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15.ただの一番好きな人
その翌週、いつもの音楽スタジオで共作の作業をしたあと、僕から彼を飲みに誘った。
スタジオから少し歩いたところに、会社の人や仕事の関係者とたまに訪れるダイニングバーがある。カウンター席が並ぶ小さなお店だったが、奥に隠れ家的な個室があると前に聞いたことを思い出して、念のために電話をかけてからそこに立ち寄った。
おそらく何かを察していたとは思うけれど、彼は「いい雰囲気のお店だね」なんて言っていつもの調子で笑っていた。
個室には、二人掛けのソファが二台、ローテーブルを挟んで置かれていた。僕たちは向い合わせに座り、ひとまずそれぞれの好みのビールと適当な料理を頼んだ。
「お疲れ」と杯を合わせて、彼は幸せそうにビールで喉を潤す。その顔が子どもみたいだと僕は毎回思う。(飲んでいるのはビールだけれど。)
とりとめもなくお互いの仕事や音楽の話なんかをして、お腹を満たしながら、僕は何をどう話そうかとぼんやりと考えていた。
昔から相変わらず、僕たちは恋愛の話をほとんどしない。僕は彼女のことを彼に話していなかったし、彼の方もたぶん半年前くらいに長く付き合っていた人と別れたようだったけれど、僕には一言も話さなかった。
何も言わない。何も聞かない。でも、いつもどこかで気にしている。気にしながら、ただいつもどおりそこにいる。そのことに僕はずっと救われてきたし、彼にとってもそうなんだろうと思う。
だから、僕が何を話しても話さなくても、うまく話せても話せなくても、彼はきっとただそこにいてくれるだけ。僕の話を聞いて、受け止めてくれるだけ。ただそれだけ。それでいい。それがいい。
二杯目のお酒も少なくなってきたころ、
「ちょっと強いの頼もっか。その方が話しやすいでしょ」
そう言って彼が僕にグラスを振って見せるので、
(やっぱり敵わないなぁ…)
いつかのように僕は苦笑して頷いた。
彼がワインカクテルを頼むと言うので、僕も同じものをお願いした。昔は彼の方がお酒に弱かったのに、社会人になってからの酒量の差なのか、最近は僕の方が先に酔っ払ってしまう。今はそれがありがたい。
ほどなくして、店員さんがお酒を持ってきてくれた。きれいなグラデーション。一口味わってみると、甘くておいしいけれど、アルコール度数は高そうだ。
彼は「おいしいね」と言って微笑む。その声は優しくて、耳に心地いい。きっと僕がこれから話そうしていることの検討もだいたいついているんだろうな、とまたグラスに口を付けながら思う。
ほどよく回り始めたアルコールと彼のやわらかな空気に後押しされるようにして、ようやく僕は話を切り出した。
「…仕事で知り合った人と、一年位、付き合ってたんだ」
「うん。何となく、気付いてた」
「大学生のとき、僕に告白してくれた子がいたの、覚えてる?」
「もちろん、覚えてるよ」
「あれ以来、人と付き合うのが怖かったんだけど、今回は大丈夫かなって思ったんだ」
「どうして、そう思ったの?」
「ちょっと僕に似てたから。昔から恋愛に違和感があるって言ってた。どうして他の人は自然に恋ができるんだろうって、こんな風にお酒を飲みながら話した」
僕はそのときのことを思い出しながら、甘くて、でもちょっとだけ苦いカクテルを口に運んだ。
「彼女が言ったんだ。『恋じゃなくても一緒にいる道』があるんじゃないかって。もしかしたら、彼女とその道を見つけらるかもしれないって思った」
「…そっか…」
「でも、なんかうまくいかなくて…」
彼女との一年間を思い返して、僕は目を伏せる。
彼女となら、もしかしたら。そう思った。彼女と過ごした日々は楽しくて、温かくて、けれど、少し寂しかった。どこかがすれ違っていた。
「彼女と別れて、悲しかったけど…、でも、今はちょっとほっとしてるんだ。恋とか、結婚とか、もうがんばらなくていいんだって…」
それは、身勝手な本音と、ただの強がりだったかもしれない。僕は飲みかけのグラスをテーブルに置いて、うつむいた。
正面に座っていた彼が、不意に席を立つ気配がした。それでも僕が顔を上げられずにいると、今度はソファが沈み込む感覚がして、その次の瞬間には、僕の身体は彼の腕の中にそっと包み込まれていた。
