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第25話

「おはよう、ラブ。気分はどう?」  サイドテーブルの上にちょこんと座った猫が、覗き込んできた。 「んー……頭が割れそう……」  手で押さえようとしたが、思うように動かない。関節が固まってしまっているみたいだ。少し無理をすると、鈍い痛みを伴ってパキパキと骨が鳴る。 「いたたた……僕、どれくらい寝てたの?」 「5日間だ。正確に言うと、そのうちの3日は寝てたと言うより、起きてたけど覚醒してなかったんだけど。腹減っただろ?今持って来る」  最初は猫が何を言っているのかさっぱり分からなかったが、5日経ったにも拘らず、汚れていない衣服や身体を確認して理解できた。  しばらくすると猫がカゴをくわえて戻ってきた。カゴの中には、パンとステンレス製のジャーが入っていて、ジャーのふたを開けると、温かいスープが詰められていた。 「リュートが用意してくれたんだ。なかなかイケるぜ」  猫は、ちゃっかり自分用に作ってもらったスープを頬張りながら答えた。ラブも習って一口すすると、優しい味が染みわたる。 「先輩が面倒見てくれたんだ……」  自分がした愚かな選択が、イェンチのラボで起こったことが、まるで何年も前の出来事みたいに思えた。だから、思い出しても冷静でいられた。 「そう。ご飯を食べさせて、ふらふら歩いて危ないから便所に行くにも付き添って、身体を拭いたり、あとはパンツを」 「ああー!!」  ラブは猫をひょいと持ち上げて、言葉を遮る。 「なあ、もう死なない?」  猫の、黄金色の目がラブを真っ直ぐ見つめる。 「……うん、ごめん。お前も居るんだ、死ねるはずなかった」  額同士をこつんとぶつけると、「まったく、最初から気付いて欲しかったね」といつもの調子で軽口をたたく。ラブの腕からするりと抜けて、今度は、小さな水晶を運んできた。通信用ではなく、記録用の物だった。 「イェンチに、ラブが落ち着いたら見せるように言われてたんだ」  ラブが水晶に魔力を流すと、あらかじめ用意されていたイェンチの姿が、ノイズ交じりに映し出される。 『やあ、ラブ。これを見ているという事は、大分落ち着いてきたかな?』 「先生……」  水晶を通しても伝わる、イェンチの温かさに、涙が出そうになった。 『急にいなくなってごめんね?ちょっとワケあって、多分今私は、庁舎の地下に居ると思う』  古い噂の域を出ないが、庁舎には地下室が存在し、一部の人間しか出入りを許されていない研究施設があるらしい。その架空の存在が、イェンチの言葉で真実となった。どうやらイェンチは、投獄されたのではないようだ。 「そしてしばらくは外との接触を一切持てない。私と、その近辺への監視が厳しくなると思う。今から私が関わらされる事は、超重要機密事項だからねっ!」  『まあそのうち掻い潜るよっ!』と、イェンチが人差し指をピンと長たてて嬉しそうに言う。ラブも猫も、今まで生きてきた中でここまで軽い『超重要機密事項』を知らない。顔を見合わせ苦笑いする。 『ところでラブ、リュート君の事好きだよね?あれぇ?そんなこと急に言われてもわからないー!って顔してる~?』  正確にはラブは、「国が関わっているであろう案件も、弟子の色恋事情も、何の切替もせず同じ土俵であるように話すイェンチの事が分からない顔」をしていた。  けれど確かに、自分はリュートの事を本当はどう思っているのか、まだ整理できていないのも事実だった。 『リュート君はね、とても強くなったんだよ。君のために。だから、もう少し私はラブと一緒に居たかったけれど、譲ったんだ』  イェンチが自分の右のこめかみ辺りを指で押さえ『ずっと閉じ込めて、ごめんね?』と呟いた。  本当の記憶を取り戻したラブは、改めてリュートの5年を想う。卒業後は一切の連絡を絶っていた。それは、血を途絶えさせてしまうことや周りの偏見など、すべてを断ち切れるほどの力をつけるための期間だったのかもしれない。確かに、自分への誠実な気持ちがひしひしと伝わってきた。けれど、それを受け入れるのも、もう一度リュートを信じる事も、今のラブにはまだ難しい。その不安を見越したように、イェンチの言葉が続けられた。 『大丈夫、彼は頑張るから、それを見てあげて。そしたら、最後はラブが決めればいいんだよ。これからは偽りのない気持ちで向き合えるんだから』  その直後、赤子をあやすときのように、開いた手のひらを顔の横に持って来る。 『さてさて、シリアスな話は終わり!きっと、アイーダとリュート君が困っている頃だと思うから、ラブ、私の代わりに助けてあげて!そして必ず私を助けて~!じゃあ、またねっ!』  水晶からイェンチが消え、代わりに目を丸くするラブと猫が映った。「シリアス?何か知ってるのと随分違うんだけど」堪らず猫がツッコミを入れる。  イェンチが「またね」と言ってくれた。それはつまり、また会えるという事だ。それだけでこんなにあたたかい気持ちになれるなんて、ラブは知らなかった。それと同時に、大切な人がいなくなれば、死んでしまいたいほどに苦しくなる事も、初めて知った。  リュートの事をどう思っているのか。感情論では多分もう、答えは出ている。けれどラブは魔術師だ。面倒くさいことに、論理的に理解、若しくは納得のいく説明を聞く事できなければ、その答えを認められない。 「では、確かめに行きますか」  猫と、自分自身にそう声をかけ、ラブはリュートの元へ向かった。

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