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第86話 仔竜の贈り物⑫

 あれから、どんな顔で朝食を口に運んだのかも、正直よく覚えていない。  あの一件は、俺の中でそっと闇に葬った。  ――いや、埋めただけじゃ足りない。コンクリートで固めて、二度と掘り返されないよう、心の底に封印した。  自分のあられもない喘ぎ声を皆に聞かれておいて、平常心でいろという方が無理な話である。  俺は、チビたちが見送りに出ようとするより早く、逃げるように家を飛び出し、学院へ向かった。  朝日が、やけに眩しい。  (……クソ。寝不足の俺に、この陽射しは刺激が強すぎるぜ)  街はすでに目覚めていた。  大通りには、行き交う街人や商人、王城へ向かう馬車が溢れ、朝特有の活気に満ちている。  俺はその喧騒から目を逸らすように、何度もあくびを噛み殺し、人通りの少ない裏道を、とぼとぼと重い足取りで歩いた。  やがて、魔法学院の正門が見えてきた――その時だった。  ――フッ。  唐突に、世界から色が抜け落ちた。  地面が、巨大な影に覆われる。  「……え?」  思わず顔を上げると、周囲の生徒たちが一様に息を呑み、空を指差している。  嫌な予感に背筋を冷やしながら、俺もつられて視線を上げた、その瞬間――  ドォォォォォォォン!!  「……ッ!!」  爆風と砂煙が、身体ごと吹き飛ばされそうな勢いで叩きつけてきた。  咄嗟に腕で顔を庇い、衝撃に耐える。地面が大きく揺れ、あちこちから悲鳴が上がる。  やがて、砂煙の向こうに現れた“それ”を目にして、俺は言葉を失った。  「クルルゥーーッ!!」  甘えるようでいて、鼓膜を震わせる重低音の咆哮。  「……ッ!! ル、ルギちゃん!?!?」  ついこの前、生息地である山岳地帯へ還したはずの仔竜(?)が、なぜか今、学院の正門前に堂々と鎮座していた。  ――しかも。  「……お、お前……なんか、デカくなってないか!?」  一回り……いや、二回りは確実に巨大化している。  かつての愛らしさは影を潜め、今やその体躯は完全に「災害指定」レベル。  「なんで戻ってきちゃったんだよぉ!?」  俺が問いかけると、仔竜は嬉しそうに「クルルッ!」と喉を鳴らし、巨大な顔をぐいっと寄せてきた。  ざらりとした鼻先が、俺の頬に触れる。  (人懐っこさは変わってない……けど、圧がすごい!!)  そう思った、まさにその時だった。  仔竜は何かを確かめるように、俺の周囲を「フン、フン」と鼻を鳴らして嗅ぎ回る。  次の瞬間――  「……へ?」  巨大な顎が、がばりと開いた。  俺が状況を理解するより早く。  ガブッ。  「――ッ!?」  仔竜は、俺のローブのフード部分を――まるで親猫が仔猫を咥えるみたいに、実に器用に、がっちりと咥え込んだ。  次の瞬間。  凄まじい風圧とともに、足裏から地面の感触が消えた。  バサァァァァァッ!!  「~~~~~ッ!?!?!?」  強靭な翼が一度羽ばたいただけで、俺の身体はあっさりと宙へ放り出される。  首が締まる! ローブが食い込む! そして何より――  高い!!  「ぎゃあああ!! おち、落ちる!! 放せ!! いや放すな!!」  完全にパニックになり、手足をばたつかせながら絶叫する俺。その視界の端で、地上が一気に遠ざかっていくのが見えた。  学院の正門前は、当然のように阿鼻叫喚だ。  「せ、先生ぇぇ!! クロード君が!! クロード君が飛竜に食べられましたぁぁぁ!!」  (いや、食われてねぇ!! たぶん、どっかにお持ち帰りされてるだけだ!!)  訂正したい。全力で訂正したい。  だが、口を開いた瞬間に風が喉へ突っ込んできて、声は悲鳴にすらならなかった。  (誰か……!! 誰か助けてくれぇぇぇぇぇ~~~~!!)  俺の魂の叫びは、虚しく朝の空に吸い込まれていく。  眼下で豆粒のように小さくなっていく魔法学院を見下ろしながら、  俺は爽やかな青空の下、堂々とドナドナされていくのだった。  そして――  辿り着いた先は、かつて仔竜が飼われていた王城の中庭だった。  俺を地面に降ろすと、仔竜はここが自分のねぐらだと言わんばかりに、どっしりと腰を落ち着ける。巨大な身体が石畳に収まる様は、まるで元からそこに据えられていた彫像のようだった。  対する俺はというと、半ば魂を置き去りにしたまま、その場にへたり込むしかない。  髪はぐしゃぐしゃ、ローブはよれよれ。体感としては、ジェットコースターを休憩なしで十回連続で乗せられた直後――いや、それ以上だ。  (……い、生きてるよな、俺……)  胃の奥がふわふわと浮いたまま、現実感だけが綺麗さっぱり抜け落ちていた。  