23 / 35
第23話
今、そんな余裕はないが、座学の授業を真面目に受けてきた自分を褒めてやりたい、とリュートは思った。
作業台の上に広げられている魔法陣に、見覚えがあった。
『禁術』に関する指南書の、端の方に申し訳程度に書かれていた。型自体は古く、もう何百年も前に研究されていたもので、それを完成させるには、確かな知識と相当高度な技術が必要との事だった。ところが、見たところ、完璧に構成されている。
あとは、その魔法陣に数滴(正確には5ミリリットル以上)血を吸わせて発動すれば、血の
持ち主は即刻死に至る。
ラブは、イェンチのラボで、自分の手首にナイフを宛がっていた。
「何してんだ、お前!」
リュートがラブの手からナイフを叩き落とす。カラン、と音を立てて足元に落ちた。そのままナイフを蹴って床を滑らせ、遠ざける。
ラブは、リュートがそこに居ないかのようにただ一点、進行方向を見つめ、ゆっくりナイフを拾いに行く。リュートはラブの前に回り込んで行く手を遮った。尚も無視して進むラブを説得しようにも、先ほどから全く目が合わない。仕方なく、両方の手首を掴んで壁の方へ追いやる。
リュートに自由を奪われたラブは、最初こそ軽い抵抗を見せたが、全く効果が得られないため観念してリュートを睨む。リュートは出来る限りの落ち着いたトーンでラブに語りかけた。
「ラブ、一緒にイェンチ博士を助けるぞ。協力して欲しい」
「無理ですよ。先生は僕に『さよなら』と言ったんだ。離してください」
「振り出しに戻った」と、リュートは心が折れそうになる。ラブは、監査のために訪ねた時、つまりは、5年ぶりに再会した時と同じ目をしていた。一度逃げ出した自分には、守る資格など無いのだろうか。
リュートの力が緩んだ隙を見て、ラブが逃れようとする。リュートが慌てて力を入れ直したため、壁に強く押し付ける形になった。ラブは衝撃に顔を歪める。
「あ……ごめん、ラブ。でも、お前が死んでも意味ないだろう?」
「意味がない」その言葉だけがラブの思考を支配する。一瞬で頭に血が上り、自分でも抑制できず、パニックを起こして暴れ出した。
「お前に何がわかるんだよ!」
理性を手放し泣き叫ぶラブは、リュートの想像以上の力で暴れたため、抑える手に必然的に力が入る。そのことがさらにラブを刺激し、悪循環に陥った。
「大丈夫だ、博士は助かる!」
「出鱈目言うな!先生が大人しく捕まったんだぞ!?何にもできないってことだろ!」
腕力は絶対敵わないにも拘らず、手を大きく振って無理やり外そうとするので、壁にぶつけたり、リュートの爪がくい込んだりして、ラブの手に傷がついていく。見かねたリュートはラブをふわりと抱きしめた。ラブを安心させてやれない自分の無能さと、全く聞く耳持たないラブにも怒りを覚える。
「離せ!どうせまた僕を拒絶するんだろ!んんっ……」
リュートは噛みつくようにラブの口を塞ぎ、強引に舌をねじ込む。ラブが、訳が分からず怯んだ瞬間を狙って、更に深く咥内を犯した。自分が何をされているのか理解できたラブが抵抗を始めるも、お構いなしに追い詰められ、リュートのペースに飲まれていった。
壁を伝ってずるずると下へ落ちて行くラブを支える形で、リュートも一緒に床に座り込んだ。酸素が足りず肩で息をするラブを抱きしめて、耳元で問う。
「……俺じゃだめかよ」
「お前、エゲツないな」
2人しかいないはずの部屋に、第三者の声が乱入する。リュートは驚き辺りを見渡すも、見つけたのは、いつからそこに居たのかわからない、ラブの使い魔である黒い猫だった。まさかとは思ったが、口に出さずにはいられない。
「猫……が、しゃべったのか?」
「は?猫が喋るわけないだろ。つまりそういう事。それよりラブはいいのか?……にゃー」
どういう事なのか、さっぱりわからなかったが、素直に腕の中のラブを見る。呼吸は整っていたが、がくりと俯いて、名前を呼んで揺すっても反応がない。
「おしゃれに言うとな、イェンチの魔法が解けたんだ。で、記憶が混乱してる。暫くはそうやってたまにフリーズ……あっ」
リュートは、猫の感嘆詞を聞くのと同時に、腕に痛みを感じた。その原因は、ラブの手に握られた、注射器によるものだった。
ドクン、と心臓が跳ね上がり、身体中の血液が熱を帯びる。「この感覚は……」以前にも似たようなことがあったのをリュートは思い出した。
「ガチガチくん……?」
