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11.彼の恋と僕の恋ではない気持ち

 二年生になって僕たちも一人ずつ二十歳を迎え、公に飲酒が許されるようになると、たまに居酒屋やカフェバーのような場所に赴いて、学生らしいモラトリアムな時間を過ごすこともあった。  だいたい幹事役を担ってくれる菜月は、僕たちのことを気遣って、他のお客さんを気にしなくてもいいような個室風のお店をチョイスしてくれた。(本当に頭が上がらない…。)  二年生後期の講義がすべて終了し、開放感にあふれた気持ちで筆記用具を片付けていたら、同じ講義を取っている菜月に声をかけられた。 「お疲れー! これからヒマだったら飲みに行こうよ。真帆がバイトなんだ」 「いいよ」  真帆というのは、当時の菜月の彼女の名前だ。  同じコースの友人たちは連れ立って飲みに行くみたいで、僕にも声をかけてくれたが、僕が菜月を指差すとにやにや笑って去っていった。 「遥も誘ってみてよ」 「でも、同じコースの人と行くんじゃない」 「奏が誘ったら来るよ」  そう言われてメッセージを送ってみたところ、彼はまだ次の講義があるが、そのあとなら大丈夫とのことだった。  次の講義は十八時半までだから、十九時に駅前の居酒屋を予約して、店内で待ち合わせになった。  僕たちは頻繁に約束してでかけるような仲ではなかったが、彼女の性格のおかげか、お互いに気を使わないでいられて、そのときも気楽な流れだったけれど、結果的にそれは忘れられない夜になった。  後期の最後の日ということもあって、試験やレポートがどうだったとか、明日からの春休みはどうするとか、僕たちはとりとめもない会話を楽しんでいた。  いい具合にお酒がまわってきたころ、いつもの菜月のアレが始まった。 「君たち、付き合っちゃえばいいのに」  菜月は、自分が同性を恋愛対象にするからか、ただの趣味かはわからないが、やたらと僕たちのことをくっつけたがる。 「付き合いませーん」 「二股はよくないからねぇ」  毎度の彼の返事に僕が適当な理由をつけたら、 「この間ふられちゃったから、二股にはならないけど」  彼から予想外の言葉が返ってきて、僕はちょっと焦った。彼女にふられたなんてことを彼がこのような場で話すのは意外だった。  彼は僕にその手の話はしないので、推測でしかないけれど、たぶん今回の彼女は彼にしては結構長く付き合っていたはずだ。だいぶお酒が入っているし、誰かに話したいくらい、今回の別れは痛手だったのだろうか。 「え、そうなの。遥をふるなんて、なかなかだね」  菜月にとっても、彼の恋愛の話題はめずらしいのだろう。その言い方は、若干、面白がっているみたいにも聞こえた。 「そう? 俺、いつもふられて終わるんだけど」 「えー、それって遥に問題ないのー?」  おそらく何気なく言ったであろう菜月の言葉は、今の彼には刺さったみたいで、 「…問題って?」 (あ、これはちょっと、よくない気がする…)  僕は思ったけれど、相変わらずピアノ以外のテンポが遅いので、酔っぱらいの二人の勢いに、止めに入るタイミングがつかめない。 「んー、わかんないけど、相手のこと、大事にしてる?」 「大事にって、どういうこと?」 「そうねぇ…。話を聞いてあげるとか、ちゃんと好きって伝えるとか?」 「…好きって、簡単に言えないでしょ」 「言わなくても、好きなら、態度で伝わるんじゃない」 「……」 「だって、遥が奏をめちゃくちゃ好きってことは、よくわかるよ」 「…好きの種類が違うでしょ」 「あのさ、そろそろ…」  そろそろ本当に険悪になってしまいそうな気がして、どうにか止めに入ろうとしたが、 「えー、ほんとに、そんな理由?」  