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12.乗らないの?
大学の長期休暇は、前期と後期の間にそれぞれ一ヶ月半くらいあって、その間は時間があるので、仕事を受けたり、彼と楽曲を制作したりして過ごしていた。
僕たちは相変わらず、共作の作業以外では約束して食事したり遊んだりすることはほとんどなかった。だからそれまでもそんなに頻繁に会っているわけではなかったが、三年生になって共通の講義が少なくなり、それぞれゼミに所属するようになると、その頻度はさらに減ってしまった。
そんな三年生の六月、前期も半ばに差し掛かったころ、僕は同じコースの女の子に告白されてしまった。
特に仲がいいわけではなかったけれど、大学に入学してから二年以上を同じコースで過ごしていたし、飲み会やグループワークなんかで一緒になったときの印象はよかった。
菜月の言葉を思い出して、まずはお友達からでOKしてみようかと思ったが、緊張して即答できずにいると、返事はまた今度でいいから、と言われてしまった。
彼女と付き合うにしても、僕が恋しないということを知っている二人に先に話しておかないと、と思って、僕は急いでLINEグループにメッセージを送ってスケジュールを調整し、この間の個室の居酒屋を予約して、二人を招集した。
その日は小雨が降っていた。
こんな風に僕から二人を呼び出すのは初めてだったから、席に着くとまず二人から「何があったの」と聞かれて、僕はちょっと驚いた。
まず、数か月前に菜月に提案してもらった『お友達から作戦』について彼に伝え、続いて、同じコースの女の子に告白されたことを二人に話した。
「そんな器用なこと、奏にできんの?」
彼は心なしか不機嫌そうだった。
菜月は大好物の恋愛話にうきうきしているみたいで、
「やってみないとわかんないよ。その子、いい感じなんでしょ?」
そう言われて、僕はあいまいに頷いた。
「でも、付き合うって好きじゃなくても結構消耗するよー。相手だって奏だって、傷つくこともあるかもしれないし」
「出た、過保護~」
それは彼が僕のことを話すときに菜月によく言われる、お決まりのセリフになっていた。
「いや、もうOKしようとは思ってるんだ」
『え、そうなの?』
二人は同時に僕の方を向く。
彼はなんだかショックを受けたような顔をしているが、
「おー!」
菜月は拍手してくれた。
「奏がそう決めてるなら、応援するけどさ…」
彼はお酒のグラスを口につけながら不本意そうに言った。
そして、ちらっと僕の方を見て聞く。
「奏って、キスしたことあるの?」
「…うるさいな…。ないよ…」
「誰かと付き合う前に、俺としとこう」
「なにそれ」
「奏の初めては俺がいい。ダメ?」
「はぁ?」
「はい、こっち向いてー」
彼は僕の両肩をつかんで、有無を言わせぬ力で僕の身体を彼の方に向かせた。僕の顔を見て、いたずらっぽくにっこりと笑って見せる。
助けを求めて菜月に視線をやったら、菜月はグラスを片手ににやにやしながらこっちを見ているだけだった。
(くそ、こうなったらやけだ)
やられるのは何だか悔しい。僕は反撃に出ることにした。
恥ずかしいのを我慢して、彼の目を見つめ返し、
「キスってどうやってするの?」
と僕が聞くと、
「こうやって…」
彼はテレビドラマみたいにきれいな角度で顔を傾けて目をつむった。その唇に、僕は思い切って自分の唇をくっつけて、すぐにさっと離れた。
「奏、やるー!」
菜月は笑いながら手をたたいて面白がっている。
「……」
驚いた顔をしたあと、不機嫌そうに無表情になった彼を見て、僕は満足した。人をからかうからいけないんだ。
「あはは、君たち、ほんとにおかしいね。付き合っちゃえばいいのに」
「…奏…」
僕の名前を呼ぶ彼の声は、不穏な気配を帯びていたので、
「ごめん、いやだった?」
僕はとっさに謝る。勢いでやってしまったが、今になって心配になってきた。 もしかして、彼は冗談を言っただけで、本当にするつもりではなかったんだろうか。であれば、彼は僕にキスされて怒っているのかもしれない。
彼がすっと席を立って行ってしまったので、僕はどうしようかと逡巡したが、しかたがないから、菜月に一言断って彼を追いかけた。
個室が並んでいる居酒屋の店内は迷路みたいで、僕はうろうろしながら彼を探すはめになった。空席の個室の間、通路の奥の壁に背中を預けて、彼は立っていた。
