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14.解放
大学を出ても、僕はしばらく実家で暮らしていた。学生時代からちょこちょこ仕事を受けていたし、作曲した楽曲の印税やYouTubeの収入も少しばかりならあったが、会社の通勤圏内で防音仕様かつグランドピアノを置けるようなマンションに住むのは難しかった。
彼の方は、卒業して半年くらいしてやっと時間ができたみたいで、高校時代から七年以上暮らした事務所の寮を出て、一人暮らしをはじめたようだった。LINEで引っ越しの連絡があって、「遊びに来てね」と書いてあったけれど、なかなかその機会は訪れなかった。
相変わらず、彼はテレビに映画に舞台に忙しくしているようで、毎日会社勤めをしてしばらく会わないでいると、遠い世界の人のように思えてしまうことすらあった。僕自身も音楽事務所の契約社員兼所属ミュージシャンとしての仕事に日々忙殺されていたし、(それを言い訳にしていることは自分でもわかっていたけれど、)なかなか自分からは彼に連絡できなかった。
けれど、彼はそんな僕の性格をわかってくれているのだろう。たまに時間ができると声をかけてくれて、学生時代より数は減ったものの、年に数曲は共作に取り組み、YouTubeの更新も続けていた。自宅に彼を連れて行くと、家族や近所の目が気になったので、会社の音楽スタジオを格安で貸してもらって、そこで作業をした。
CDにするわけでもなく、コンサートで披露するわけでもない。ただ二人で音楽をするためだけに音楽をする。彼の声を聞いて、彼にピアノを聞いてもらって、二人で意見を出し合って編曲して、完成したら、また次の楽曲を二人で作る…。
場所や立場が変わっても、歳月が経過しても、その楽しさは変わらなくて、仕事や人間関係がうまくいかないときでも、彼に会うと僕は僕になれるような気がしたし、安心できた。
就職した会社の仕事は多岐にわたり、毎日が忙しかった。もちろん失敗することや悩むこともあったけれど、僕にとってはすべてが勉強で、やりがいも感じていた。
社員としての業務の一方で、ミュージシャンとしての活動にも精を出した。作曲や編曲、楽曲のレコーディング、コンサートやイベントのピアノ演奏はもちろんのこと、アマチュアバンドのサポートやピアニスト役の俳優さんの指導と手元の撮影なんて仕事もあり、僕はなんでも引き受けて経験を積んだ。
地道な努力のかいもあってか、数年すると、音楽の仕事が軌道に乗ってきたような手ごたえも感じられた。
やっとそれなりの収入を得られるようになり、僕は一人暮らしを始めた。防音仕様のLDKと小さな寝室だけの部屋だったけれど、ピアノが弾けてゆっくりと眠れれば僕にとっては十分だった。
ごくたまに、いつもの音楽スタジオが空いていないときや、スタジオを借りるまでもないような作業のとき、彼が僕の家に来てくれることがあった。その度に、「今度、俺ん家にも来てよ」と彼は言ってくれたけれど、理由がなくて、やっぱり行けずじまいだった。
菜月とは、大学を卒業してからも、たまに食事に行ったり飲みに行ったりしていた。
小さな出版社に就職した菜月は、希望どおりにアート系の専門誌を担当していて、忙しいながらもそれなりに楽しく働いているようだった。
たいていは菜月から誘ってくれて、菜月と僕の二人で会うことが多かったけれど、待ち合わせ場所に行ってみると彼もいたり、飲みの途中で菜月から彼を呼び出すように言われたりして、三人になることもあった。
三人で飲んでいると、学生時代に戻ったみたいな気持ちになって、大学の思い出話、お互いの仕事の話や愚痴なんかで話が弾んだ。
菜月は僕たちのYouTubeチャンネルだけでなく、彼の出演作や僕の個人の仕事も暇なときにチェックしてくれているらしく、感想をもらったり制作の話を聞かれたりもした。
菜月は相変わらず恋愛を楽しんでいるようで、そのときどきの彼女の話をしてくれた。(ほとんど惚気だった。)おまけに、自分の話が一段落すると、「君たちはどうなの」と聞いてくるから、彼は迷惑しているようだった。
普段がどうかは知らないが、僕といるとき、彼は自分から恋愛の話はしない。けれど、彼の様子や雰囲気で、何となくだけれど、そういう相手がいるんだろうな、と感じられることはあったし、学生のころと違って、すぐに別れては次の彼女と付き合う、みたいなこともないようだった。