詰め寄る菜月に、とうとう彼は冷たい声でまくしたてるように言った。 「…俺は最初に言ってんの。忙しいから頻繁には会えないし、事務所に迷惑かけんのいやだから、隠れて付き合うことになるって。それなのに、もう無理とか言われてふられるんだから、俺はどうしたらいいの。俺の何が“問題”?」  菜月の言葉に煽られたみたいな彼の言葉を、僕には止められなかった。 「……」  束の間の気まずい沈黙をやぶったのは、彼の謝罪の言葉だった。 「…ごめん、言い過ぎた」 「ううん、私もごめん。遥、芸能人だったわ。難しいよね」 「…いいよ。俺もむきになって、ほんとにごめん」 「うん。…私、先に帰るね。真帆からバイト終わったって連絡あったし。割り勘、あとで教えて」  最後の言葉は僕に対してだった。  葉月が鞄と上着を手に取って立ち上がったので、僕もとっさに席を立った。 「うん、なんか、ごめんね」 『なんで奏が謝んの』   さっきまで言い合っていた二人が同時に言ったので、僕は笑ってもいいのかな、と思いながらも笑ってしまった。すると二人も笑って、少しだけ空気がやわらかくなったような気がした。 「イヤな気持ちにさせて悪かったけど、遥の話を聞けて、ちょっと嬉しかったよ。またね」  そう言って、彼女は手を振って去っていった。僕も手を振って菜月を見送り、彼女の姿が見えなくなってから、彼のとなりに座りなおした。 「めずらしい。いつもは軽く流すのに」 「ごめん、酔ったかな。…もうちょっと付き合ってくれる?」 「…悠人がちゃんと話してくれるならね」  彼がさきほど菜月に伝えたことも嘘ではない彼の本音だろう。けれど、そのさらに奥には、菜月に指摘されて反射的に反発してしまうほどの、掘り起こされたくない『問題』があるんじゃないだろうか。  それは、今回の別れ話だけのことではなくて、女の子と付き合っては別れてを繰り返す彼を高校のときからずっと見ていて、なんとなくそう感じていた。  僕は恋愛がわからないから、その違和感が正しいのかも半信半疑だったが、今日の彼の態度を見るに、おそらく間違ってはいないだろう。  彼は僕に対して、恋愛の話をほとんどしない。僕が恋愛の話題が苦手だというのは前に話したことがあるし、少なくとも彼と出会ってからずっと僕に恋人がいないことも、おそらく彼は知っているから。  彼は僕の前に彼女を連れてこないし、彼女の話もほとんどしない。いつも、ひっそりと付き合って、いつのまにか別れている。僕はそれを気配で感じ取って、勝手に寂しくなったり、つらくなったりしている。  けれど、そんな僕のために、彼が僕に話せないことがあって、それで彼がその“問題”から解放されないでいるのであれば、それは僕の本意ではない。 「ほんとに聞いちゃう?」 「それが悠人のためになるような気がするんだけど、違うかな?」  本当は、半分は僕のためでもあるんだけど、それは言わなくてもいいかなと思った。単に僕が彼の話を聞いて、彼のことを知って、彼の助けになりたいだけだから。 「違わないね」  彼はそう言って笑い、テーブルのタブレットで適当なお酒を二杯追加で注文した。それがテーブルに届いて、軽く口をつけてから、彼は話し始めた。 「ほんとにたいした話じゃないんだけどね。何年ひきずってんのっていうくらい昔の話」  恋愛については、僕は想像するしかない。(同じ気持ちがわからないから、想像すらもできていないのかもしれない。)けれど、そんな僕が聞いても、彼の話はなかなかの悲劇だったように思う。  高校生になったばかりのころ、彼はテレビドラマの共演者の女性に恋をしたそうだ。アイドルグループに所属していた彼女は、演技の仕事は初めてで、四つ年下の彼にも演技のアドバイスを求めてきて、謙虚でまじめなように当時の彼には映った。  