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8.文化祭の日
当日、僕たちは十時に校門で待ち合わせて、校内を見て回った。
食べ歩きをしたり、演劇科クラスの舞台に泣かされたり、お化け屋敷にびびったりして、高校最後の文化祭を楽しんだ。
彼と一緒だったから、他校生と思しき知らない女の子に話しかけられたり、写真を撮られそうになったりはしたけれど、大きな騒ぎになることはなく、意外と平和に午前中をすごした。
十二時五十分ごろ、自分たちの出番の三十分くらい前に、僕たちは校舎からの渡り廊下を抜けて、ホールの建物に入った。
ホールは校舎と別棟になっているが、一階と二階にある出入り口は、それぞれ渡り廊下で南校舎とつながっている。客席の扉は二階、出演者用の楽屋口や搬入口は一階にあり、文化祭の間は建物内の階段も渡り廊下も一方通行になっていて、二階から入って一階から出る、という人の流れができあがっていた。
つまり、楽屋口に行くには、どうせ客席の扉の前を通らなければならず、僕たちは好奇心に勝てずに、その扉をそっと開けて、客席の様子を伺った。
僕たちの前の枠は十三時から、たしか演劇科の三人芝居だ。前評判どおり、客席はほとんど満員になっている。主に校内発表会で利用される小さなホールだったけれど、それでも二百席くらいはあったはずだ。
そろそろ演目が始まりそうだったので、僕たちはそっと客席から出て、一方通行の表示にしたがって建物内の階段を降り、今度は出演者用の入り口の前に立った。扉の中に待機用の部屋があるが、入室したら演目中は私語厳禁になるので、自然とここで立ち話になった。
「うわー、あんなにたくさんの人の前で歌うのかー」
彼は今更人前で歌うことを実感したみたいに小声でわなないた。
「あんた、いつももっと大きな舞台に立ってるでしょ」
「なんか違うんだよー」
その感覚は僕にもわかった。人前でピアノを弾くことには慣れていたが、やはりこの文化祭の独特の雰囲気はコンクールとは違っていたし、そもそも自作曲を披露するのは生まれて初めてだ。彼にしても、仕事柄、人前には慣れているはずだったし、舞台の仕事ではこのホールの何倍ものキャパシティの劇場で公演することもあるのに、やっぱり事情が異なるらしい。
しばらくそこでやきもきしていたが、十分前には待機室にいるように言われていたので、時計を見てその時間に扉を開けた。
奥からはまだ前の演目の声が聞こえる。しばらくして、大きな拍手が聞こえると、実行委員会の人が中から出てきて、「準備してください」と僕たちを呼んだ。
前の演者たちが、ほっとしたような笑顔を満面に浮かべて出てくるのと入れ替わりで、おそらく緊張の面持ちであろう僕たちはいそいそと準備に取り掛かる。
実行委員会がピアノが移動してくれている間に、パソコンをアンプに、アンプをスピーカーに接続して、テストモードでチェック。リハーサルどおり、問題はなさそうだ。
ピアノを演奏する片手間でパソコンを操作するのも恰好がつかないので、パソコンからの音出しは、実行委員会の舞台音響の担当者にお願いしていた。
実行委員会の案内係の人に促されて、僕はステージ上のグランドピアノの椅子に着席し、彼はステージの真ん中でマイクを持つ。ホールの幕は防音の性能が高いから、実際は聞こえないけれど、その向こうに観客のざわめきを感じて、いよいよだ、と僕は神経を集中させた。
彼が僕の顔を見て、僕が頷き返す。
手筈どおり、彼が手を挙げて実行委員会に合図を送り、僕たちの演目がスタートした。
まずは、スピーカーから楽器音。幕が開き始め、そこに僕のピアノ演奏をかさねる。観客が相沢遥の姿を認識して騒ぎ始めたけれど、前奏が終わって彼が歌い始めると、その声は静かになっていった。