菜月に恋愛の話を聞かれたときも、昔は「今はいる」、「今はいない」くらいしか言わなかったのに、最近はしぶしぶながらも彼女の話をすることもあった。
そんな彼の変化を、彼の人生がよい方に向かっているんだろうと思いながらも、一抹の寂しさや焦りも同時に感じていることを僕は否定できなかった。
一方の僕はと言えば、あの大学三年生の夏以来、誰とも恋愛的に付き合えずにいた。
音楽の仕事をしていると、人との出会いは比較的多いと思う。その中で、素敵な演奏をする人だな、とか、歌っている姿が印象的だな、なんて思うことはもちろんあったし、僕のことを好きだと言ってくれる人もごくたまにいた。
けれど、あの夏、初めて付き合った相手を、僕を好きだと言ってくれた優しい人を傷付け、自分もまた傷付いた記憶は、知らぬうちに僕の中に深く巣食っていた。
僕の手に触れた彼女の手、そのときに感じた絶望的な気持ち、彼女の落胆した顔、別れを告げる悲しそうな笑顔、涙…。彼女は決して僕を責めなかったけれど、僕の中の記憶は僕を責め続ける。
恋をしない自分は、必要とされなかった。彼女の期待に、自分は応えられなかった。恋愛関係を前提として付き合っていたのだから、当たり前の結末だ。非難されるべきはきっと自分なんだろうということもわかっている。
それでも、この世界では、恋をする人が圧倒的に必要とされるという事実を突き付けられて、身勝手な僕は少なからず傷付いた。(もちろん相手を傷つけてしまったことを棚に上げるつもりはない。)
自分はただ自分であり、否定する必要はない。そう理性では理解している。この世界において、自分はただマイノリティに区分されるだけであって、誰にも責められる云われはないし、僕は僕のまま、ありのままでいていいんだと、僕はわかっている。
それでも、大多数の人間が当たり前のように恋愛をしてセックスをして生きている世界で、自分はおかしいんじゃないか、要らない存在なんじゃないかという思いに引っ張られそうになるときがあった。
そんな僕を引きとどめてくれるのは、音楽と彼の存在だった。
昔、酔っぱらった彼を寮の部屋まで送っていった夜、僕が僕でいられるのは彼がいてくれるからかもしれない、と何気なく口にしたことがあったけれど、今になってそれを実感する。
ただありのままの自分を全肯定してくれる人がいることは、世界に取り残されそうな僕を救い上げてくれた。
大学を卒業してから四年目の秋、とあるアーティストのコンサートツアーでキーボードを演奏する仕事をもらった。約三ヶ月間、断続的ではあるが、ほとんど同じメンバーで主要な都市を回るうちに、その中の一人のハープ奏者の女性と親しくなった。
年は僕より二つ上、楽曲によってまるで別人のような表情になる演奏が、とても魅力的な人だった。
最初は仕事終わりに仲間内で飲みに行くくらいだったけれど、コンサートツアーの仕事が終わると、二人で会う機会が多くなった。
お互いにミュージシャンとして尊敬し合えていたし、食事や読む本の好みも近く、一緒に過ごす時間は楽しくて充実していた。
僕の乏しい経験でも、彼女は僕に恋愛感情を持っていなさそうに感じられた。けれど、もし誤解させることになっても悪いと思ったし、何となく、彼女ならさらりと受け止めてくれるような気がして、僕はさっさと打ち明けてしまうことにした。
穏やかな寒さの冬の日だった。彼女のお気に入りのお店のカウンターで並んでお酒を飲んでいるとき、なるべく軽い話題に聞こえるように気を付けて、僕は恋がわからないということを話してみた。
「そうなんだ。伊東くんって独特の雰囲気があるなって思ってたけど、そういうことだったんだね」
彼女は特に驚くでもなく、むしろ何かを納得したように頷いた。
「だから、伊東くんといるの、ラクなのかな。私も昔から違和感があるんだ」
グラスの中の氷をくるくると回しながら、彼女は坦々と話した。
「恋愛したいとか、いつかは結婚したいって気持ちはあるんだけどね。好きかなーと思って付き合ってみても、なんでこの人とキスしてんだろうって思っちゃう。なんか、恋のために恋してるみたいな」
世の中には、僕みたいに恋愛をしない人や恋愛が苦手な人もいるし、人によって恋愛のかたちが様々であることも、もちろん頭では理解している。それでも、自分以外の人は自然に恋愛をしているように見えてしまっていたから、彼女が恋愛に違和感を抱きながら生きていると聞いて、僕は彼女を『同士』のように受け止めた。
