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13.運命の人

 翌週、共通の講義が終わったとき、僕は彼女を呼び止めて、正直に気持ちを伝えた。 「僕はあんまり恋愛とかわからないんだけど、好きになれたらいいなと思っています。まずはお友達からでもいいですか?」  告白の返事にしては、かなりまどろっこしくて格好がつかないなと、自分でも思ったが、彼女は、 「ほんとにいいの? よろしくお願いします」  と言って喜んでくれた。  それから、僕はなるべく彼女と楽しい時間を過ごせるように努めた。講義で一緒になるときは声をかけたし、そのあと時間があれば食事やカフェに出かけたりもした。メッセージの返信にも気を付けたし、たまに電話をかけたりもした。  彼女はおしゃべりが上手で、甘いものが好きで、ふわっとした服が似合っていた。愚痴を言ったり、人のことを悪く言ったりもしない。楽器はフルートが専門だったが、ピアノも弾けるから、話題にも困らなかった。  八月、彼女と付き合い始めて一ヶ月半が過ぎていた。前期の講義も残り少なくなってきたころ、お昼休みに時間が余ったので、大学の売店の前にある木陰のベンチに座って、課題のレポートについて彼女と話していたときだった。  偶然だったのか、彼女が意図的にそうしたのはかわからない。僕の手に彼女の手が触れた。  八月の熱い日差しの下。周りには誰もいない。遠くに蝉の声だけが聞こえていた。  きっと、これは彼女の手を握って、キスする場面なんだろうな。僕はそう思った。  そう思ったのに、僕の身体はそのとおりには動かなかった。  この一ヶ月半、彼女とたくさんの時間をすごして、僕は彼女がとても素敵な人であることを理解していた。  彼女と過ごす時間は楽しかったし、彼女が落ち込んでいたら、彼女の手を取って励ましてあげたい、彼女が泣きたいときには、そばにいて抱きしめてあげたいと思う。  でも、それはきっと恋ではない。  僕が僕のためにただ彼女とつながりたいと思うことは、たぶんない。  ここで、彼女が求める自分を演じることはできるだろう。おそらく彼女がそうしてほしいように、手を握って、キスをして、「好きだよ」と囁くことは、たぶんそんなに難しくない。  僕は彼女も含めてこれまで誰かに性的欲求を抱いたことはないけれど、性的に反応しないわけではなかった。例えばもし彼女がそれを望むなら、いずれはセックスして、家庭を築くことだってできるだろうと思う。  けれど、それに意味があるんだろうか。恋を演じた先に、幸せがあるんだろうか。  …僕には、その未来が見えなかった。 「…別れよっか」  そっと手を引っ込めた彼女の顔は、悲しそうな、あきらめたような、寂しい笑顔だった。そうさせてしまったのは自分なのに、勝手な僕の胸は痛んだ。彼女の膝の上でぎゅっと握られた両手を、僕はやるせない気持ちで見つめた。 「今まで、ありがとう。楽しかったよ。奏くん、優しくて、大人で、いつも気をつかってくれるから、私、お姫様になったみたいだった」  その両手にしずくがぽたぽたと落ちてくる。僕の前ではいつも笑っていた彼女らしく、泣きながら、その顔は微笑みを浮かべていた。 「奏くんが悪いんじゃないよ。奏くんの運命の人に、私がなれなかっただけ」  彼女は手で涙をぬぐってから、荷物を持ってベンチから立ち上がった。目に涙を浮かべながら僕ににっこりと笑って、 「だから、友達のままでいようね」  そう言って、彼女は去って行った。  僕はベンチから立つことも、頬の汗をぬぐうこともできずに、レンガが敷き詰められた地面に映る木々の濃い影を、絶望感にも似た気持ちで、ただ見つめていた。  このあと、この学舎のピアノ室で、彼と共作の作業をする予定があった。約束の時間までまだだいぶ余裕があるな、と僕は蝉の声を聞きながら思った。  僕たちの前に誰かが使っていたのだろう。予約していたピアノ室はまだエアコンの冷気がきいており、僕はピアノ椅子に座ってしばらくただ汗がひいていくのを感じていた。  作りかけの楽曲のメロディを弾いて、前回の打合せの振り返りをしながら、彼の到着を待った。  彼は時間どおりにピアノ室に現れて、いつもどおりに作業が始まった。 