若い女性のアイドルグループの多くでは『恋愛禁止』が不文律とされていて、彼女の場合も例にもれなかったらしい。彼女は「内緒だよ」と言って彼を誘った。 「ずるいよね。それで燃え上がっちゃう俺も俺だけどさ。でも、俺、あのとき十五だよ? しかたないでしょ」  酔いに任せて話す彼の声は、ぞんざいな口調とは裏腹に、少し寂しそうに聞こえた。  撮影の期間中は、仕事のあとに二人ですごしたり、休日に人目をしのんでデートしたりしていたが、クランクアップしてしばらくすると、彼女からの連絡は途絶えがちになった。  四つも年下の自分は早々に飽きられたのだろう。そう自虐的に思っていたころ、最終回の放送前に改めて販促のイベントが開催されることになった。  行きたくなかったが、彼女のことは誰にも話していなかったから、仕事の付き合いと言われたら欠席するわけにもいかなかった。  重い気持ちで会場に入り、会いたいのか、会いたくないのかもわからないまま、それでも目は彼女を探してしまう。彼女は見当たらない。  そこに顔見知りのテレビ局のディレクターがやってきて、小さな声で彼に言った。 「あいつなら、俺んちで寝てるよ。いい加減、若い子をたぶらかすのはやめとけって叱っといたから、許してやって」  彼は何も言い返せず、しばらくその場から動くことすら、できなかった。 「今になったらさ、そいつが勝手に言っただけだったのかもとか、彼女も仕事上どうしようもなかったのかもとか、なんで直接彼女に聞かなかったんだろうとか、考えられるけどさ」  彼はお酒のグラスを煽って、ため息をついた。 「何回も言うけど、俺、若かったの。色々初めてだったの。…好きだったのよ」  同じ気持ちを経験したことがない僕が聞いても、最後の彼の呟きは苦しいくらいに切なかった。  彼が頼んだお酒のグラスを見つめながら、僕は自分の目から涙がこぼれたことに気付いて、あわてて頬をぬぐった。 「あー泣いてくれるのー。奏ならわかってくれると思ってたー。もっと早く話したらよかったー」 「…うるさいな、酔うと涙腺がゆるくなるだけだよ…」 「なんかさ、その辺のやつに言っても『アイドルとやれてラッキーじゃん』とか言われそうで、誰にも言えなかったんだよね」  一般的な男の感覚からしたら、彼の言うとおりなのかもしれないけど、僕にはその感覚はわからなかったし、長い間、つらい出来事を内に秘めざるを得なかった彼のことを思うと、同情しか覚えなかった。 「あーあ、話しちゃったー。かっこわるー」  言って、彼は残りのグラスの中身を一気に煽った。 「かっこわるくないよ」  僕は首を横に振った。頭がいつもより重くて、自分は酔っているんだなと思った。 「…あれ以来、俺、本気で誰かを好きになれないのかもしれない。これまで付き合った中には、いいなって思う子もいたんだよ。でも、なんか壁があるんだって。しばらくすると、ふられんの」  話す口調は軽いけれど、その言葉からは、彼の積年の苦しさや寂しさみたいなものが、垣間見えたような気がした。僕はあの寮の部屋で一人きり泣いていたであろう十五才の彼を想像して、またまぶたが熱くなるのを感じた。 「…あのさ、僕は恋愛の話はよくわかんないし、うまく受け止められないかもしれないけど、悠人が僕に話したいことなら、僕はいつでも聞くよ」  泣き顔を見られたくなくてうつむいて言った僕の頭を、彼は手のひらで優しくぽんぽんとたたいた。  彼の失恋の話を聞いたはずなのに、なぜか僕の方が慰められているみたいになって、なんだかおかしくて、僕たちはちょっと笑った。  閉店の時間が近づいていた。僕たちはコートをはおって、会計をすませ、いそいそと店を出た。