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5.彼の部屋で

 忙しい彼は、なかなかパソコンを買う時間をとれなかったらしく、彼の家に誘われたのは、夏休みも半ばにさしかかった、八月の暑い日だった。  その前の週、僕は自身で最後と決めたコンクールを終えたところだった。  高校の最寄り駅で電車を降りて、待ち合わせの場所に近付くと、自転車にまたがった彼がこちらに手を降っていた。  夏休みの間も高校のピアノ室は利用できたから、授業がない分、いつもの月曜日に加えて週に一、二回は一緒に作業していたけれど、学校以外の場所で彼に会うのは初めてだった。  駅前の往来の中、私服の彼のもとに駆け寄っていくのは、なんだか照れくさかった。 「乗って」  と言われて、僕はためらいながらも自転車の荷台にまたがる。二人乗りなんて、何年ぶりだろうと思っていたら、 「行くよー」  さっさと自転車が動き出して、ちょっと焦った。  風は生温かったけれど、汗をかいた肌には心地いい。彼も二人乗りは久しぶりらしく、危なっかしい運転に二人でわーわー言いながら、自転車は五分ほどで目的地に到着した。  芸能事務所の寮なんて、行くのも、見るのも、もちろん初めてだ。いったいどんなところなんだろうと思っていたけれど、表からの外観は、一般的な新しい戸建て住宅とそう変わらないようだった。  違うのは、建物の奥行きが広そうなところと、表札や看板がないところだろうか。  彼は玄関の電子錠を解除すると、扉を開けて、 「どうぞ」  と僕を先に通してくれた。 「お邪魔しまーす…」  小さな声でそう言いながら、おずおずと中に入ると、玄関の段差や靴箱はなくて、すぐにリビングのような空間が広がっていた。  アイランドキッチン、広めのダイニングテーブル、ソファセット、大きなテレビなどが、まるでモデルルームのようにきれいに整えられている。おそらく入寮者同士が交流しながらくつろげるような共同のスペースなんだろう。  彼の同僚(と言うのかはわからないが)と出くわしたりしたらどうしよう、なんて思っていたけれど、今は誰もいないようだ。涼しい空気もあって、僕はひとまずほっと一息つく。  彼は壁のスイッチで玄関を施錠すると、 「俺の部屋はこっち」  と僕を促して奥に進んだ。キッチンの横の通路を彼の後に続いて進む。ガラス戸を抜けると、手前に階段、その奥に扉がいくつか並んでいて、どうやらそこが入寮者の個室のようだ。  彼の部屋は、一階の一番奥。彼は先に中に入って靴を脱ぐと、内開きのドアを押さえて待っていてくれた。僕はいそいそと靴を脱いでなるべくきれいにそろえ、彼の部屋に足を踏み入れた。  彼の性格なのか、今日のために片付けてくれたのか、部屋の中はきれいに整頓されていた。ベッドがあって、隅にデスクがあって、中央に丸いローテーブルと座椅子、あとはクローゼットがあるだけのシンプルで機能的な部屋は、シックな色味でまとめられていて、僕には大人っぽく見えた。 「そこ、座って」  彼は座椅子を僕に勧めると、冷蔵庫からミネラルウォーターのペットボトルと小さなビニール袋を持ってきてローテーブルに置き、自分は床にあぐらをかいて座った。 「甘いの、嫌いじゃない?」  言いながら、彼がビニール袋から取り出して僕の前に置いてくれたのは、コンビニで売っている一人用のロールケーキだった。 「…うん、大丈夫」  なんとなくコンビニスイーツと彼のイメージが噛み合わないし、僕自身もあまり縁がない。だから、彼が慣れた様子でロールケーキとスプーンの袋を開けて、 「これ、真ん中のソースが季節ごとに変わるから、つい買っちゃうんだよね」  なんて言って、嬉しそうにクリームを味わっているのを、ちょっと意外に思った。  彼の目が、「ん?」と言うようにこっちを見る。その視線を気にしながら、僕もクリームとスポンジをスプーンですくって口に運んでみる。 「…おいしい…」 「でしょ?」  思わず僕が呟くと、彼はしてやったりといった顔で笑った。その笑顔が子どもみたいで、僕も思わず笑った。  口の中のクリームと一緒に、緊張も解けて消えてしまったみたいだった。 (なんか、悔しいな…)  きっとこの笑顔には一生勝てないんだろうな、なんて、いつまで一緒にいられるかもわからないのに思いながら、僕は甘すぎないケーキの次の一口を味わった。  適当に雑談しながらロールケーキを食べ終えると、彼は手早くゴミをまとめてテーブルを片付け、部屋の隅のデスクからノートパソコンを持ってきた。言うなれば、今日のメインイベントだ。  彼曰く、初期設定と編曲用のソフトウェアのインストールはすませたのだが、いざ音声データを取り込もうとしたところ、そのファイルが画面に表示されないらしい。  