「ここ、たしかにメロディが下がるんだけど、詞は暗くしないほうが、逆に切ないんじゃないかな」  僕がそう提案すると、彼は「そうかもしれない」と言って、次回までに再考してくると答えた。 「ここの歌詞、俺は、こっちのほうがニュアンス出ると思うんだけど、奏、どう思う?」 「そうだね。僕もこっちがいいと思う」 「だよね。だったら、一音増やした方が歌いやすいんだけど、いける?」 「そうだね。こんな感じは?」  彼の要望どおり、一つ音を増やしたメロディをピアノで奏でてみる。そのとおりに彼が歌って、また別のパターンも試して、一番しっくりきたものをひとまず採用とする。 「じゃあ、一回ここまで流してみよっか」 「おっけー」  こんな風に、彼と話し合いを重ね、ときには行きつ戻りつしながら、よりよい楽曲を作り上げていく時間が、僕は何よりも好きだった。  たしか、彼はこのあと仕事があって、大学の前までマネージャーさんが迎えに来るはずだ。  その時間が迫ってきて、作業を切り上げて帰り支度をしているとき、とうとう彼に言われてしまった。 「奏、何かあった?」 「…わかっちゃう?」 「なんとなく」  僕は筆記用具を鞄にしまう手をとめて、さきほど彼女に言われた言葉について、彼に聞いてみた。 「悠人は、運命の人って何だと思う?」 「奏が使わなさそうな言葉だね。誰かに言われたの?」 (…敵わないなぁ…)  僕は苦笑しながら、先程の顛末を彼に話した。 「僕を傷付けないようにそう言ってくれたんだろうけど、運命の人って何だろうって思って」 「…人それぞれだと思うけど…」  僕はピアノ椅子に、彼は部屋に備え付けのパイプ椅子に座っているから、彼の方が少し低い位置にいる。防音室の小さな窓からの日差しが、色素の薄い彼の髪やまつげを映して、きれいだった。 「自分にとって生涯唯一の存在で、ずっと心の中にいる人、とか?」 「…恋じゃなくてもいいのかな」 「俺はいいと思うよ」  軽く肯定されて、僕は苦笑した。 「それなら、僕にとってはあんたになっちゃうけど、いいの?」 「…俺がだめって言うと思う?」  彼がとぼけた顔をして言うので、僕たちは顔を見合わせて笑った。  ちらっと部屋の時計を見ると、約束の時間が過ぎていた。 「時間、大丈夫?」  彼はポケットからスマホを取り出して時計を一瞥し、 「あーもーなんでそんな話をギリギリでするんだよ」  と言いながら片手で髪をかき乱して、ピアノ室のドアを乱暴に開けて外に出ていった。  バタンと音を立てて閉まったドアをぽかんと見つめながら、家に帰る気にもならないし、どうしようかなと思って、とりあえずまたピアノに向かおうとしたとき、再びドアが急に開いたので、僕は驚いた。  さきほど出ていったはずの彼が、ピアノ室のドアに手をかけて立っていた。 「…忘れ物?」 「マネージャーに電話かけてきただけ」  大学の古い防音室は電波が届きにくいから、わざわざ外に出て電話をかけたのだろう。 「仕事、いいの?」 「いいの。つか、そんなこと気にしなくていいから」  彼は僕の方に歩み寄って、ピアノ椅子に座ったままの僕の前に立った。 「ここで、一人で泣くの?」 「…泣かないよ」 「なんで。お前、自分には泣く権利ないって、自分は失恋してないから泣けないって、思ってんじゃない?」 「……」  彼の言うとおり、僕は恋していないから、失恋もしていない。しかも、僕はどちらかと言うと相手を傷つけた側になる。それなのに、泣くものなのだろうか。…泣いてもいいんだろうか。  彼に言われて、無意識に停止させていた思考がやっと動き出したようだった。 「恋とか恋じゃないとか、関係ないよ。誰だって相手の期待に応えられなかったらつらいし、自分が認められなかったら傷つくんだよ」  そう言われて初めて、自分がつらいと感じていること、自分だって傷ついていることを、僕は僕に認めてあげられたような気がした。 「奏、がんばったんでしょ? 泣いたらいいじゃん」  彼の優しい声に、まぶたが熱くなるのを感じた。 「…さっきみたいにあんたと音楽するのが一番癒されるから、それでよかったんだよ」  涙が零れるのを堪えながら、嘘ではない僕の気持ちを彼に伝える。 「こんな風に、泣くつもりなんてなかったんだ…」  言いながら、涙があふれて頬を伝う。  