外気は冷たかったが、酔いもあって、あまり寒さは感じなかった。 「電車、あるかな」  僕は実家から大学に通っていたけれど、ここまで遅くなることはあんまりなかったから、終電の時間を把握していなかった。駅の雰囲気からは、すでに人や電車の気配を感じなかったが、とりあえず調べてみようとスマホを操作しようとしたら、 「俺んち、来たら?」  その手を彼にとめられた。  彼はまだ事務所の寮に住んでいると聞いていた。たしかに僕の家よりはここから近いような気がするが、歩いて行くには少々遠いだろう。  僕が返事できずにいたら、彼はさっさとタクシーを呼び止め、戸惑う僕を後部座席に押し込んで、自分もその横に乗り込んだ。  タクシーには乗り慣れていなかったし、彼の家に行くのは高校生のとき以来だったので、僕はなんとなく緊張していた。  運転手さんに行き先を告げたきり、彼も黙り込んでいたので、僕と同じように緊張しているのかなと思ったら、ふと肩に重みを感じた。見ると、僕にもたれかかって、彼はすやすやと眠ってしまっていて、僕はため息をついた。  タクシーは十五分ほどで目的地に到着して、僕は酔っ払いの彼をどうにか座席から引きずりおろした。  彼の寮の仕組みは以前と変わっておらず、電子キーを持っていたら、建物の入口も彼の部屋のドアもワンタッチで解錠されるようになっていので、その点は助かった。  どうにか彼の部屋までたどり着き、彼をベッドに座らせると、そのままぱたんと横になってしまった。 「大丈夫? 水、飲む?」 「うん、ありがと…」  勝手に冷蔵庫を空けたら、浄水器のボトルに水が入っていたので、それを適当なコップに入れながら、僕は考えた。  僕は明日から春休みで、特に予定もないから、朝帰りしても特に問題はなかったが、(母親の目は気になるが、)彼の方はどうなんだろう。 「明日、仕事は?」 「大丈夫。マネージャーが電話くれる」  彼は横になったまま、僕が手渡したコップの水に口をつけながらしゃべるので、案の定、口の端から水がこぼれて、僕はティッシュで拭いてやる羽目になった。 「上着、脱げる?」 「ん…」  寝るのに窮屈だろうと思って聞いたあげたのに、彼は相変わらず寝ころんだままであまり協力的ではなく、僕はだいぶ苦労して彼の上着を脱がせてやった。やっと自分も上着を脱いで、出入口の近くのハンガーに適当にかけ、一息つく。  初めて僕がここに来たときから二年以上経っていたが、あまり変わっていないようだった。簡素なワンルームで、ベッドとデスク、小さな丸テーブルしかない。ラグがひいてあるから、床で寝たらいいかなと思っていたら、 「こっち来て」  彼のお酒にかすれたような声が僕を呼んだ。一緒に寝ようと言われるんじゃないかと思ったら、 「ベッド使って。俺、床でいい」  勘違いに、なんだか恥ずかしくなる。それを悟られないように、僕はなるべく静かに答えた。 「いいよ、明日も仕事なんでしょ」 「…じゃあ、一緒に寝よ」  やっぱり、そう来たか。 「いや、床でいいです」 「だめ。掛けるもんないし」 「上着でいいから」 「やだ、こっちきて」 「……」  僕はあきらめて、彼がうつ伏せになっているベッドの端に腰かけた。 「甘えてんの」 「うん、甘やかして…」  ベッドの上においていた僕の手に、彼の手が重なる。僕はそれを握り返して、きっと彼が望んでいるだろう言葉を紡ぐ。 「大丈夫だよ。僕はあんたを裏切らないし、あんたのそばにいるよ」 「うん」 「…僕が恋できたら、あんたの気持ちをもっとわかってあげられたのかな」 「俺には、そのままの奏がいいんだよ」 「うん。