「ほんとにごめんって…」
僕が謝りながら彼に近づくと、彼は黙って僕の手を引いて、空いている個室の座席に僕を座らせた。
彼の両手が、そっと僕の頬に触れる。いったいなんだろうと思っていたら、彼はゆっくり僕の方に顔を近付けて、さっきの僕とは違う慣れたしぐさで僕に口付けた。
「……」
さっきよりも長いキスだった。僕が茫然として動けずにいたら、彼は僕の額に自分のそれをくっつけて、僕に言い聞かせるように言った。
「奏からはしないで」
「なんで」
「…俺がこんな風になるから」
彼はさっきとは反対側に首を傾けて、また僕の唇に唇を重ねる。唇をペロッと舐められ、反射的に口を開けたら、そこからやわらかくて温かい何かが入ってきて、その感触に僕も目をつむった。
舌を絡めとられて、口の中を舐められると、
「…ん…」
自分のものではないみたいな変な声が出て、顔が熱くなる。
彼は僕を抑えつけているわけでも、僕は酔っ払って動けないわけでもない。その気になれば、よけるとか突き飛ばすとかして逃げられるのに、どうして僕はそうしないんだろう。僕たちがなかなか帰ってこないから、菜月が変に思ったらどうしよう。
そんなことがとりとめもなく頭の片隅によぎっては、キスの小さな水音に消えていく。
なんだか苦しい。と思ったら、僕は知らず息を止めているみたいだった。でも、気付いたところで、どうしたらいいのかもわからない。だんだん頭がぼーっとして、何も考えられなくなってくる。
「…っ…」
もうだめだ。そう思ったとき、彼の唇がそっと離れて、僕はやっと呼吸の仕方を思い出したみたいに肩で息を吸い込んだ。
「…どうやってするのか、わかった?」
彼は僕の頬を指先で撫でるようになぞって、とってつけたみたいにぎこちなく笑った。
僕がやり方を聞いたからにしても、さっきの仕返しにしても、やりすぎだろ。そう文句の一つも言ってやりたいのに、まだ息が苦しくて、唇と頭が熱におかされているみたいで、僕はただ頷くことしかできない。
彼は僕の顔を束の間見つめたあと、今度は僕の耳元に唇を近づけて、いつもより低い声で囁いた。
「その顔、俺以外に見せたらダメだよ」
(…それを言うなら、あんたのその声がダメだろ…)
心の中で悪態をついても、やっぱり僕は何も言えなくて、
「立てる?」
彼に手を引かれて、どうにか立ち上がった。
その顔ってどんな顔なんだ。僕はどんな顔をして菜月が待つ席に帰ったらいいんだ。ぼんやりした頭の中でぐるぐると思考が渦巻いていたら、僕たちのスマホの着信音がほとんど同時になった。
『おーい、もどってこーい! けんかすんなよー』
菜月から三人のグループ宛てにLINEのメッセージ。
助かった。彼の冗談を僕が真に受けてしまったせいで、軽くけんかになったという体でいこう。
お酒と彼のキスのせいで停止しかけている頭で、僕がそう計画したのに、張本人の彼は、僕をおいて先に通路を歩いて行ってしまった。
(なにあれ…)
僕が恐る恐る席に戻ると、テーブルにまだお酒が残っているのに、彼はすでに帰り支度をしていた。
「もとはと言えば、遥がしかけたんでしょ。怒る権利、ないんじゃない」
菜月はまだのんびり居座っていて、グラスを傾けながら彼を諭す。
僕は心の中で「そーだ、そーだ」と菜月にエールをおくりながら、僕も帰り支度をするか、菜月の前に座り直すか、思案していた。
「怒ってないよ」
言葉とは裏腹に、彼は菜月と僕に背を向けたままだった。
「なら、飲み終わるまで待って。もったいない」
これはお開きになりそうだと理解して、僕は菜月に倣って残りのお酒を飲んでから、帰り支度を始めた。
彼はその間に会計を済ませて、さっさと店を出て行ってしまう。続いて菜月と僕も並んで店を出た。
雨はやんでいたけれど、空気は靄がかかったようにじっとりとしていた。
「遥、動揺しすぎじゃない? やっぱり奏のこと好きなのかな」
僕は「またそれ?」と思ったが、少し距離があったはずなのに、その言葉を耳ざとく聞きとがめた彼の反応は違っていた。
「好きだけど、菜月が言うようなのとは違うし、言われたくもない」
「こっわーい。ちわげんかもほどほどにね」
菜月は笑いながら「またねー」と手を振って、駅とは反対側の自宅の方に歩いていった。
菜月がこちらに背を向けて立ち去っていくのを見届けてから、僕もなんだかこっわーい彼のことは放っておいて、駅に向かおうかと思ったら、
「帰るの?」
やっぱりそうはいかなかった。