「ごめんね、こんな話。好きになってもらってるのに相手に失礼だなって、自分でも思うんだけど」
「…そんなこと、ないよ」
彼女の言葉に、僕は自然とそう答えていた。 かつての自分を重ね合わせていた。
思い出すと、まだ胸は痛む。それでも、僕は彼女に話してみようと思った。もう五年以上も前になる、大学三年生の夏の昔話。僕が彼女の話を聞いて、自分には許せなかったことを彼女には許してあげられたように、彼女が僕の話を聞いて、もしそれが少しでも彼女の慰めになったらいいなと思った。
彼と菜月以外の人に話すのは初めてだった。うまく話せたかは自信がなかったが、
「みんな、どうして自然に人を好きになれるんだろうね」
薄くなったお酒のグラスに口をつけながら、彼女はカウンターの向こうを見て、まるで独り言みたいにそう呟いた。
僕には答えるすべがなかったけれど、彼女はそれでよかったみたいだった。
「こんな話、これまで女友達にもできなかったから、なんかすっきりした」
「それならよかった」
僕たちはお酒のグラスを合わせて笑った。彼女の飾り気のない笑顔と、グラスに映る灯りが目に焼き付いた。
そのあと、もう一杯だけお酒を頼んで、いつもように穏やかな会話を楽しんでから、僕たちは店をあとにした。
駅までの道、彼女はめずらしくぼんやりとしていた。
小さな駅だ。彼女と僕の電車は反対の方面だったけれど、ホームは同じだった。 彼女の方面の電車が遠くに見えたとき、不意に彼女が言った。
「私たち、付き合ってみる?」
突然のことに、僕は返事に窮した。電車の音が近付いてくる。僕の困惑を見て取ったのだろう。彼女は笑ってこう続けた。
「恋のために恋するんじゃなくて、ただ伊東くんといると楽しいから。恋じゃなくても、一緒に生きる道もあるんじゃない?」
冷たい風とともに滑り込んできた電車にためらわずに乗り込んで、彼女は笑顔で「またね」と手を振って去っていた。
それほど待たずに、僕の方面の電車がホームに到着した。僕はほとんど無意識にそれに乗り込み、遠くに電車の揺れを感じながら考えた。
『恋じゃなくても、一緒に生きる道もある』
彼女の言葉を頭の中で反芻する。
そんな道を、彼女と僕で切り開いていくことができるんだろうか。
彼女が僕に言ってくれたように、僕だって彼女といると楽しかったし、人間的に彼女に好意を持っている。
それでも、僕には、人と特別な関係になることへの恐れがあった。彼女に話しながらも胸の内で感じていたけれど、過去の傷は癒えてはいない。
彼女と付き合うということ。恋じゃなくても一緒に生きる道。車窓を流れていく夜景を目に映しながら、想像してみる。
これまでどおり、たまに会って食事をして、穏やかな会話をする。二人でどこかに出かけたり、お互いの家ですごしたりする。その日々がうまくいって、いずれ結婚するということになれば、お互いの家族に挨拶したり、一緒に暮らしたりする。
彼女の話を聞くに、たぶん彼女にとって、キスやセックスはそれほど重要ではないと思われたし、何より彼女は僕に『恋をすること』を求めないだろう。
それなら、もしかしたら、彼女も僕も傷付かずにすむかもしれない。新しい関係を築いていけるかもしれない。
多くの人が、おそらく彼や菜月がそうするように、パートナーを得て、家族を持って、好きな人とともに生きていく…。そんな可能性が、自分にもまだあるんじゃないか。
彼が過去の恋愛を乗り越えて、また誰かと出会い、よりよい関係を築いていこうとしているように、僕も彼女と新しい道を歩いていけるんじゃないか。
彼女の言う『恋じゃなくても一緒に生きる道』を模索してみることはできるんじゃないか。
その想像に、彼女との未来に無理はないように、そのときの僕にはそう思えた。
翌日、僕は彼女に電話をかけた。
「うまくいくかはわからないけど、僕でいいなら、付き合ってみよっか」
彼女はその場で了承してくれた。
数日後、改めて彼女と会って、今後の付き合い方について話し合った。
おそらく恋をしてその先で結婚するという流れにならないだろうから、期限を設けてはどうか、と彼女は提案してくれた。彼女は僕より年上だったし、いつまでもずるずると彼女を拘束するよりは何らかの区切りがあった方がいいだろうと思い、僕は頷いた。