…悠人がそう言ってくれるから、僕は僕でいられるのかもしれない」 「…触れていいのかわからないんだけど…、」  つないだ手から、彼の不安のようなものが流れ込んできた気がして、僕は彼が逃げられないように、その手に力をこめた。  僕の意をくみとってくれたみたいに、彼は僕の手を握り返して、言葉を続けた。 「奏は、恋しないの?」  彼が直接的に僕の内面の核心に触れるのは、初めてだった。そう言えば、こうやって手をつなぐのも初めてだ。僕はつないだその手を見つめた。 「…よくわからない」 「誰かを独占したいとか、自分だけを好きになってほしいとか、…キスしたいとか…、思ったこと、ないの?」 「たぶん、ないかな」 「…俺のことは?」 「…好きだけど、恋じゃないと思うよ」  僕は彼の手のぬくもりを感じながら、目を閉じて考えた。  目の前の人を失ったら、僕はどうなるんだろう。高校生のあの日々をすごしてから、彼と音楽をするようになってから、たまに思う。  例えば、彼を失わないまでも、彼が僕以外の誰かと音楽をすることになったら、僕はきっと少なからず苦しい気持ちになるだろう。  でも、それは彼を独占したい、ということなんだろうか。この気持ちは、恋なんだろうか。  彼には、僕がいない彼の世界があって、だからこそ僕との世界もある。僕にだって、(その割合は彼とは異なるだろうけれど、)彼のいない世界がある。  それは当然のことだ。その彼のすべてを僕のものにしたい、僕のすべてを彼と共有したい、なんて思わない。思えない。  それに、もしそう思ったとしても、その気持ちを彼に押し付けることは、僕はしないだろう。ましてや、それが叶わないからと言って、別の相手を探そうなんて、絶対に思わない。  なぜなら、僕にとって、彼は、彼しかいないんだから。  僕はつないだ彼の手から僕の手をそっとはなして、やわらかそうな彼の髪にふれた。  彼の目はとろんとして、もう眠ってしまいそうに見えた。 「…僕はね、悠人」 「…うん…」 「好きな人が、僕のことを同じように好きになってくれなくてもいいんだ。僕がその人を好きでいればいい」 「…うん…」 「もちろん、僕のことを好きになってくれたら嬉しいよ。でも、もし好きになってくれなくても、次の人を探したりはしない。それが、僕にとって、人を好きになるってことだと思う」 「…奏に好きになってもらえたら、幸せだね…」  僕が一番好きなのはもうずっとあんたなのにな、と思いながら、僕は「そうかな」と言って笑った。  彼が深い眠りに落ちるまで、僕はしばらく彼の髪を撫でていた。その寝顔は幸せそうに見えて、僕は安心した。  彼の頭をぽんぽんと触って、起きないことを確認してから、僕は彼のベッドのとなりに滑り込んだ。そして、そっと二人分の身体に布団をかけた。  酔いもあって寒くはなかったが、背中に彼の体温を感じながら眠るのは、なんだか心地よかった。  僕は他人に性的欲求を感じないけれど、そのような行為を抜きにして、好きな人のぬくもりを感じるのは気持ちがいいんだな、と思いながら、僕は眠りの中に意識を手放した。  翌朝、彼の隣で目を覚ました僕は、自分を起こしたのが彼のスマホの着信音であることに気付いて、まだ隣で眠る彼を慌てて起こした  電話の相手は、彼のマネージャーさんのようだ。寝起きの彼を見るのは初めてだったが、すこぶる機嫌が悪そうだった。 「あーもー奏とモーニングコーヒーしたかったのに」  彼はあと三十分でマネージャーさんが迎えに来ると言って、僕に謝って、あわててシャワーを浴びに浴室に消えていった。浴室からシャワーの音と、 「ごめん、ばたばたしちゃって。先に帰る?」  と彼の声が聞こえた。  僕がいても彼の準備の邪魔になりそうだったし、彼の機嫌の悪さと逃げるように浴室に入っていった様子が、ただの照れ隠しのようにも思えたから、僕は浴室のドア越しに、 「泊めてくれてありがとー」と声をかけて、彼の部屋を立ち去った。  