彼に断ってパソコンを操作し、該当のファイルを確認する。どうやら、このソフトに対応していない形式で保存されているようだ。  音声データの形式を変換するための無料のソフトを検索して、インストールする。早速ファイルを変換し、再度試してみると、今度はちゃんと画面に表示されるようになった。  メインイベントは、あっけなく終わってしまった。 「…このパソコンで作業の続きでもする?」  僕のパソコンのデータはクラウド上にバックアップしてあるから、ネットさえつながっていれば、彼のパソコンからでも作業できる。  手持ち無沙汰が気まずくて、そう提案してみたのに、彼はそんなことは気にならないらしい。 「そうだ」と言ってクローゼットを開けると、中の棚から何かを取り出した。 「前に見せるって言ったから」  彼が手渡してくれたのは、映画のDVDだった。タイトルは知らなかったけれど、出演者の欄には、見覚えのある俳優さんの名前が書かれていて、その横に『相沢遥』の文字があった。  彼は僕の横に座ってパッケージの場面写真を指さし、 「これ、俺」  と言って、少しはにかんだように笑う。 「わかるって」  パッケージに写るきれいな少年は真剣な表情をしていて、いつもの彼とは印象が違って見えたけれど、たしかに同じ面影が感じられる。  まだ、小学生だろうか。 「…なんか、可愛いね」 「あー奏だって可愛いって言うじゃーん」  この間、自分で「可愛いから見て」と言ったくせに、と思ったけれど、彼の表情を見るにただの照れ隠しのようだ。 「そういうんじゃなくて、小さなあんたががんばってたんだろうなって思うと…」 「思うと?」 「なんだろ…ぎゅーってなる…」  周りの同年代の子どもと違うことをするのも、大人に囲まれて期待されるのも、楽しいばかりではない。中学生のころ、舞台の上で笑っていた彼の姿が、ふと頭をよぎる。きっと、いつだって、一生懸命、自分の役割を果たしてきたんだろう。  僕の言い方がおかしかったのか、彼はそれこそ芝居みたいに目をぱちくりさせて言う。 「そんなふうに言われたの、初めてだよ」 「ごめん、変なこと言ったかな」  つい自分を重ねて、踏み込みすぎてしまったのかもしれない。僕はとっさに謝ったけれど、彼は「違う」と首を横に振った。 「だいたいみんな、すごいねとか、いいねとか、言うからさ」  クローゼットの中には、彼が出演したであろう作品のDVDや、台本と思しき冊子などがずらりと並んでいる。僕の視線に気づいたのか、彼はそっとクローゼットの扉を閉めて苦笑する。 「別にすごくもないし、いいことばっかでもないのにね」  その声は僕の胸に優しく響いた。 「むしろ、俺よりすごい人なんていくらでもいるから、なるべくそっちを見るようにしてる。そうしないと、なんか、自分がだめになっちゃいそうで」  僕に声をかけてくれた日、彼は同世代のアーティストを発掘するのが好きだと話していた。もちろん彼が言うように好きでそうしているのだろうが、それだけではなく、そんな意味もあったのかもしれないな、と僕は納得する。  きっと、彼はそうやって自分を律しているのだろう。今の自分や周囲に甘えたり満足したりせず、自分を見失わないでまっすぐに前を見られるように。  彼は否定するけれど、それはとても『すごい』ことのように僕には思えた。  小さなころから働いているとか、高校生なのに世間に顔と才能が知られているとか、もちろん出演作のDVDの数とか、そういうことではなくて…。  何というか、うまく言えないけれど、その裏側にある彼の思いが彼を形作って、今の彼がいるんだと思うと、その強さに僕は憧れを抱いた。 「…悠人はだめになんかならないよ」 「そう? …でも、奏が言うなら、そうかな」 「僕が?」 「うん」  ただ頷いた彼の笑顔でまっすぐに僕を見ていて、でも僕はまっすぐに彼を見られなくて、静かにうつむいた。 (…僕は…)  僕は、これからどうしたいんだろう。どうあるべきなんだろう。  クラシックピアノをやめて、ただ一度きりの高校三年生の夏休みは過ぎていく。今、彼と目指す文化祭は、きっと瞬く間に過去になっていく。そのあと、すぐに大学受験の波に呑まれて、春には、もう高校生ではなくなって…。  そして、自分はどうなりたいんだろう。  彼の目は、優しく、強く、僕を見つめている。  その目を通して、僕は自分を見つめ直しているように感じていた。  ピアノは、まだものごころもつかないころ、両親の勧めで始めた。練習して上達すると嬉しかったし、コンクールで入賞すると、自分の努力が認めてもらえたようで、達成感もあった。  けれど、中学生になったくらいのころだっただろうか。次第にそれに虚しさを感じるようにもなっていた。  