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16.MUSIC FOR ALL YOU
彼女と別れ、両親にカミングアウトしてから、季節が一つめぐっていた。 そんなタイミングで、この仕事に参加できたのは、あとから思えば、偶然とは思えないようなターニングポイントだったのかもしれない。
僕の社用メールアドレスに、新しい仕事の相談があるというメールをくれたのは、ピアノ演奏でたまに出演させてもらっている音楽番組のプロデューサーだった。
打ち合わせの場所は、テレビ局の会議室。テレビ局の内部は複雑な作りになっていて、独特な雰囲気もあって、初めてではないのに僕はまだ少し緊張する。
約束の時間にはまだ少しだけ早かったけれど、一呼吸ついて会議室のドアをノックすると、
「どうぞ」
聞き間違いようもない彼の声がして、まさかと思ってドアを開けたらやっぱりその顔がいた。
「なんでいるの」
「…ひどいな。俺だって奏が来るなんて知らなかったよ」
会議室にはロの字型にテーブルと椅子が並べられていて、僕はどこに座ろうかと迷ったが、彼に「こっち」と言われて彼の隣の席に少し距離を置いて座った。
ここに彼がいるということは、同じ番組に出演するということだろうか。
彼と僕の間の暗黙の約束として、共作は趣味として動画サイトで公開するだけで一切商業化しないことになっている。(取材等で聞かれても、彼はノーコメントを貫いていると聞いていた。)
今回の仕事がそこに関連する内容なのであれば断るしかないなぁ、と考えていたら、会議室のドアがノックされた。
彼がまた「どうぞ」と答えると、プロデューサーが「お待たせしてすみません」と言いながら入ってきた。
プロデューサーの名前は小野さんといって、年はおそらく僕たちより一回りくらい上、明るく気さくで、けれどよく周りを見ている、そんな印象を僕は持っていた。音楽番組の撮影でも、メインの歌手の人だけでなく、伴奏の僕にも気を遣ってくれる。
立ち上がって挨拶をする僕たちに、小野さんは軽い調子で席をすすめると、
「内緒で呼んでごめんね」
手を合わせるような仕草で、如才なく断りを入れた。
「ほんとですよ」
とわざとらしく顔をしかめて文句を言う彼と、平謝りする小野さんの様子を見るに、どうやら二人とも顔見知りのようだ。
小野さんはペットボトルのお茶と一枚の紙の資料を僕たちに手渡すと、前置きもそこそこに早速説明を始めた。
BS放送の深夜枠で新しい音楽番組が制作されることになり、小野さんが企画から任された。放送は十月から十二月のワンクール。現在小野さんが担当している夕方、地上波の番組は、毎週三組程度のゲストが出演して、主に新曲を披露するという内容になっているが、新番組は趣の異なるものにしたいと考えている。小野さん曰く、
「眠りの前の三十分を、ピアノと歌だけの上質な音楽でゆったり過ごしてもらう…みたいなイメージで、広く浅くよりもニッチな感じ」
アイドルやバンド、シンガーソングライターといったジャンルを問わず、毎回、一組だけゲストを呼んで、代表曲や隠れた名曲をピアノ伴奏だけで歌ってもらい、楽曲やゲスト自身についてトークしてもらう。そのピアニストとして、夕方の番組の方にたまに出演している僕を、 MC(司会進行役)として、彼を起用したい、ということらしい。
「なんとなく伊東くんの名前を検索してみたら、相沢くんの同級生で、しかも今でも二人で音楽活動してるって出てきて、びっくりしたよ」
「あれは趣味なので、番組では使えないですよ」
すかさず彼が釘を刺すと、
「わかってるよ。僕が知らなかっただけで、その辺りの相沢くんのガードが固いって、有名みたいだね。もったいないとは思うけど」
小野さんはそう言って笑った。
どうやら、危惧したような内容にはならなさそうだ。
僕がひとまず安心していたら、軽く片手を挙げて断りを入れてから、彼は小野さんに質問した。
「トークは俺、演奏は伊東、という認識でいいですか」
「そこは調整させてもらえたら」
小野さんは軽く返したが、彼はひかなかった。
「この仕事、受ける、受けないの話になるんですけど」
彼の態度はかたくなで、話が通じなさそうだと思ったのか、
「えーと、伊東くんはどう?」
と小野さんは僕の方に聞いた。
僕は彼の方をちらりと見て、どうしたものかと考えてみる。彼と一緒に仕事をするのは初めてだったが、こんな取り付く島もないような言い方はおよそ彼らしくないような気もする。
その理由に思いを巡らせて、ふと思い出したのは、もう十年以上も昔、高校の卒業式の日に彼が話してくれたことだった。