「…あんた、怒ってるし…」
「怒ってないって」
「じゃあ、どうして、」と聞きかけて、僕はそれを聞かない方がいいような気がして、口をつぐんだ。
「…もう少し話そうよ」
そう言って、彼は自販機で冷たい缶コーヒーを二本買って、一本を僕に手渡した。ロータリーのベンチは先刻までの雨で湿っていたので、僕たちはもう閉まっているお店の薄暗いひさしの下、シャッターに背中をあずけるようにして、少し距離をおいて横に立って並んだ。
駅の周辺は主に学生街と住宅街だ。この時間になると人通りはほとんどなく、ときおり車と電車の音がするくらいでひっそりとしている。彼はコーヒーの缶を傾けながら押し黙ったまま、そのきれいな横顔からは何を考えているのかはおしはかれない。
彼が誰かと付き合うことに、僕が少なからずの感傷を覚えるのと同じように、僕が誰かと付き合うことを、彼もあまりこころよくは思わないのだろうか。それであんな冗談を言い出したのだろうか。
彼と同じ缶を片手に、さきほどの出来事を思い返していると、ふいに彼が僕の方をのぞき込んで言った。
「ごめん、俺、怖かった?」
「え、なんで?」
「あれからちょっと調べてみたんだけど、奏みたいに恋愛しない人って、キスとかそういうことが怖かったり嫌悪感があったりする人もいるって」
たしかに彼の言うように、アセクシャルの人の中には、身体的な接触が苦手で、極端な例だと、親しい間柄であっても手をつなぐのもつらい、という人もいるらしい。けれどその一方で、友人と手をつないだりハグしたりするのは好きという人も、キスはOKという人も、パートナーが望むなら性行為をしてもいいという人もいる。相手によるとか行為によるとか日によって違うとか、そういうのも含めると、もはやアセクである・ないに関わらないような気もしてくるが、とにかく人それぞれで一概には言えないみたいだ。
自分の場合はどんなパターンになるのか、僕自身もあまりよくわかっていないけれど、
「…別に怖くないよ。嫌悪感もない。相手があんただからかもしれないけど」
彼に聞かれて改めて考えてみても、少なくとも、彼に対してはそう思っているみたいだった。
「いや、だから、そういうのがさ…」
「なに?」
「いや、もういいです…」
むしろ、数ヶ月前の話を彼が忘れないでいてくれたこと、彼が僕を理解しようとしてくれたことが思いがけず嬉しくて、僕はそれをごまかすみたいに微糖のコーヒーを一口すすった。
彼はなぜかがっくりとうなだれたまま、
「俺んち、来る?」
何でもないことのように、ぽつりと言った。この展開、前にもあったな。数ヶ月前のあの夜だ。
このまま、誘われるまま、彼の家に行ったら、僕たちはどうなるんだろう。あの夜みたいに、優しい気持ちで彼と同じ布団で眠るんだろうか。それとも、さっきのキスの続きをするんだろうか。
僕はさっき「怖くない」と答えたけれど、今になって自分が怖いと感じていることに気付いた。けれどそれは、彼が、とか、キスが、とかではない。自分がどうなってしまうのか、彼と僕の関係がどうなってしまうのかがわからなくて怖かった。
僕が黙り込んだまま答えられずにいると、彼は僕の方に向き直り、
「もう一回だけ」
高校生のときからそうしているように、僕にピアノの演奏をねだるみたいにそう言った。
夜の暗がりと雨上がりの靄が僕たちを隠してくれていた。僕たちは最後にもう一度だけ、そっと触れるだけのキスをした。
さっきはわからなかったけれど、その唇はやわらかく、温かかった。梅雨の生温かい空気と、ほどよくまわったアルコールが、僕の頭をおかしくしていた。
僕たちは、まるで名残惜しいみたいに、ゆっくりと唇を離して見つめ合った。
「…冗談はこれっきりにしよう。冗談じゃなくなったら困るから…」
彼は僕の髪に触れながら、愛を囁くように言った。困るのは、彼なのだろうか。僕なのだろうか。
彼はおもむろに僕の手から空き缶を奪い取ると、さきほどの自販機の横のゴミ箱に捨てた。
そして、こちらに小さく手を降って見せ、ロータリーで待機していたタクシーのドアをたたいた。そのドアが開いて、彼の身体が後部座席に吸い込まれる。
薄い闇の中でも、彼の所作は美しく映った。
ドアが閉まる前、彼が一瞬僕の方を見て何か言ったような気がした。
「乗らないの?」
たぶん彼はそう言っていた。
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