一曲目、夏休み期間に作成した、僕たちにしてはアップテンポの楽曲だ。夏を感じさせる爽やかな歌詞とメロディの中に、高校三年生の夏という一瞬で終わってしまう季節の切なさを含んだイメージを目指した。
演奏が終わって、僕がピアノから手を上げると、会場は拍手とざわめきに包まれた。彼が出演しているからだろう、スマホで知り合いに連絡しているらしい姿も見える。
結構前の方に僕の両親の姿もあって、照れくさくてさっと目をそらしたけれど、やっぱりちょっと嬉しかった。
予定どおり、ここで彼が挨拶をする。
「えー、拍手、ありがとうございます。三年音楽科の相沢悠人と伊東奏です」
僕はマイクを持っていないので、彼が代わりに自己紹介してくれることになっていた。文化祭のノリだろう、客席からは「遥ー!」という声が聞こえた。
「僕たちはこの数ヶ月、この日のために一緒に音楽を作ってきました。今日は三曲、演奏させていただくんですが、すべて僕たちで作詞、作曲、編曲しました」
再び、会場が拍手に包まれる。ここまでの内容は予定どおりだったが、
「もし、もう一回聞きたいって思ってくれたら、伊東奏のYouTubeチャンネルを検索してみてください」
そうさらりと言った彼の言葉は、完全に彼のアドリブで、僕はぎょっとして彼の方をにらんだ。彼もちらっと僕の方を見たような気がしたけれど、彼はしれっと何事もなかったようにたんたんと続けた。
「それでは、あと二曲、続けて演奏します。聞いてください」
僕の心中なんか無視して、彼がさっさと曲にふってしまったので、僕はどうにか気を取り直して演奏に集中する。
二曲目は、歌とピアノ、同時の入りだ。失敗できない。僕たちはステージ上でアイコンタクトをとり、呼吸を合わせた。
この日のために作った楽曲の内、最後に完成した作品だ。彼の作詞に僕が曲を付けた。彼の詞をみて、僕は楽曲のスタートをこの形にしたいと思った。
イヤーモニターのような設備もない文化祭のステージで生演奏するには、ちょっと無謀かなとも思ったが、それは杞憂に終わった。どうしてなのかはわからないが、練習でも、録音のための演奏でも、不思議とこのタイミングがずれたことはない。
歌とピアノだけのシンプルな曲。彼の歌声と僕のピアノが一つになってホール内に響く。
きっと、彼の等身大の詞は、ここで聞いてくれている人たちに届くような気がした。
三曲目、ここで演奏する最後の楽曲として、僕たちは二人で初めて試行錯誤しながら共作に取り組んだ楽曲を選んだ。
ピアノだけの前奏に、彼の声がそっと重なる。彼が僕に声をかけてくれた、あのときの桜の景色がよみがえる。
初めてピアノ室で待ち合わせをした日、僕は少し緊張していた。最初は、彼の名前すら自然に呼べなかった。
お互いの中にあるメロディや言葉のイメージを伝え合い、意見をすり合わせて、よりよい作品になることを目指す作業は、お互いの脳内をすべて共有するような感覚で、その独特な満足感は初めて感じるものだった。
ピアノを弾きながら、何気ない話をしたこと。学校からの道を彼と歩いたこと。僕の家に来てもらって、一緒に楽曲をアレンジしたこと。彼の家で、彼の強さを知り、僕の夢を見つけたこと。その第一歩を踏み出せたこと。
この時間が終わってほしくないと、最後の楽曲を演奏しているこのたった今も思っていること。
彼の歌を聞きながら、その声に僕のピアノを重ねながら、僕は彼と多くの時間を過ごしたこの半年間を思った。
あっという間の十五分だった。
すべての楽曲の演奏を終えて、僕はピアノ椅子から立ち上がり、彼とタイミングをあわせてともに客席に一礼した。小さなホールが大きな拍手と歓声に包まれて、彼と僕は顔を見合わせて笑った。
