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第3話
携帯用水晶の中で、赤茶色の長い髪を編んで一つにまとめた女性が揺らめいている。その表情は隙がなく、きっちり整えられた眉も相まって、見る者に緊張感を与える。
「第一回、定時報告を」
「はっ!本日、監査対象であるラブ・ウェルシア氏に接触。こちらの身分の証明と、監査内容の説明を行いました。同氏は……監査に協力的な態度であると感じます」
リュートは水晶に向かって敬礼し、厳密に言えば、かつて魔術学園の先輩で、今は彼の上司である『アイーダ・ショウカワ』に向けてだが、今しがたの出来事を簡潔に報告した。
「そうか。ご苦労だった。引き続き、気を引き締めて任務にあたってくれ」
「はっ!失礼します」
一拍おいて、アイーダの表情が和らぐ。
「……で?どうだったかね、久しぶりの再会は」
つられてリュートも脱力し、リラックスした様子で答える。
「いや~学生のころの面影無し!いけ好かないヤローになってましたよ。あ、容姿はあまり変わってません」
「絶対お前のせいだ!ああっ、私のかわいいラブたん……」
「俺なんて敵視されまくり、つらい!あ、少々気になる事が」
魔術師が、自分では対処しきれない過度なストレスにさらされると、防衛本能として無意識のうちに、肉体と精神の結びつきを希薄にする。肉体のダメージが精神に影響し、魔術を使えなくなるのを防ぐためだ。この現象を『分離』という。多くは一過性のもので、十分に療養すれば自然と元に戻るのだが、稀に、結びつきが修復不能になり、そのまま完全に離れてしまう事がある。その場合は、専門の医療機関で早めに治療を受ける必要があるのだが、ラブは痛みを感じていたし、自分の症状を自覚もしているので緊急性はないだろう。問題があったのは、リュートの対応の方だった。
「幻覚魔法を使った?国家魔術師は丁重に扱えと言ったはずだが」
背筋の凍るような怒りを含んだ低い声が、リュートを非難する。水晶越しにでも伝わる威圧に、「さすが、この若さで国家組織の上層部に上り詰めただけはあるな」などと、贔屓目なしに感心してしまう。
「身体と精神の繋がりがイカレてるんだ、彼にとっては、大剣で貫かれたぐらいの感覚に変換されたと思うよ」
「アイスブレーキングのつもりでして。学園の頃を思い出してもらおうと……『分離』なんて予測できないですよ!」
リュートは、自分ばかりが責められているようで納得がいかなかった。そもそも、ラブの現状についての事前資料はほぼ無かったし、この監査の発端が匿名の告発だったのだが、いまだ差出人が誰なのかは掴めていない。そんな不安要素の多い任務を文句も言わず引き受けた誠意をまずは評価してもらいたいものだ。
「馬鹿者!いや待てよ……この監査が終わったら、部下の非礼を詫びるために私が赴こう。ラブたんに会える口実がやっと出来たぞっ!ついでにバカンスだ!」
自分に対する時とは真逆の、まるで恋する乙女のような表情を見せる上司に、リュートの不満は募るばかりだ。
「言っときますが、アナタ、学生時代から嫌われてますからね。ラブに」
「あれは、照れているのだよ。まあいい。明日からもよろしく!」
そう言って一方的に通信を切られた。もう報告も済んでいたので不具合はないのだが、なぜかもやもやするのは、学園に居た頃から振り回された、自分が不利になるときれいに逃げてしまう彼女の特技に対してか、それとも今日の己の立ち振る舞いへの反省なのか。ただ一つ、リュートが自信を持って言えることがあるとするならば、この言葉だ。
「はぁー。出だし最悪じゃん」
ラブはとても気分が良かった。それは、無意識に鼻歌を歌ってしまう程だ。
「ご機嫌だな。ニャ」
「わかるー?」
足元に居た猫を抱き上げ、顔をすり寄せてから、作業台に乗せる。
「あさってマグロが食べられるからか?」
「違うよ、見てこれ!」
ラブがずいと差し出してきたシャーレには、寒天培地の上に赤い色で模様が描かれていた。細い線で繊細に描き出された模様は、美しい蝶にも見えるし、ただの左右対称の幾何学模様にも見える。
「どのタイプにも分類されない、新しいパターンだぞ!」
目に宿る光をギラギラさせながら、鼻息荒く話す主に、猫はうんざりする。魔術師というものは誰でも、自分の庭の事になるとこうも解かりやすく、純粋で鬱陶しい程の熱量を持つのだろうか。
「これ、あの監査の人の血?いつの間に……」
「はぁ……早くサンプルが欲しいなー」
猫の言葉はもう耳に入らず、うっとりとした表情で虚空を見つめ、そのままどこかへ行ってしまったように動かなくなる。そんなラブの様子に、猫は「またか」と、ため息を吐く。猫はラブの研究にこれっぽっちも興味はない。けれど、雨風をしのげる寝床があり、毎日ごはんが食べられる生活を続けるために、主とずっと一緒に居られるために、自分のできることを一生懸命するだけだ、と、自分自身の確かな意思を確認した。そして、なんだか少し、照れくさくなる。
「……どうでもいいけど、マグロ食べてからニャ」
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