幼いころから俳優として働いていて、自分がいないように感じるときがある。僕と音楽をしていると、自分が自分でいられるような気がする。たしか、彼はそんな風に言っていた。
今でも、彼は僕のことをそのように思ってくれていて、それが彼のかたくなな態度の理由なのだとしたら、僕はそんな彼の気持ちを守ってやりたい。
それに、僕にしても、ピアノ以外で人前に出ることは苦手だったし、しかもそれを彼と一緒に…と想像すると、なんとなく自分の居場所が他人にさらされるような気がして、余計に乗り気にはなれなかった。
「…僕は人前で話すのが得意ではないので、彼は気をつかってくれているんだと思います。ピアニストとしての仕事はもちろんお受けしたいんですが、できれば相沢の言うとおりにしていただけると助かります」
それも嘘ではなかったので、僕はそう小野さんに伝えた。小野さんは、
「うーん、同級生の二人っていう画が欲しかったんだけどねぇ」
と言って苦笑していたけれど、僕が「すみません」と謝ると、「いいよ、いいよ」と手を振って見せた。
「もともと今日はお伺いだけのつもりだったんだ。まだ企画の段階だから結構好きにできると思うし、どんな番組にしたいかも含めて考えてみてもらえたら嬉しいです」
そう言って小野さんは頭を下げると、次の予定があるらしく、
「この部屋、しばらく使ってもらっていいから」
と言い残して、さっさと会議室を出て行ってしまった。
会議室に取り残された僕たちは、ひとまずペットボトルのお茶をすすった。
「どうする?」
僕が問いかけると、
「奏はやりたい?」と返された。
「ピアノは弾きたいな」
「だよね。俺だけ断ろうか?」
彼の言葉に僕は驚く。
「なんで?」
「自意識過剰かもしれないけど、」
彼は僕の方をうかがうように言葉を続ける。
「伊東奏の名前のとなりに俺の名前が出てくるの、いやじゃない?」
何を今さら、と僕は思ったが、もしかすると彼はずっと気にしていたのだろうか。
たしかに、高校生のころに初めて二人の楽曲を僕のYouTubeチャンネルに公開してから、現在に至っても、無名の僕が有名な彼を利用している、といった批判的なコメントはちらほら見られたし、同級生が有名人でいいね、と皮肉のように言われることもたまにある。
けれど、いくら高校生の僕だって、それくらいは覚悟して、共作を僕のYouTubeチャンネルにあげることを決めた。
それに、彼はそれを認めないかもしれないが、僕がプロとしてやっていくために彼の名前を利用したことは、結果的に事実だ。無数の作品が世に送り出される中で、僕の作品が多くの人に聞いてもらう機会を得られたことも、今、僕がプロとして生計を立てられていることも、少なからず彼の名前のおかげだろうし、それを否定する気もない。
昔は、それを引け目に思うこともあった。けれど、今はもうあまり気にしていない。
僕たちはただの高校の同級生で、趣味で一緒に音楽を作って、それをネット上に公開しているだけだ。僕たちが僕たちであることを、誰に咎められる云われもない。
僕はただ彼と出会えて運がよかっただけで、その事実と、彼自身に、感謝するだけだ。
「僕は、いやじゃないよ」
「じゃあ、俺がいやなだけかな。俺のせいで奏の音楽が歪んで見られないかって、ちょっと気になる」
彼の気遣いに僕は笑って返した。
「それも含めて僕だから。それを超えて僕の音楽が伝わるようにするのは、僕の責任だよ」
僕の言葉に、彼は束の間きょとんとして、
「…そうだよね。奏はそう言うよね」
そう言って破顔した。
それから、僕たちは番組の内容について話し合った。
「どうせやるなら、俺たちらしいものにしたいね」
彼にそう言われて、『僕たちらしい』って何だろう、と僕は考えてみた。
彼と楽曲を共作するようになってもう十年になるけれど、仕事の作曲と違ってただ楽しくできればいいと思っていたから、あまり意識したことはなかったし、彼とそんな話をしたこともない。
けれど、僕たちの音楽の根幹にあるものは、昔から変わっていないような気がした。
「昔、悠人が言ってくれたけど、『自分でいられる』っていうことかな」
「そうだね。俺たちも、見てくれる人も、そのままでいられる…みたいな番組がいいな」
彼の言葉に僕は頷いた。
「うん。小野さんが『ニッチな感じ』って言っていたみたいに、できれば、昔の僕みたいに『流行りの音楽はなんかぴんと来ないなぁ』って人に届くような内容にしたい」
そう言いながら、頭に思い浮かんだのは、『違和感のある人を受け入れる』とか、『排除しない音楽』とか、そのような言葉だった。そして、ふと菜月の雑誌の連載、『LGBTQ+αrt』のことを思い出した。