僕以外にもピアノが上手な人はたくさんいたし、僕よりも情熱的にただピアノに向き合っている人を前にして、僕は自分がなぜコンクールに出場するのか、わからなくなっていた。  そのころには、自分が同年代の人間と比べて恋愛や性的なことに興味がないらしい、ということも感じ始めていた。けれど、それはとてもあいまいな感覚で、誰かに伝えることも、どうすることもできなくて、ただ漠然とした違和感を抱えながらやり過ごすしかなかった。  プロのピアニストになりたいわけではなかった。ピアノは、人と話したり、人に気持ちを伝えたりするのが得意ではない僕にとって、ときに僕の言葉であり、話し相手だった。  だから、高校生になって、僕がピアノで音楽を作り始めたのは、自分の言葉では外に出せない何かを、ピアノや音楽が物語ってくれると、受け止めてくれると感じたからなのかもしれない。  幼いころから続けてきたクラシックピアノに意味を見出せなくなった虚しさ。周りの人間と自分の間に感じる見えない壁。自分は大多数にはなれないとわかってきた寂しさ、苦しさ、怖さ。  自分の中だけでは消化しきれないそんな感情を、音楽はすべて包み込んでくれた。  ただ自分のために、こんな自分がここにいるんだという、それだけのために、僕は音楽を作っていた。それだけでよかった。  きっと、彼に出会うまでは。  彼に出会って、僕は少し変わったような気がする。  彼に僕を見つけてもらって、彼に僕の音楽を好きだと言ってもらえて、そして、彼と二人で音楽をするようになって、僕の音楽は僕だけのものではなくなった。  僕のための音楽ではなく、誰かのための音楽を作りたい。僕の音楽を誰かに聞いてもらって、それが誰かの助けになったらいい。誰かを、包み込んであげられたらいい。  彼と紡ぐ音楽が、そして彼の存在が、今、僕を包み込んでくれるように。 (…それが、僕の夢なのかもしれない…)  ゆっくりと顔を上げると、彼の瞳の奥には、僕が映っている。頼りなく、小さな、彼の中の自分を見て、僕は思う。  強くなりたい。目の前にいる、彼のように。  まだ手は届かないかもしれないけれど、いつ追いつけるのかもわからないけれど。  それでも、今、できることをしたい。  ただの独りよがりかもしれないけど、それでも、彼に見ていてほしい。わかっていてほしい。 「…パソコン、借りてもいい?」  それは、最後のコンクールにしようと決めたときから考えていたことだった。  彼にとっては、何でもないことかもしれないけれど、僕にとっては、彼の前でそうすることに意味があるような気がした。 「いいけど、何すんの?」  その質問には答えずに、僕は彼のパソコンを操作して、YouTubeにログインし、僕のチャンネルを開いた。  その説明欄には、僕が二年前に記載したまま、『都内在住の高校生の自作曲を公開』とだけ書かれてある。  編集ボタンをクリックして、それを次のように書き換えた。 『伊東奏。都内在住の高校生。プロの作曲家・編曲家・ピアノ演奏家を目指しています。』  僕は、臆病で、自信もない。自分の名前を出して、自分の気持ちを他人に見せて、批判されるのが怖い。自分に才能なんてない、無力で無能だと、そう卑下しているくせに、他人にそう言われることを恐れている。  だから、匿名という殻にこもっていた。他人の目にさらされないように、傷付かないように。  だけど、それでは、もう足りない。自己満足にもならない。  自分を認めてくれる人がここにいる。自信なんて今もないけれど、彼の言葉に嘘がないことは信じられる。  自分を信じることは、彼を信じることだ。彼が認めてくれた自分を、自分も認めてあげたい。  僕はもう一度その文章を読み直してから、 「僕の覚悟」  公開ボタンをクリックした。  彼はその画面をじっと見つめて、そして何も言わずに僕の顔を見た。僕にとっては大きな決断だったけれど、パソコン上の操作はあまりにあっけなくて、僕はちょっと恥ずかしくなって苦笑した。 「覚悟ってほどでもないか」  彼は首を横に振った。 「ううん、かっこいい」  彼の優しい笑顔も、その言葉も、やっぱり今の僕には眩しかった。  けれど、今度はもう目を逸らさずにいられた。  そのあと、僕から見たいと言って、さっきの映画のDVDを一緒に見た。  始まってしばらくは、すぐ隣に座っている彼を意識してしまっていたけれど、次第に物語に引き込まれていった。  ラスト近く、少年が涙を流すシーンが美しくて、ちょっと泣きそうになった。  物語は、ハッピーエンドだった。  テレビ画面の中の小さな彼と、記憶の中の小さな自分が、報われたように思えた。

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