僕自身ですら気づいていなかった気持ちを、彼が代弁して、許してくれなかったら、僕は一人で泣くこともできなかっただろう。 「…俺の前で泣いてくれて、俺は嬉しいよ」  彼はそう言って、ピアノ椅子に座ったままの僕をそっと抱きしめてくれた。なかなか涙が止まらなくて、彼の服を濡らしてしまわないかと気になったが、なんだか離れがたくて、僕はされるがままになっていた。  しばらくして、ふいに彼のスマホのバイブ音が響いた。おそらくマネージャーさんだろう。 「今日ほど仕事に行きたくない日もないな」  うそぶく彼の胸を両手で押しやって、僕は涙に濡れたままの顔を上げて笑って見せた。 「そんなこと言わないで、がんばってきて」 「じゃあ、がんばれるように」  チュッと音を立てて、彼は僕の濡れた頬にキスをした。 「もう浮気にならないもんね」  そう悪びれて、彼は今度こそ本当にピアノ室を出て、仕事に出かけていった。  三年生も後半になると、ほとんどの学生たちは就職や進路のことをまじめに考え出す。  彼は特に迷いもなく今の仕事を続けていくようだった。すでに(高校時代から?)僕からすると恐ろしいくらいの収入があるみたいだったし、今のところ、別の道を歩んでみたいという気もないらしい。  僕はと言うと、今、僕が(一応)ミュージシャンとして契約している会社に、そのまま就職したいと思っていた。  小さい会社だったが、ミュージシャンのマネジメントだけでなく、作曲、編曲、演奏等の仕事の仲介、音楽スタジオの貸し出し、レコーディングのサポート等を主な事業としていて、アットホームな雰囲気も気に入っていた。  おそらく大学を卒業した時点では、ミュージシャンとしての仕事だけではまだ一人前には稼げないだろう。だから、そこで社員として働きながら、業界のあれこれを学んだり人脈を作ったりして、いつか音楽だけで生計を立てられるようになりたいと考えていた。  就職活動が本格的になるころ、その思いを社長に伝えたところ、ありがたいことに、卒業後、契約社員として雇ってもらえることになった。(「早くミュージシャンとして稼ぎ頭になってね」という恐ろしいエールまでもらった。)  菜月は、就職活動に精を出しているようだった。 「何かしらアートに関わる仕事に就きたいだけなのに、狭き門が狭過ぎる…」  と酔っ払って愚痴っていたが、それで終わらないのが菜月だろう。最終的には、どうにか納得できる会社に内定をもらえたそうで、彼と僕は飲み会で盛大に祝わされた。  四年生になると、卒業論文、卒業制作で忙しくなった。僕たちの学科は、自分の専門の制作に加えて、その作品に関する論文を、所属するゼミのテーマで書かなければならなかったので、二倍の労力が必要だった。  彼は、同じコースの仲間と共同で映像作品を撮影しているようだった。(論文はそれぞれのテーマで書かなければならないが、制作の方は共同でもよいみたいだった。)いつもは撮られる側なので、撮る側になるのは新鮮だと彼は楽しそうに話していた。  僕は、『マイノリティにとっての音楽の受容性』をテーマに楽曲を制作し、論文を書いた。  卒業式の日、彼と僕は式には出席せず、二人で大学のピアノ室にこもり、四年間を過ごしたこの場所での最後の楽曲を作っていた。  学生時代は、学校に行けばたまに顔をあわせたし、夏休み、春休みという長期休暇があって、その周期で共作するのが通例になっていた。  卒業したら、そんな僕たちの時間は変わってしまうだろう。けれど、彼と僕は特別な約束はしなかった。  場所が違っても、月日が流れても、僕たちは同じように音楽を作り続けていく。高校のときとは違って、今はそんな気がしていた。  変わっていく。でも、変わらないものもある。彼の声と僕のピアノの音が一つになるのを聞きながら、僕はそれでいいんだと思ったし、その変化を切なくも愛しくも感じていた。  演奏が終わったところで、二人のスマホがほとんど同時に鳴った。袴姿の菜月の写真がLINEのグループに送られてきて、彼と僕は笑った。  そのあとまた三人で飲みに行って、いつものように乾杯して卒業を祝い合った。  こうして、僕たちの学生時代は終わりを告げた。

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