『アート』を『音楽』に変えて、同じような趣旨で番組にできないだろうか。テレビという媒体を考えると、LGBTQ+に限らず、もっと大きなくくりにするべきかもしれないが、例えば『マイノリティと音楽』を番組の裏のテーマにして、何かを伝えられないだろうか。
僕みたいに性的マイノリティに分類されたり、障がいを持っていたり、コミュニティの中で少数派の人種、出身だったりといった、いわゆる『マイノリティ』でなくてもいい。例えば、うまく人と付き合えないとか、本当の自分がわからないとか、親や家族を好きになれないとか、きっと少なくない人たちが、『みんなと違う』部分を持っているだろう。
それを生きづらいと感じている人たちにとって、音楽はどうあるべきか。どうあってほしいか。どのような思いで音楽を届けているか。音楽を生業としているゲストに問いかけてみたらどうだろう。
もしそれが生きづらさを抱えたマイノリティの人たちに届いて、何かしらの救いになるのなら、どれだけ嬉しいだろうと思ったし、他でもない僕自身がその答えを聞いてみたかった。
もちろん、仕事としては、番組でピアノを演奏させてもらえるだけでもありがたい。けれど、もしできるなら、それを実現してみたい、そこに僕たちが出演することの意味があるんじゃないか、そんな思いが膨らんでいった。
こんなに強い気持ちが僕の中にあるなんて、自分でも少し意外だった。僕は逸る気持ちを抑えながら、スマホでWeb版の菜月の連載を彼に見せ、自分の考えを彼に伝えてみた。
彼は少し驚きながらも、
「実現したら、いい番組になると思うし、俺たちにとっても、大きな意味があると思う」
そう言って共感してくれた。けれど、不安そうな顔もしていた。
「菜月は、公表してるんだよね…」
彼の危惧は理解できる。話の流れによっては、僕のことを小野さんに話さなければならなくなるかもしれないし、それだけでなく、もっと多くの人に伝えることになるかもしれない。
その覚悟ができているかと聞かれたら、さすがに即答はできなかった。
オファーを受ける、受けないの返答は今週中に小野さんに連絡することになっている。ただピアニストとして参加するか、今話したように番組の内容を提案してみるか、それまで考えてみたい、と彼に伝えると、彼は快く頷いてくれた。
「わかってると思うけど、言っとくね。何があっても、俺は奏の味方だよ」
その笑顔に僕は安心して、たぶん僕の中でもう答えは出ているんだろうなと思った。
一晩考えて、自分の気持ちが変わらないことを確かめてから、僕は彼に連絡した。
「小野さんがどう受け取るかはわからないけど、やるだけやってみたいんだ。いいかな?」
もちろん不安はある。けれど、きっとこれは僕にとってもよい機会のような気がしていた。
菜月の連載の著者紹介を見たとき、本当は少しだけ思っていた。うらやましいな、と。
LGBTに対してもまだ偏見はたくさんあるだろうけれど、それでもその認知度は高い。それに対して、アセクシャルやアロマンティックのことを知らない人はまだまだ多いだろう。
僕も菜月のように自分自身のことを認めてあげて自由に生きていきたい。「僕は恋をしないけれど、それでも自分なりの幸せを探しているんだ」と恐れずに言ってしまいたい。「アセクシャルだ」と言えば「そうなんだ」で済むような、そんな社会になってほしい。
そのために、僕ができることをやってみたい。
「そっか。奏が決めたなら、いいと思う。あのときは言わなかったけど、小野さん、俺は信頼できると思うよ」
「付き合い、長いの?」
「あの人、顔、広いからね。昔、ドラマの番宣で知り合って、たまに誘われて飲みに行くくらい」
「それなら、安心かな。まぁ、すぐに却下されちゃうかもだけどね」
「それはそれでいいじゃん。奏の好きにやってみな」
「うん。…なんか悠人と一緒に仕事するって、不思議な感じ」
「だね」
そう言って僕たちは電話口でくすくすと笑い合った。
僕たちにとって何か新しい一歩になるような、そんな予感がしていた。
まずは、オファーを受けたいということ、そして、番組の内容について次回の打ち合わせで聞いてほしいということを、早速僕は小野さんにメールで連絡した。
翌週、同じ場所に集まって、僕の思いを小野さんに伝えた。小野さんはときおりタブレットにメモを取りながら僕の話を聞いていたけれど、僕が一通り話し終わると、
「面白いね」
そう言って、僕の言葉を咀嚼するように頷いてから、続けた。