僕は驚き、知らず身を固くする。
「…いや?」
僕の耳元で、彼がささやくように問いかける。
「いやじゃないけど…、酔ってる?」
「酔ってないよ。…ただこうしたくなっただけ」
いつもより少し低くて落ち着いた声も、子どもをあやすみたいに髪を撫でてくれる手も、優しくて、温かい。
…だめだ。急に瞼が熱くなる。
薄暗いバーの個室とは言え、こんな場所で抱きしめられて泣いてしまうなんて、いい年して恥ずかしい。頭の片隅の理性はそう言っているのに、彼を突き放せないのは、僕が酔っ払っているせいだろうか。
「…もう、死ぬほど、泣いたんだけどね」
あきらめて彼に身を任せると、身体の力が抜けて、張り詰めていた気持ちもほどけていくようだった。
「死ぬなら、俺と一緒に死ぬか、俺より後にしてよ」
「なにそれ」
彼の冗談に笑いながら、大学生のときに彼女と別れたときもこうやって慰めてもらったな、なんて遠い夏の日の記憶がよみがえった。何年経っても変わらない優しい腕の中、その温もりに安心して、僕は彼に甘えた。
どれくらいそうしていただろう。しばらくすると、だんだんと気持ちが落ち着いてきて、涙の気配も遠ざかってきたようだ。それを感じ取って僕を笑わせようと思ったのか、ただ暇を持て余したのか、彼は僕の髪をくるくると弄んだり僕の耳を指先でなぞったりして遊び始めた。
「…くすぐったいよ…」
僕が小さく笑いながら言うと、
「ついつい、かわいくて」
彼もくすくすと笑いながらそう言った。
僕の目の前にも、彼の耳がある。酔っぱらいの僕の頭はぼんやりとしていて、
(僕も、触りたいな…)
そう思うままに、指先で彼の耳に触れて、そのやわらかい耳朶をそっと唇で食んだ。
「ちょっ…」
彼が慌てて身体を離す。その反応に、僕も遅まきながら我に返った。
「…ついつい、かわいくて」
ごまかすみたいに、同じセリフを言ってみたら、彼は僕がくわえた方の耳を手で押さえたまま、またくすくすと笑い出した。
向かいの席に置きっぱなしの彼のグラスには、まだお酒が残っていた。僕はそれを手に取って彼に手渡し、自分もグラスを手に取ると、杯を合わせて、度数の高いお酒を口に流し込んだ。
僕が空のグラスを振りながら彼に笑って見せると、
「いいね」
彼もそう言って笑って、グラスをあおって空にした。
二人で次のお酒を選んで、個室の扉の隙間から店員さんを呼ぶ。店員さんが来てから、彼が僕の隣に座ったままなのに気付いて、ちょっと恥ずかしかったけれど、店員さんも彼も気にしないみたいだった。
お酒を待っている間、一つだけ残っていた三角形のチーズをつまんで、一口かじる。酔っ払っているはずなのに、気分はすっきりしていた。久しぶりに泣いたり笑ったりしたからだろうか。
食べかけのチーズを片手にそんなことを思っていると、不意に、
「味見」
彼がそう言って僕の手をひょいっと引き寄せ、そのまま自分の口に運んでチーズを一口かじった。
「おいしい?」
僕が聞くと、彼は僕の手を解放し、もぐもぐと口を動かしながら答えた。
「んー、お前が好きそうな味」
そう言われて、残りのチーズを口に放り込み、再度味わってみる。さっきはあまり意識していなかったのに、確かに僕の好みの酸味と苦みだ。自分のことなのに、彼に言われて気付くなんて、なんだかおかしい。
個室のドアがノックされる。お酒を持ってきてくれた店員さんにお礼を言って、ドアが閉まるのを待ってから、なんとなく彼と目を合わせて、なんとなく同じタイミングでグラスを傾ける。
やっぱり、なんだかおかしい。
二層の色がきれいなカクテルを目と舌で堪能しながら、僕はまた考えてみる。
彼と僕は付き合いは長いけれど、いつも一緒にいるわけではない。社会人になってからなんて、数ヶ月間会わないこともざらにある。たまに会ったって、たいてい音楽スタジオで共作の作業をするだけだ。楽曲の話か、すぐに忘れてしまうような世間話しかしない。
彼女と出会ってからは、彼女といる時間の方が圧倒的に長かった。毎週のように同じ時間を過ごし、同じものを食べ、同じものを見て、お互いの好きなもの、苦手なもの、たくさん話をした。
それなのに、どうしてなんだろう。どうしてこんなに近くに感じるんだろう。何の他意もなく寄り添えるんだろう。僕よりも僕のことをわかってくれるんだろう。