「覚えてたんですね、先輩。でも、少し違います。これは『ガチガチくん1号』です」
リュートは、今自分の体内に流れている薬についてラブが説明している間、頭が何かに支配されそうになるのを必死に堪えていた。確かに、リュートが一度飲まされた物とは明らかに違う。性欲などではなく、もっと別の、原始的ともいえる欲がリュートを満たしていく。
「これ、失敗作なんです。危険だから全部処分したつもりだったんですが、先生のラボに残ってて。理論は完璧だったはずなのに、僕、すごく悔しくて。でも、泣いてたら先生が励ましてくれた。懐かしいなー」
リュートは、自分ではない他人の事を思い浮かべて微笑むラブが憎くて仕方がなかった。
「先生に会いたい」
その言葉が引き金となった。リュートはラブの胸ぐらをつかみ、無理やり立たせて近くの作業台へ背中から叩きつける。ラブの肩に下敷きになっている、魔法陣が視界に入る。「ラブが死ぬのを止めていたはずなのに、何で自分は殺そうとしているのだろうか」違和感には気付いているのに、身体と理性をコントロールできない。
「相手に抱く好意が大きい程、攻撃性が高まってしまうんだ。マゾヒストには売れるかもしれないけど、そんなに需要がないしリスクの方が大きいから、失敗作」
ラブは、リュートの殺意がこもった目を、怖気づくどころか愛おしそうに覗き込む。リュートの両手がラブの喉へ伸び、躊躇いがちにゆっくりと力が込められる。
「いいですよ、先輩。こんな世界、もういらない……」
ラブは一切抵抗せず、自分の手をリュートの手に重ねあわせ、目を閉じて静かにその時を待った。
「おいおいおい、耐えろよ?守るんだろ?」
黒猫が、居ても立っても居られない様子で蛇行しながら近づき、リュートに確認する。
「わかっ……て……るっ、て!」
そうは言ったものの、この衝動を抑制する方法が思い浮かばない。ラブの細い首に、リュートの指がくい込んでいく。とても苦しそうな顔をしているラブを見て、黒猫が叫んだ。
「ふざけるな!根性見せろ!」
一瞬、猫の尖った歯がちらりと見えた。良いヒントを得たリュートは、食いちぎる勢いで自らの腕に噛みついた。その勢いは、猫が「うわぁ……超クールだ」と、顔を引きつらせる程だった。痛みと引き換えに、頭の中がすっきりと晴れていく。リュートの腕からどくどくと流れた血が、魔法陣に滴る。
ラブは、急に確保できた気道に肺がついていけず、咳き込む。リュートは大きなため息とともに後ろへ倒れ、盛大に床に尻をぶつけた。
「げほっ……何でだ……そんな事されても、信じられない」
リュートの腕を見たラブが、顔をしかめる。まるで水溜りのように、歯型でくぼんだ部分に血が溜まって流れ出ていた。リュートは、負傷していない方の手で作業台の魔法陣を指さす。
「それ、ラブが預かってくれ。今はこれくらいしかできない」
ラブはリュートに命を預けられた。不快な物を見るように、魔法陣を見つめていたラブだったが、突然、糸の切れた操り人形みたいに崩れ落ちる。
「ラブ!?」
「平気だ。ショートしちゃったんだなきっと。じきに記憶を同期できる。にゃー」
黒猫が、この場にそぐわない愉快な足取りでラブの方へ歩いて行った。
リュートは床を這ってラブに近づき、丁寧に抱きかかえてベッドへ運ぶ。猫が毛布の端を噛んで引っ張り、器用にラブにかけた。
「同期が終わったら俺、嫌われるかも」
喋る猫を素直に受け入れる時点で、自分が相当弱っているのがわかる。情けなく、猫に泣き言をこぼすも、一掃された。
「知るか。腕、包帯あるから巻いて行ったら?あと、そこの棚にある羊皮紙の束、多分お前ら宛だから持っていって」
300枚はゆうに超えるであろう、文字がびっしりと敷き詰められた羊皮紙が綺麗に束ねられていた。一番上の一枚を流し読むと、各部署の人間関係や抱えている課題、今必要な備品まで事細かに書かれている。
「これは?」
「ここに来てから集めた情報だってさ。ラブは収集と料理が得意だからね、にゃー」
猫が胸を張って誇らしげに答える。真っ黒な毛は艶やかで、ふわふわして暖かそうだ。リュートはこの羊皮紙の価値に、興奮に似た恐怖を感じていた。これがあれば、浮遊票をコントロール出来るかもしれない。1枚、2枚と読み進めると、リュートの中で、蜘蛛の糸ほどだった希望の光が次第に太くなっていく。一刻も早くアイーダの元へ行き、この光を届けたい。
「やる事あるなら早く行け。ラブは大丈夫だ」
ともだちにシェアしよう!