相談して、期限は一年間とした。その間に、二人の具体的な未来を描けなければ、そのときはあきらめよう。そう約束した。
それからの一年間、僕たちは多くの時間を共有した。その日々は楽しくもあったが、おそらくお互いに複雑な気持ちも抱えていた。
彼女の態度は一貫して変わらなかった。付き合うようになって、休みを合わせてデートしたり、彼女の部屋で手料理をごちそうになったりするようになったけれど、必要がなければ、お互いに接触することはなかったし、彼女もそれを求めなかった。
そのことに僕は安堵しつつ、一方で一抹の寂しさのようなものも覚えてしまって、自分の身勝手さに苦笑した。
付き合い始めてから半年が過ぎたころ、残暑が尾を引く夜だった。いつものように、僕の家のソファに隣同士で座り、ちびちびとお酒を飲みながら映画を見ていた。膝を抱えて小さくなった彼女が眠たそうに眼をこする様子を、僕は可愛いなと思った。
このまま、何も気にせずに、僕の隣で眠ってくれたらいいのに。
けれど、彼女は緩慢な動作で眠気を振り払うように首を横に振ると、
「ごめんね、奏。私、帰るね」
そう僕に謝って、僕の部屋をあとにした。
一人、部屋に取り残された僕は、急に広くなったソファに横になり、しばらく目をつむってじっとしていた。
身体が重くて、何もできなかった。やるせなくて、空虚だった。
たぶん、僕たちはお互いに臆病だったのだろう。 相手にどれくらいの気持ちを与え、求めればいいのか、わからなくて、伝えられなかった。相手と同じだけの気持ちを返せないことの辛さを、僕たちは共有してしまっていたから。
季節は過ぎる。日に日に夕暮れが近くなり、今年も寒い冬が訪れる。約束の期限が近付いてくる。
いつか、二人にとって自然な距離感が見付かるのだろうか。そのために、一年間という時間は短か過ぎたのだろうか。
彼女と過ごした優しい日々を思い返すと、終わらせてしまうことが惜しくて、ずっとこのままでいたいという気持ちが僕の中に膨らんだ。けれどその一方で、冷静なもう一人の自分が、これ以上の時間を重ねても変わらないだろう、という諦観も持っていた。
ありのままを認め合い、自然体でただそばにいる。言葉にすればたったそれだけのことなのに、それがとても難しいことのように思えて、歯痒かった。
その日、僕はなるべくいつもと変わらないように彼女の家を訪れた。玄関のドアを開けると、出迎えてくれた彼女はもう泣いていた。
「私、奏と離れたくないよ…」
その涙を見て、一年も付き合っていたのに、僕は初めて彼女を胸に抱きしめた。
「僕も、離れたくないよ」
「じゃあ、このまま一緒にいよう」
その言葉は、僕の決意を揺らがそうとした。 けれど、苦労してどうにか思いとどまる。何度も何度も考えて、もう決めたことだった。
「…このままは、たぶんお互いにとって、よくないと思う」
きっと、それは彼女も感じている。だからこそ、僕が話を始める前から泣いていたんだろう。
「恋じゃなくても、私は奏と生きていきたい」
僕の腕の中で声を震わせる彼女の髪に、僕は頬を寄せた。柔らかくて、甘い匂いがする。この感触も、この香りも、今日が最初で最後だろう。僕の目からも涙があふれて、その髪を濡らした。
「…ありがとう。ごめんね…」
それ以上、もう何も言えなかった。
この一年間、楽しかったよ。たくさん優しくしてくれて、一緒にいてくれて、ありがとう。二人の未来をうまく見つけてあげられなくて、結局悲しい思いをさせてしまって、ごめんね。
僕はもう一度彼女をぎゅっと抱きしめて、そっとその腕を解き、そのまま彼女の部屋をあとにした。
それからしばらくの間、まるで脳の一部が凍り付いてしまったみたいに、感情が動かなかった。それなのに、一人でいると、ふとしたときに独りでに涙がこぼれて、僕はどうして泣いているんだろうと何度も思った。
日常を淡々をこなして、一ケ月が過ぎようとしたころだった。あの日以来、初めて、彼女からLINEのメッセージが届いた。
『今度仕事で会ったら、また友達になろう』
彼女らしい、絵文字もない、シンプルな一言だけのメッセージ。やさしく美しいハープの音色が聞こえたような気がした。
耳をすませるように、僕はそっと目を閉じた。
一年前の自分の選択は正しかったんだろうか。僕はこうなることを予期していたんじゃないだろうか。自分のために彼女を利用しただけだったんじゃないだろうか。もう僕に彼女と友達でいる資格なんてないんじゃないだろうか。