どうして、彼なんだろう。
「…実験…してもいい?」
「実験?」
オウム返しの彼の問いかけはごもっともだったが、僕は返事もせずに『実験』を続行した。
グラスをテーブルに置いて、さっきとは反対に、今度は僕から彼の方に身体をそっと預けて、もたれかかってみる。
「ちょっ、こぼれるよ…」
そう言いながらも、やっぱり彼は僕を拒否したりしない。中身をこぼさないように彼も自分のグラスをテーブルに置いて、僕の身体を抱きとめてくれる。
『実験』は成功。…なのだろうか。
「…何の実験?」
「んー、なんだろね…」
彼に聞かれても、自分でもよくわからない。こういうのを支離滅裂というのだろうか。とにかく、相当酔っているみたいだ。
『実験』の体勢のまま、僕は背中に彼の温もりを感じて目をつむった。
「ねぇ、悠人…」
「ん?」
「あんた以外にどうやって甘えたらいいんだろ」
「…それ、殺し文句?」
「殺されてくれる?」
「とっくに殺されてる」
「死体にしては、あったかいね」
「お前、酔ってる?」
彼はため息をついて、さっきみたいに僕の身体に両腕をそっと回して、僕の肩にその頬を乗せた。
「奏」
耳元で静かに名前を呼ばれて、彼の唇の体温を感じる。僕の前で組まれた彼の両腕に、僕はそっと手のひらを重ねる。アルコールの効果もあって、このまま眠ってしまいたいくらいに気持ちがいい。だからなのか、
「俺じゃ、だめなの?」
その声が僕の耳から脳に届くまで、すごく時間がかかったように感じた。
「…何が?」
「『恋じゃなくても一緒にいる道』の相手」
「…何、言ってんの?」
声が震えていないか気になったけれど、どうにかそれだけ言葉を絞り出す。
「女じゃないとだめ?」
「…そういうことじゃないよ…」
「なら、俺でいいじゃん。俺なら、そばにいたいときにそばにいるよ。いつでも甘えられるよ」
僕がやっとその意味を理解したとき、それは僕にとって恐ろしく甘美な誘い文句になった。
今、僕は一人でも寂しくない。それは、両親や菜月が僕のことをわかってくれて、仕事や仲間に恵まれていて、そして、彼がいてくれるからだ。
けれど、ずっとこのままではいられないことも、僕はわかっている。両親はいずれ年老いていなくなってしまう。菜月もいつか生涯のパートナーを見つけ、場合によっては遠くへ行ってしまうかもしれない。そして、彼もまた誰かと恋をし、結婚して家庭を築くだろう。
そうなったとき、僕はどうなるんだろう。寂しいと思ってしまわないだろうか。僕が年をとったとき、僕が死ぬときに、誰かにそばにいてほしいと思わないだろうか。もし、それが彼なら、僕はどれだけ満たされるだろうか。
その想像に理性を奪われそうになって、僕は慌ててかぶりを振る。
だめだ。ここで頷いたら、きっと、取り返しのつかないことになる。
「あんたは、女の人を好きになるでしょ。いつか結婚だってするかもしれないのに、そんな道、選んでどうすんの」
本当はただ頷いてしまいたいのに、防衛本能みたいなものが、それを僕に許してくれない。
いっそここから逃げ出してしまいたいのに、彼の腕は僕を離してくれない。
「恋とか結婚より、奏を選んだら、だめ?」
「…だめ…だよ…」
自分にそう言い聞かせるみたいに、自分を否定するみたいに、僕はうつむいてそう呟く。彼の目は見られない。
彼は僕とは違う。彼は優しいから、僕の話を聞いて、僕がかわいそうになって、僕に合わせてくれているだけだ。今、彼に恋人はいないみたいだけれど、彼はきっとまた恋をして、いつか結婚して、幸せになる。その邪魔になんて、なりたくない。
「あんた、子どもが好きだって言ってたじゃん。結婚して、子どもや孫にかこまれて、幸せなおじいちゃんになってよ」
高校時代、初めて僕の家に来てくれたとき、彼は姉の子どもがかわいいと言って笑っていた。その無邪気な笑顔を、僕は忘れられない。きっと彼はその笑顔のまま、自分の子どもを誰よりも愛して、幸せな家庭を築くだろう。彼は、そうすることができる。
僕と違って。
(……)
自分の考えに勝手に自分で傷付いている僕に追い討ちをかけるように、
「…その未来で、奏は笑ってんの?」
そう言い放った彼の声は冷たくて、いけないと思いながらも、僕は想像してしまった。
彼が家族に囲まれて笑っているその向こうで、僕は少し離れて一人でそれを見ている。彼が僕の方を向いてくれるのを、僕はただ待っている。
