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9.卒業

 もともと楽曲の制作でしかあまり話さなかった僕たちは、やはりというか、なんというか、文化祭が終わってからは、会話する機会はぐんと減った。(もちろん、教室で挨拶くらいはしたけれど。)  彼は、始業前も休み時間も放課後も、まさに寸暇も惜しんで、受験勉強に明け暮れているようだった。推薦入試の話はどうなったんだろうと気になって、一度それとなく探りを入れてみたが、「ちょっとね」とはぐらかされて、それ以上聞けなくなってしまった。  たまに彼の方から話しかけてくれても、二人でいるとたいていすぐに誰かが声をかけてきて(彼はどこにいても目立つらしい)、文化祭やYouTubeのことを聞いてくるので、僕は正直困った。もともと口下手だからというよりは、なんとなくだけれど、彼と僕とのことをあまり人に話したくなかった。  僕たちは変わらず、毎日同じ教室の前後の席にいるのに、その距離はまた遠くなったみたいだった。  たった数ヶ月前に二人乗りの自転車で大騒ぎしたことを、まるで夏の日の白昼夢だったかのように思い出した。  文化祭の出し物は、出演者自身が事前に申請した記録用を除いて、撮影、録音が禁止されていたけれど、相沢遥がステージで歌を歌ったことは、僕のYouTubeチャンネルのリンク付きで、近隣の高校生を中心に徐々に広まっていった。  チャンネルの再生数は飛躍的に伸びて、コメント欄には批判的な内容も見られたけれど、どちらも僕はあまり気にしないようにしていた。  と言うか、僕たちは受験生で、YouTubeばかりに気をとられているわけにもいかなかったし、とにもかくにも、まずは進路を決定するという目先の目標をクリアしなければならなかった。  僕は音大ではなく、都内の国公立大学にある人間科学部表現学科という進路を志望していた。自分の将来を見据えたとき、音楽の領域に限らず、さまざまな見識を広めるべきだと考えたからだ。  コンクールをやめてから、ピアノの練習の時間を勉強にあてるのはそんなに苦ではなかった。秋の時点ですでに模試の結果は合格圏内だったが、それでもできることはやっておこうと勉強に励んだ。特殊な学科なので、国公立の一般入試にしてはめずらしく面接と実技試験もあったから、その対策も必要だった。  文化祭のあとの追い上げの成果もあって、一月半ばの共通テスト、二月半ばの前期試験ともに、そこそこの手ごたえを感じていた。あとは、三月上旬、卒業式の三日後の合格発表まで、後期試験の小論文の対策をしつつ、落ち着かない気持ちで待つしかなった。  二月に入ると、三年生は自由登校になった。僕は気分転換にたまに登校していたけれど、学校で彼を見かけることはなかった。  こちらから連絡してみようかなとも思ったけれど、いまだに彼の進路については聞けていなかったし、新年のあいさつで止まったままのLINEの画面を開いては、いたずらに時間だけが過ぎていった。  そして、三月。僕たちは卒業式を迎えた。  講堂での式次第を終え、胸に花を着けた三年生たちは、思い出話に花を咲かせたり、写真を撮ったり、それぞれのやり方でこの場所での最後の時間を惜しんでいる。ほとんどの国公立大学の合格発表は来週以降だから、僕と同様にまだ進路が決まっていない生徒も多いはずだが、このときばかりはみんな笑顔でいるようだ。  音楽科の友人たちは中庭に集まって、やはり楽しそうに笑い合っていた。約一ヶ月ぶりの顔ぶれも多く、お互いに進路や近況を報告し合って、僕も三年間を共有したクラスメイトとの別れを惜しんだ。  まだまだ盛り上がっている人だかりの隙間から、別のグループの端っこで笑っている彼の姿が見える。  僕はそっと輪を抜け出して、カフェテリアの方に歩いた。  あの日と同じテーブルの同じ椅子に座り、目をつむる。風はあの日よりも少しだけ冷たい。  しばらくして、誰かが近づいてくる気配にゆっくりと顔を上げると、 「奏」  待ち人がそこに立っていた。彼に名前を呼ばれたのは、ずいぶんと久しぶりのような気がした。 「悠人」  僕もただその名前を呼んだ。彼のことを待っていたはずなのに、それ以上何も言えなくて、僕は黙り込んだ。  彼はカフェテリアの壁に背を預けて僕の横に立つと、しばらくの間何も言わずに、級友の笑顔があふれる中庭を見つめていた。  春のやわらかな光の中、卒業証書を片手に立つ彼の姿は美しくて、いつか見た映画のワンシーンのようだと僕は思った。  不意に、彼がぽつりと言った。 「…遠い昔のことみたいだね」 「うん…」  彼があの春の日を思い出しているんだろうなと僕にはわかった。 「俺、結構、緊張してたんだよ」  そう言って彼は笑う。その笑顔はあの頃と変わらなくて、 「そうなんだ。そうは見えなかったけど」  僕もあの頃と同じように笑い返す。 「まぁ、芝居だけはそこそこできるからね」 「だけじゃないでしょ」  歌も歌えるし、作詞もできるし、きっともう一人で編曲もできる。  