けれど、頭によぎったのは、彼女のあの飾り気のない笑顔だった。
「ただ伊東くんといると楽しいから」
あの日、彼女はそう言って笑ってくれた。きっと、今でもそう言ってくれるだろう。素直にそう思えた。
そっと目を開けて、彼女のメッセージを再度目でなぞった。僕は彼女に倣って、短いメッセージに思いを込めて、送信ボタンをタップした。
『すごくいい友達になれそうな気がする』
きっと僕はもう恋や結婚のために誰かと付き合うことはないだろう。
それは一種のあきらめでも、解放でもあった。寂しいような気持ちと、清々しいような気持ちが、たぶんちょうど半分ずつくらいだった。
周囲の人間が当たり前に言う『恋』に疑問を持ち始めてから十年以上の歳月を経て、僕はやっと恋を手放した。
大学を卒業して丸五年、仕事も軌道に乗っていた。友人にも同僚にも恵まれていて、今のところ、一人が寂しいとは思わなかった。
きっとこのまま自分の力で生きていけるだろう。
そう思ったとき、胸の内に自然と沸き起こったのは、僕をこれまで育ててくれた両親にきちんと話しておきたいという思いだった。
僕の両親は、もともと音大の先輩と後輩で、学生時代からの恋愛を経て結婚したと子どものころに聞いたことがあった。
母親はおしゃべりで、恋愛小説が好きだった。父親は仕事が趣味みたいな人で、本はあまり読まないようだったけれど、母親の話を適当なあいづちで、けれどまあまあ楽しそうに聞いていた。
そんな二人は、たった一人の息子に対してどんな未来を想像しただろうか。息子が二十代後半になり、同級生が結婚した、子どもが産まれたなんて話を耳にするようになって、何を思っていたのだろうか。
その手のことに限らず、記憶にある限り、両親は僕に何かを細かく聞いてきたり、必要以上に求めたり、ましてや強要したりすることはなかった。ピアノだって、最初のきっかけは両親の勧めだったが、続けることもやめることも今の道に進むことも、すべて僕の意思に任せてくれた。
きっと、親として、まったく気にならないということはなかっただろうに。負担にならないくらいの重さで、適度な距離をとって、僕をただ見守っていてくれていた。
そんな、優しい人たちだった。
僕の選択は、僕の生き方は、この人たちをがっかりさせてしまうんだろうな。この人たちが思い描いているであろう未来を、僕は実現できないんだろうな。そう思うと、つらかった。
話さない方がいいんだろうか。打ち明けることは、ただの自己満足なんじゃないだろうか。そんなふうにも思った。
それでも、いくら考えてみても、やっぱり、僕の気持ちは変わらなかった。
僕は、伝えたい。たぶん、伝えないといけない。
僕は、僕なりに生きているのだと。あなたたちが知っているような、世間によく知られているようなかたちではないかもしれないけれど、僕はこのまま生きていくのだと。
それが、僕を愛し、慈しみ、育ててくれた人たちへの、誠意と感謝のような気がした。
実家の最寄り駅の階段を下りると、春の日差しが目に眩しかった。駅前の人どおりは騒がしく、いつもの道なのになんだか少し緊張していて、自分だけが遠い世界にいるような気がした。
久しぶりに実家で夕食をごちそうになったあと、僕は準備してきたものを鞄から取り出して、姿勢を正した。
「突然で悪いんだけど、聞いてほしいことがあります」
それはLGBTQ+について一般向けにわかりやすく解説した小冊子で、僕はその中の『アセクシャル』のページを開き、両親の方に向けてテーブルの上に置いた。
厳密に言うと、アセクシャルは性的に惹かれないことを指し、恋愛的に惹かれないことを指すアロマンティックと区別される。けれど、まだどちらの概念も日本で認識されて日が浅いためか、まとめてアセクシャルとされることも多いみたいで、この冊子でもアセクシャルのページに両方の意味が書かれていた。正確性は欠けるかもしれないが、僕は両方に当てはまるし、両親にとっては、いくつも用語を並べられるよりもわかりやすいかと思って、これを選んで持ってきた。
「驚かせてごめん。僕はこれに該当すると思うんだけど、まずは読んでもらってもいい?」
両親はお互いに目配せして、恐る恐るといった様子でそのページに目を落とした。二人が文字を目で追うのを、僕はなるべく何も考えないようにしてただ待った。部屋の中はそんなに暑くないのに、手のひらに汗をかいていた。