へたり込んだまま、しばらく指一本動かせずにいると、遠くからガチャガチャと鎧がぶつかり合う金属音と、軍靴が石畳を叩く慌ただしい足音が響いてきた。  恐る恐る顔を上げる。  顔面蒼白の兵士たちが、いつの間にか半円を描くようにこちらを取り囲んでいた。槍を構える手は震え、額には脂汗が滲んでいる。  だが――その視線は、一様に俺を素通りしていた。  全員が見ているのは、俺の背後。  美しく整備された王城の中庭、そのど真ん中に、我が物顔でどっしりと腰を据える、巨大な仔竜の姿。  (……だよな。そりゃ、そうなるよな……)  ついさっきまで山奥にいたはずの「災害クラスの猛獣」が、何の前触れもなく王城の中庭に着陸していれば――こうなるのも無理はない。  「き、君! 治癒魔術士団のユーマ君じゃないか!」  兵士の一人が俺に気づき、裏返った声を上げた。それを合図に、周囲の兵士たちが一斉にざわめき出す。よく見れば、処置室のバイトで顔を合わせる、見慣れた面々だった。  「ユーマ君……これは一体、どういうことなんだ……?」  困惑と怯えがないまぜになった視線が、俺と、その背後を行き来する。  (それはむしろ、俺のほうが知りたい)  俺は乾いた息をひとつ吐き、どうにか笑顔を作った。  「はあ……いや、その……。俺、さっきまで魔法学院にいたはずなんですけど。気づいたら、こいつにお持ち帰りされてまして……あはは」  自分でも分かるほど、笑い声は引きつっていた。  ――と、その場の空気をまるごと粉砕するような、場違いにもほどがある能天気な声が、中庭に響き渡る。  「ルギちゃ〜〜ん! 俺っちに会いたくて戻ってきてくれたのか〜〜い!!」  兵士たちの列を割るように、一人の男が満面の笑みで駆け寄ってくる。  「ロ、ロイドさん……!」  ざわめく兵士たちなど目に入っていないかのように、ロイドさんは迷いなく仔竜に抱きついた。そして、岩のように硬く、ざらついた頬に、自分の顔をぐりぐりと擦り寄せる。  「よ〜しよしよしよし、寂しかったんだねぇ〜〜!」  (前世の記憶にある、動物を愛しすぎた北海道に王国がある伝説の老紳士か……!?)  次の瞬間。  仔竜が、無数のギザギザの歯を覗かせた大きな顎をガバリと開け――  バクリ、とロイドさんの頭を丸ごと咥え込んだ。  「うわっ!? ロ、ロイドさぁぁぁん!?」  首から上が完全に消失した光景に、思わず悲鳴が漏れる。  だが次の瞬間、竜の口の中から、妙に落ち着いた声が響いた。  「うん、大丈夫大丈夫。これ、いつものルギちゃんの甘噛みだから」  「いや血! 首元から血がダラダラ流れてますけど!? 本当に甘噛みで合ってます!?」  俺の絶叫とは裏腹に、ロイドさんはどこ吹く風だ。  兵士たちはさらに顔色を失い、武器を下ろすことも構えることもできず、ただ立ち尽くしている。  その視線はもはや「竜が怖い」というより――  「こいつ(ロイド)に関わりたくない」と、はっきり語っていた。  (……この人、相変わらず頭のネジが全部飛んでるな……)  そして、そんな人間たちの混乱などお構いなしに。  仔竜は口の中に「お気に入りのおもちゃ」を含んだまま、満足そうにゴロゴロと喉を鳴らすのだった。  ***  結局、何度山に還してもブーメランのように戻ってくるだろう――という結論に至り、グローデン国王の豪胆な(あるいは若干投げやりな)判断によって、ルギちゃんはそのまま王城の中庭に住まうことになった。  当然、城内からは悲鳴に近い反発が上がり、王都の住民たちからも不安の声が噴出した。  「怖い」「人を襲うのでは?」「仲間を呼ばれたらどうする?」  ――どれも、ごくまっとうで、否定しようのない意見である。  だが、意外なことに暴動やデモは起きなかった。  それどころか、  「仔竜が来てから王都周辺の危険な魔物が激減した」  「街道で盗賊に襲われそうになった商人が助けられた(※ルギちゃんが通りがかっただけらしい)」  といった目撃情報が次々と報告され、いつの間にか仔竜は、「王都の守護竜(兼マスコット)」という、なんとも曖昧でありがたい立ち位置に収まりつつあった。  一応、念のためということで、冒険者ギルドには国から正式に「ルギドの仔竜(愛称ルギちゃん)・討伐禁止令」なる御触れが出されたのだが……。  この件に関して、俺は別の意味で安心していた。  (そもそも、ルギドを討伐できるイカれた戦力なんて、ガウルたち以外に存在しないんだよな……)  禁止されようがされまいが、物理的に「倒せない」のだから、心配のしようがない。  そう考えると――。  この国で、今いちばん安全な立場にいる存在は。  他でもない、あの中庭で昼寝している仔竜なのかもしれなかった。

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