帰りの電車の中で、スマホのバイブが鳴った。菜月からのメッセージだった。 『昨日はごめんね』 『大丈夫。むしろ、よかったかも』 『え、どういうこと? 今、話せる?』 『電車だから、あとで電話する』  家に帰ると、もう昼前だった。少し眠気を感じたので、シャワーを浴びて着替えてから、菜月に電話をかけた。彼の話の詳細はもちろん僕からは話せなかったが、彼が過去の恋愛のトラウマを吐き出してくれたこと、自分にとっても彼と話ができてよかったことを伝えた。 「そっか、それならよかった」  菜月は心から安心したような様子だった。(わざわざ連絡をくれるくらいだから、菜月なりに結構心配していたのたろう。) 「私、自分が何でも話しちゃう方だし、つい人にも話してもらいたくなって、踏み込み過ぎちゃうんだよね」  そう言って、菜月は自分の過去の経験を電話口で話してくれた。菜月にも、自分の性的指向を誰にも言えずに抱え込んでいた時期があったそうだ。  そのころの菜月は、自分だけがみんなと違うという気持ちが強くて、周囲ともあまりうまくいっていなかったという。そんな状況を変えたいと決心して、思い切って自分の気持ちを打ち明けてみたところ、もちろんよいことばかりではなかったが、それでも前向きに捉えられるようになった、とのことだった。 「人間、言葉にしないとわかんないもんね。わかってくれないってうじうじしているより、ちゃんと話したら、大抵いい方向にいくんだよ」 「そうだね。今回の場合も、そうだったと思う」  僕は、菜月にも僕のことを聞いてもらおうと思った。  昨夜、僕がこれまで知らなかった彼の内面に触れて、そして彼に僕の内面を知ってもらえたのは、菜月のおかげだ。今、菜月の内面を聞かせてもらった僕が、僕の内面を菜月に話すことが、菜月の言う『いい方向』につながるような気がした。 「昨夜、僕も初めて人に話したことがあるんだ。菜月にも聞いてもらっていい?」  僕は、自分が異性にも同性にも恋をしたことがなくて、そもそも恋愛感情がわからないということを菜月に話した。自分でもよく理解できていない自分のことを人に説明するのは思ったよりも難しくて、ときおり言葉に迷いながらだったけれど、菜月は急かしたりさえぎったりせずに静かに耳を傾けてくれた。  ただ、菜月は少し考えてからこうも付け加えた。 「奏は、恋したり、付き合ったりするのが、いやなわけじゃないんだよね?」 「…たぶん…」 「だったら、とりあえず誰かと付き合ってみてもいいかもよ?」 「え?」  その発想は僕にはなかった。 「奏と私は考え方も違うだろうし、無責任だったら申し訳ないんだけど…、」  菜月にしては、歯切れの悪い言い方だ。僕に恋をしたことのある人の気持ちがわからないように、菜月にだって恋をしたことのない人の気持ちはわからないんだろうけれど、それでも菜月なりに僕のことを考えて言ってくれているのは伝わってきた。 「誰かと付き合うって特別なことかもしれないけど、結局は人間関係でしょ。一つの経験とか勉強にはなると思うし、その先に何かが見えるかもしれないよ。それが恋じゃなくてもさ」  たしかに、菜月の言うこともわかるような気がする。 「でも、それって、相手に悪くない?」 「こっちから付き合ってくださいって言ったら悪いかもだけど、告ってくれた人に、好きになれるかわからないけどまずはお友達からって言えば、嘘じゃないし、別にいいんじゃない?」 「…なるほど…」  菜月の言葉は、僕にとってはまさに目からうろこだった。

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