その笑顔を見て、彼に声をかけてもらって、彼の願いを叶えられてよかった、と改めて思った。
思いながら、僕はこの胸の痛みをどうしたらいいのか、答えを見つけらずにいた。
待機室を抜けて、出演者用の出入り口から外に出ると、ちょっとした人だかりになっていた。
おそらく客席にいた人から電話やLINEで連絡をもらって、集まってきたんだろう。実行委員会の人たちが苦労してその場を制していた。
さすが相沢遥、と僕がのんびり驚いていたら、突然、
「逃げよう」
そう言って、彼は僕の手をとって走り出した。
「え、ちょっと…!」
ホールは学校の敷地内、西側の奥にある。すぐ北側にカフェテリアがあるが、今日はその周辺は閉鎖されていて、僕たちがいけるのは、このまま南校舎沿いにまっすぐ進むか、中庭をぐるりと回っていくかになる。
中庭では、いくつかの出店が開かれていて、飲食スペース兼休憩所も設置されているから、結構な人だったが、彼はその間を僕の手を引きながら上手にすり抜けていった。
「あ、相沢遥だ!」
「相沢、ホールで歌ってたって…」
かけられる声をすべて無視して、中庭を走り抜け、北校舎の向こうに出ると、そこには来校者用に仮設された駐輪場があって、その端に見覚えのある彼の自転車がおいてあった。
「そんな、走らなくても…」
ふだんあまり運動しない僕は、少し息を乱しながら、やっと彼に文句を言う。
「ごめん、一回やってみたかったんだ。ドラマみたいでしょ」
彼はそう言っていたずらっぽく笑って見せた。
駐輪場から自転車を引っ張り出して、あの夏の日みたいに僕に後ろに乗るように促した。
「どこ、行くの?」
「…奏の行きたいところ」
そう言われて、荷台にまたがりながら僕は考えてみたが、特に何も出てこない。のんびりしていたら、北校舎の通路の方から女の子の「見つけた!」という声がして、僕たちはあわてて自転車に乗って裏門を抜け、ひとまず学校をあとにした。
「なんか、おかしいね」
あてもなくふらふらと走る自転車の後ろで僕は笑った。
「お客さん、どこに行きます?」
と言って、彼も笑った。
手をつないで校内を走り抜けて、自転車に二人乗りして行くところと言えば、
「そうだなぁ、河原とか?」
彼に倣ってドラマのようなシチュエーションを思い浮かべて、僕は適当なことを言ってみた。
「え、どこ、河原?」
「冗談だよ。…どこでもいい」
僕は自転車をこぐ彼の背中に、そっと額をくっつけた。
「…どこにも行きたくない」
静かな住宅街に、他に人の姿はない。そっと自転車がとまって、彼がこっちを振り向いたのがわかったけれど、僕は顔を上げられなかった。
「うちに帰るよ。これ以上、あんたと一緒にいたら、たぶん泣く」
「俺も。…でも、離れたくない」
彼の言葉に、とうとう瞼が熱くなって、僕はあわててぎゅっと目をつむった。
このまま、どこにも行かず、この場所にとどまっていたい。けれど、ときの流れは止まらない。今日、この日は終わってしまう。僕たちのたった一日だけのこの日が。
僕はそっと自転車の荷台から降りて、
「駅まで歩こう」
そう言って、歩き出した。彼は自転車を押して、僕の隣に並んだ。
僕たちは、ぽつり、ぽつりと言葉を交わしながら、ゆっくりと歩いた。たぶん、二人とも、感情があふれてしまわないように、言葉を選んで話していた。
駅が見えてしまう。駅前についてしまう。僕たちはバイバイと手を振ってさよならしなければならない。
駅の階段の下、僕はどうにか声を振り絞って言った。
「楽しかった」
「うん。俺も」
それだけ伝え合って、僕たちはその日に別れを告げた。
駅の階段を上りながら、僕は涙をこらえきれなかったけれど、立ち止まることはしなかった。
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