そう言いかけて、けれど、僕は言葉をつまらせた。胸の奥から苦しい気持ちがこみ上げてきて、それを吐き出すように、僕は恐る恐る彼に問いかけた。 「…悠人は、音楽を続けるの?」 「……」  彼はこちらをうかがうように、一度、僕の方を見た。もしかしたら、何かを言おうとしたのかもしれない。けれど、彼はゆっくりとうつむくと、また中庭の方に目をやった。  しばしの沈黙のあと、彼はまるで独白のようにゆっくりと静かに言葉を紡いだ。 「…ずっとこの仕事をしててね、どこまで自分を演じてるのか、自分がどこにいるのか、たまにわかんなくなるんだ。…でも、奏の音楽は、いつだって、そのままの俺を許してくれた。奏と音楽をしてると、自分が自分でいられるような気がした」  彼の静かな声は、僕の耳に心地よく響いた。この日々の中で、僕が彼に出会って自分を見つめなおすことができたように、彼にとっても僕の存在は意味を持ったのだろうか。そう思うと、温かい気持ちがたしかにこの胸を満たしていくのに、けれどその一方で冷たいすき間がまだ胸の奥の方にあるのも感じていた。  僕は彼の横顔を見ていられずに、視線を落としてうつむいた。  きっと、このすき間を埋めるのは、僕が求めているのは、たった一つの答え。  僕はまた彼と音楽がしたい。彼に同じ未来を思い描いていて欲しい。  やっぱり、僕は臆病だ。もし彼に否定されたら、必要とされなかったらと思うと、足がすくんで何もできない。伝えたいのに、伝えられない。  彼のように強くなりたい。彼に誇れるような自分でいたい。そう思っているのに、その彼の前で、僕はなぜか一番臆病になってしまう。  でも、もう、今しかない。今、言わなければ、もう、その機会は訪れないかもしれない。  何も言わなくてもここに来れば会えるなんて、もう今日が最後だ。この卒業式の日が終われば、僕たちは離れ離れになってしまう。  もう、二人の道は交わらないかもしれない。 (…そんなの、嫌だ…)  すがるような気持ちで顔を上げたら、彼の目と視線がぶつかって、僕はとっさに口を開いた。 「…っ僕は…」  けれど、いつだってそうだった。僕を救い上げてくれるのは、彼だった。  何を言ったらいいのかもわからないまま、それでも僕が言葉を続けようとしたら、 「俺はまた奏と音楽を作りたい」  そう言うと、彼はゆっくりと僕に歩み寄り、凍りついたみたいに何も言えずにいる僕の身体を、そっとその胸に抱きしめた。 「…これって、俺の片思い?」  耳元で彼の声がして、全身の神経がそこに集中したみたいになって、僕はぎゅっと目をつぶった。  手も、声も、震えているんじゃないかと思った。それでも、どうにかその手を彼の背中に回して、どうにかその声を絞り出す。 「…両想いだよ」  僕は恥ずかしくて目を開けられなかったけれど、僕を抱きしめたまま、彼が笑ったのがわかった。  閉じた瞼の下から涙があふれてしまいそうになるのをこらえながら、僕も笑った。    卒業式の三日後、朝十時。合格発表。  僕は自宅の自分の部屋で、緊張しながら、パソコンの画面を見つめていた。受験票を手元に、画面上のたくさんの数字の羅列を目でなぞる。自分の受験番号が近くなる。  …あった。この番号だ。  手元の紙と画面の番号を見比べて、何度も確かめて、ようやく胸をなでおろす。ほっと一息ついて、そうだ、親に報告しなくちゃ、と立ち上がろうとした、そのときだった。  スマホのバイブが鳴った。彼からLINEのメッセージ。通知の画面を見るに、合格の報告のようだ。  彼の志望校の合格発表も今日だったんだ、と思いながらメッセージを開いたら、 (…………)  僕は目を疑った。 彼の打ち間違いか、僕の見間違いでなければ、僕と同じ大学の名前が書かれている。  これは、いったい、どういうことだ。  衝動的にスマホを操作して通話ボタンをタップしたら、数コールも待たずに彼が出た。問い詰めようとしたのに、 「奏の志望校、音大じゃなかったから、俺でもいけるかなって思って、推薦、取り消してもらったんだよ」  彼はひょうひょうと言ってのけた。 「…なんで言ってくれなかったの」 「だって俺だけ落ちたらかっこ悪いじゃん」 「僕が落ちる可能性もあるでしょ」 「奏を落とす大学なんてないよ」 (いや、あるだろ。どんな世界だよ)  呆気にとられている僕をおいて、彼は電話の向こうで冗舌に話し続ける。 「いやー筆記も実技も全然できなかったし、これは完全に落ちたと思って後期の勉強してたんだけど、そもそも後期なんて定員は少ないし小論文とかわかんないしもうだめだーってなって、でも万が一もあるし一応念のためにと思ってダメ元で前期の合格発表のページ見てみたら、なんか番号あったんだ!」  まだ驚きと喜びの余韻たっぷりの弾んだ声は、なんだか子どもみたいで、僕は毒気を抜かれてしまった。 「奏は音楽表現コースだよね。俺は映像表現にしたから、よろしく!」 「…………」  まさかの、学部・学科まで一緒だった。

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