気がピシッと凍る。  「……二階の壁――その……あんまり、厚くないみたいでして」  嫌な単語が出た瞬間、心臓が一段跳ねた。  「……へ?」  俺の喉から、間抜けな声が漏れる。  チビは、完全に目を逸らしながら続けた。  「それに……あっしら獣人、耳がいいもんで……」  そこで一拍、妙な間が空いた。  「……その……兄貴の、声が……」  言葉を探すように、チビは唇を噛み、  「……えーと……なんつーか……艶っぽくて……」  俺の視界が、スーッと白くなる。  「……ドキドキして、誰も眠れなかったんでさぁ……」  しん、と静まり返る食堂。  アヴィが、露骨に舌打ちした。  クーは「やっぱり……」という顔で目を伏せる。  リィノは咳払いで誤魔化し、リーヤは耳まで真っ赤だ。  ライトだけが、楽しそうに言った。  「なあ、ベッド壊れなかったか?」  「聞くなぁぁぁ!!」  反射的に叫んでいた。  顔から火が出るどころの話じゃない。  全身が一斉に沸騰して、今にも爆発しそうだ。  (……さよなら、俺の男としての尊厳……)  その瞬間、背後から低く、落ち着いた声がした。  「……なに突っ立ってる」  振り返ると、そこには何事もなかったかのような顔をしたガウルが立っていた。  全員の視線が、一斉にガウルへ向く。  ……そして、もう一度、俺へ。  俺は、ゆっくりと天を仰いだ。  誰か……!!  俺に忘却魔法をかけてくれ……!!!

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