「……」
喉がひりついて、口から言葉が出てこない。無意識に唾を飲み込む。
「…ごめん、言い過ぎた」
そんな僕を気遣うように、彼は僕の髪にくしゃりと指を入れて頭を撫でて、言葉を続けた。今度は優しい声だった。
「たしかに、俺は女の子を好きになるし、まぁ、性欲もあるし、できたら子どもも欲しいけどさ。でも、この先、お前より好きな人なんて、現れないよ。…何て言うんだろ…。お前の隣にいるとき、一番ラクに呼吸できるような気がする。…奏はそうじゃない?」
彼の問いかけに、僕は頷くことも否定することもできなかった。
「恋でも、恋じゃなくても、別にいいじゃん。そういうの、全部、引き換えにしてもいいって、ただお前の『家族』みたいな存在になれたいいなって、そう思ったんだ」
僕は目を閉じて、その優しい声に耳を傾けていた。
夢みたいだ。このまま、彼に抱きしめてもらいながら、彼の体温を感じながら、眠りについて、その夢の中に入っていけたらいいのに。
「…その言葉だけで、十分だよ」
けれど、そんなことは夢だって、わかっている。
彼がそう言ってくれるように、僕だって、彼に幸せになってほしい。
僕が仕事をして彼以外の人と音楽をするようになったり、彼女と付き合って別れたり、両親にカミングアウトしたりして、迷いながらも人生を歩んでいっているように、同じ歳月の中で、彼も色々な経験をして、誰かと付き合ったり別れたりして、少しずつ変わっていっている。
その中で、今はそう思わなくても、いつか彼も結婚したいと思うようになるかもしれない。
そうなったときに、祝福してあげられる、そんな自分でいたい。
今、僕がここで頷いてしまったら、それは叶わないだろう。もし彼が言うように、彼がその道を選んだとして、それを彼が後悔するようなことになったら、その気配を僕が感じ取ってしまったら、たぶん、僕は耐えられない。そのときはもう笑顔で送り出してなんてやれない。
そして、そうなったら、きっと僕だけでなく彼も苦しむ。僕を傷付けないように、僕を一人にしないように、優しい彼は自分を責めて傷つき、苦しむだろう。
そんな未来は、僕は望まない。その日におびえて生きるなんて、僕にはできない。
「今のままの僕たちでいよう」
僕は彼が頼んだカクテルのグラスを見つめた。きれいな二色の層。一度混ざり合ってしまえば、きっともう元には戻らない。
「恋人とか、家族とか、そんなの、いいよ。ただの誰よりも好きな人。一緒に音楽を作る人。僕にとっては、それだけでいい」
誰だって、未来のことなんてわからない。それでも、人は永遠を願い、結婚したりパートナー制度を結んだりする。そんなことは僕だってわかっている。
けれど、僕は、怖かった。
彼を手に入れてしまうこと。彼の未来を変えてしまうこと。彼の可能性を奪ってしまうこと。彼の重荷になること。
そして、彼を失うこと。
僕にとっては、それが何よりも怖い。
今、僕の全身に彼の温かさを感じる。すべてを包み込んでくれる腕がある。一番近くに彼がいる。
「…それだけで、いいんだ」
「…恋人でも、家族でもないけど、一番好きな人?」
「うん」
束の間、彼は考えるように黙り込んでいたけれど、
「…それ、最高だね」
そう言ってきれいに微笑み、僕の頬にキスをした。
その笑顔は、少し寂しそうに見えたけれど、それは僕が寂しかったせいかもしれない。
そのあと、もし僕たちが『家族』になったら、という話で、お酒を飲みながら小一時間ほど盛り上がった。(家族にならない、と決めたばかりなのに。)
一緒に住むとか住まないとか、パートナー制度がどうとか、お互いが死んだらどうするとか、夢のまた夢みたいな話は何も考えずにできて楽しかった。
帰り際、彼に耳打ちされて、
「そういえば、奏、俺のこと、一番好きだったんだね」
と例のきれいな笑顔で言われて、僕はしまった、と思った。話の流れで、つい言ってしまった。
僕が絶句していると、「じゃあ、またねー」と手を振って、彼は上機嫌で帰っていった。
それからまた一月くらいして夏の気配が濃厚になってきたころ、僕は菜月を食事に誘った。
自分の中でやっと気持ちが落ち着いてきたのだろう。彼女と出会い別れたこと、それを機に恋や結婚をあきらめたこと、家族にカミングアウトして受け入れてもらえたこと、菜月にも知っていてもらいたいと思った。