頃合いを見計らって、僕は用意していた言葉を続けた。
「これまで女の子と付き合ってみたりもしたんだけど、やっぱり僕はそういう気持ちにはなれないみたいだった。僕ももうこんな年だし、ちゃんと話しておきたいと思って、今日は決心してここに来ました」
緊張でのどが張り付いたみたいになっていたけれど、ちゃんと声が出て、僕は少しだけ心を落ち着かせた。僕の声に引っ張られるようにして、両親はやっとのことのように冊子から視線を上げた。その顔は呆然としていて、たった今インプットした情報と目の前の自分たちの息子とをうまく結びつけられていないんだろうな、と想像した。
僕はまっすぐ両親の顔を見て、ゆっくりと言葉を選びながら、なるべく正確に自分の気持ちが届くように努めた。
「そこに書いてあるとおり、アセクシャルの人もいろいろみたいだけど、僕の場合は生まれつき…、なんていうか、お父さんとお母さんが自然に恋愛して結婚してきたように、僕にとってはそれが自然なんだと思う」
正確には、十代のころから僕なりに悩んできて、最近やっとそう思えるようになってきた、というのが本音だけれど、それは今は言いたくなかった。
「病気とか、もちろん育て方とかではないから、そこは心配しないで」
二人を少しでも安心させたくて、僕はどうにか笑って見せた。母親がごくりと息を吞んだのがわかった。胸が苦しかったけれど、それを外に出さないように努めて声を出した。
「アセクシャルでも、そうじゃなくても、幸せは人それぞれだし、僕は前を向いて生きていけると思ってる。ただ、僕は一人息子だから、お父さんもお母さんも、いろいろ期待する気持ちもあったよね。たぶん、僕はそれには応えられない。本当に、ごめんなさい」
両親の前で、最後に僕は頭を下げた。
そのまま、しばらく全員が黙り込んだ。僕が子どものころからリビングの壁にかかっている時計の秒針の音が、普段はほとんど気にならないのに、やけに大きく響いていた。
両親からの反応を待つのは、想像していたよりも怖かった。
悲しい顔、落胆した姿を見ること、勘違いなんじゃないか、まだわからないじゃないかと言われること…。僕を責めたりするひとたちじゃないということは身に染みてわかっている。だからこそ、つらかった。
けれど、僕が感じているのと同じくらいに、もしかしたらそれ以上に、両親は戸惑っているだろう。どんな反応が返ってきたとしても、もしそれで僕が傷ついたり否定されたと感じたりしたとしても、それはただ僕の親としての思いがそうさせているだけで、両親の意図ではない。 僕は、これまで僕を育ててくれた二人の人となりを知っている。それを信じていればいいだけだ。
張り詰めたような沈黙を破ってくれたのは、父親だった。
「奏、顔をあげて」
そう言われて、僕はゆっくりと頭を上げた。父親は、幼いころに見たようなやさしい顔をしていた。たくさん練習したのに思うように演奏できなかったコンクールの帰り道を思い出した。
「謝らなくていい。奏の人生なんだから」
テーブルの下で、父親の手が母親の手にそっと触れたのがわかった。
「…そうよ。奏が幸せでいてくれたら、それでいいの…」
母親の目元は赤くなっていて、その声は震えているように聞こえた。それでも、そう言って精一杯の笑顔を見せてくれた。
二人とも、結婚や子どもについては、一言も口に出さなかった。「期待していなかったと言ったら嘘になるけどね」みたいな一言すらなくて、僕は今更ながら、両親のただ与えるだけの愛に守られていることを知った。
両親が引き留めるのをやんわりと断って、僕は実家をあとにした。照れくさかったけれど、小さく「ありがとう」と言って両親に手を振った。
通りに出てふと見上げると、空に月が浮かんでいた。もう十年も前、僕の家に遊びに来てくれた彼を駅まで送った帰り道、僕は同じように月を見上げていた。
無性に彼に会いたくなって、彼と音楽を作りたくて、僕はその場で彼に電話をかけた。
満月は明日だろうか。明後日だろうか。コール音が聞こえる。彼の声が聞こえる。
駅までの道。今僕が向かうのは、あの日とは反対の方向。けれど、この道を照らすのは、同じ淡い光だ。
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