菜月に会うのは久しぶりだった。僕の話を一通り聞き終わると、菜月は、
「昔、私、余計なことを言ったのかもしれないね」
と言って謝った。僕は首を横に振って、
「菜月の言ったとおり、いい経験になったよ。自分の中で区切りをつけるのに、必要だったんだと思う」
と正直な気持ちを伝えた。
そのために傷付けてしまった人に対して、罪悪感はやはりあったけれど、一緒にすごしてくれたことへの感謝の気持ちも、同時に感じていた。
菜月は、僕のカミングアウトが成功したことを祝って、改めて乾杯してくれた。
「菜月と飲むの、久しぶりだよね。忙しかったの?」
僕たちが会うときは、彼も含めて三人のときも、菜月から誘ってくれることが多かった。
「ちょっとね。今までは編集だけだったんだけど、ライターもすることになったんだ」
菜月は小さな出版社でアート系の専門誌を手掛けている。
「すごいね。何を書いてるの?」
「これだよー」
鞄から雑誌を取り出してページをめくり、僕に見せてくれたのは、『LGBTQ+αrt』と題された見開きの記事だった。『第3回』と記載されているので、どうやら連載らしい。
「まだ三回だけど、結構好評なんだ」
LGBTQ+の人のアート作品を紹介するのはもちろん、それに加えて、LGBTQ+の人がアート作品をどう見るかを当事者の目線で語っていきたい、と菜月は意気揚々と話してくれた。
著者紹介の欄には、菜月の名前と写真、そして、レズビアンであることを公表している旨が記されていた。大学時代と同様に、職場でもカミングアウトして、彼女は自分らしく生きているようだ。
バックナンバーもWebで読めると言われて、その場で一読させてもらった。菜月の文章はわかりやすく、LGBTQ+の人だけに留まらず、すべての人を受け入れるような優しさと包容力があるように感じられた。大学時代から、僕は菜月のことを尊敬していたけれど、こんな才能もあったんだな、と僕はまたその気持ちを新たにした。
少し照れくさそうにしなからも、菜月の表情は誇らしげで、こんなに力を入れて取り組める仕事なら、忙しくてもきっと大丈夫なんだろうな。そう僕が思ったのも束の間、お酒が入ってくると、その声はトーンダウンしてきた。
どうやら、菜月にしてはめずらしく(僕が知っている限りだったけれど)、恋愛で悩んでいるらしい。
「詳しいことは話せないんだけどね、その子はたぶん私のことは好きになってくれないんだ…」
そう前置きしてから、菜月は話し始めた。
相手の女の子は取引先の印刷会社に勤めていて、菜月とは仕事で知り会ったそうだ。どこか人に対して臆病というか、線を引いているというか、そんな雰囲気が気になって、菜月からお昼休みのランチに誘った。
いつものごとく、まずは自己紹介がてら自分がレズビアンであることを打ち明けたところ、彼女は同僚から聞いてすでに知っていたらしい。(学生時代もそうだったが、菜月はどこでも有名人のようだ。)
「LGBTQ+に対してだけじゃなくて、あらゆることに偏見や先入観を持ちたくないと思ってるんだけど、それでもやっぱりちょっと緊張するな…」
そう言ってはにかむ彼女の笑顔を見て、私はきっとこの子を好きになるんだろうな…、と菜月は思った。
それからプライベートでも食事やお茶に行くようになると、どうやら彼女は男性が苦手で、夜の外出を避けているようだと気付いた。初めてランチをしてから数ヶ月、菜月はもう彼女に対して恋愛感情を自覚していて、ある日の食事の席で彼女の力になりたいと伝え、同時に告白した。
彼女は、過去の経験のために男性に恐怖感があり、夜の駅に近付けないということ、けれどもともとは男性を恋愛対象としていたし、その出来事があって長い間恋愛から遠ざかってきたから、菜月の気持ちをどう受け止めていいかもわからないということを打ち明けてくれた。
自分のことを好きになってくれなくても、彼女のトラウマも含めて、自分が彼女を支えてあげられたらいいなと思っている。そう言って、菜月は気丈に笑っていた。
菜月の仕事と恋がうまくいくように願いながら、僕は菜月に手を振った。
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