「その手の話題はセンシティブだけど、今注目されてるし、テレビメディアでも積極的に取り扱っていくようになってる。マイノリティ向けを全面に出すと視聴者を絞ってしまうから…」
小野さんは立ち上がって、
「こんな感じかな」
言いながら、ホワイトボードに『MUSIC FOR ALL YOU(仮)』と書いた。
振り返った小野さんの顔はにんまりと笑っていて、彼と僕は顔を見合わせて頷き合った。
まずは第一歩、クリアのようだ。
小野さんは椅子に座り直して、
「でも、どうしてこのテーマにしたいと思ったの?」
と僕たちに聞いた。
僕は鞄から雑誌を取り出して、菜月の連載のページを開いて、小野さんに手渡した。
「この連載、僕たちの共通の友人が書いてるんです」
「…なるほど。でも、この二人の根拠としては、ちょっと弱いかもしれない」
どういう意味だろう、と思ったけれど、彼が補足してくれる。
「僕たちがこのテーマを扱うことを視聴者に納得させる材料がいる、ということですね」
「うん。さっきも言ったように、センシティブな内容だからね。マイノリティの気持ちがお前らにわかるのかって批判を浴びかねない」
そう言われて、彼と僕はまた顔を見合わせた。たぶん、今が話すときだろう。
僕は、大丈夫、と言うように彼に頷いて見せた。(たぶん半分は自分に言い聞かせていた。)
「…小野さんは“アセクシャル”という言葉を知っていますか?」
少しのためらいを残しながら、そう話を切り出した僕を、彼の目が少し心配そうに見ていた。その雰囲気から、真剣な話になると感じ取ったのだろう。小野さんは居住まいを正して、
「聞いたことはある、というくらいです。勉強不足ですみません」
と答えてくれた。
大丈夫。僕はもう一度心の中で唱える。この人は正直で、真摯で、自分が悪くなくても、自分より若い僕に謝ることを厭わない人だ。
すぐ隣に、彼の存在を感じる。『何があっても味方だよ』という言葉を思い出す。
見てくれる人の心に残るような、僕と同じような人の一助になるような番組を、彼と一緒に作りたい。そのために、今は小野さんを信頼して話してみるだけだ。
「アセクシャルは、LGBTQ+で言うと+の部分に含まれます。誰に対しても性的に惹かれない人、あと、明確にはアロマンティックという呼び方で区別されますが、誰に対しても恋愛的に惹かれない人も含めて使われることもあります」
まずはネットでアセクシャルと検索したらすぐに出てくるような説明を坦々と話した。それだけではうまく伝わらないような気がして、僕自身の考えも付け加える。
「異性を好きになる、同性を好きになる、身体と心の性別が異なる、等と比べて、当事者以外から見ると、いや、人によっては当事者にとっても、わかりにくい性質だと思います。アセクシャルの人は、誰にもわかってもらえない、自分でも自分のことがわからないという中で、大多数の人が恋愛をして、その相手と性行為をすることがさも当たり前とされている社会で、自分のマイノリティ性を感じながら、生きています」
話しながら、声が震えそうになったけれど、小野さんからは見えないだろう机の下で、彼の手が固く握りしめられているのを見て、僕はどうにかその次の一言をはっきりと伝えることができた。
「僕もその一人です」
小野さんは黙って聞いていた。おそらく多くの人にとっては身近ではない概念なのだろう。理解したり、想像したりするのに、時間がかかるのかもしれない。そう思いながら、僕は続けた。
「僕はこのことをごく親しい人にしか話していません。でも、もしこの番組を見てくれる人に、あと、大げさかもしれませんが、この社会に対して、何らかのメッセージになるんだったら、公表してもいいと思っています。…小野さんは、どう思われますか?」
最後に僕はそう問いかけた。小野さんは考えるように黙り込んでいたが、しばらくしてからこう切り出した。
「僕の考えを言う前に、まずは、話してくれてありがとう。僕を信頼してくれたこと、素直に嬉しく思います」
その言葉を聞いて、この人に話したことは間違っていなかったんだと僕は思えた。
「こちらこそ、突然の話で驚かせてしまったと思いますが、ありがとうございます」
そう言いながら、やっと少し緊張がとけていくのを感じた。ほっとして彼の方にちらりと目をやると、彼の表情にも安堵の色が浮かんでいた。
小野さんは、少しためらうようにしながら、言葉を続けた。
「伊東くんが言ってるのは、この番組でカミングアウトする、ということ?」
「…その方がよい番組になるなら、そうしたいです」
僕は小野さんの目を見て答えた。小野さんは僕の覚悟を受け止めるように静かに頷き返してから、今度は彼の方を向いて問いかけた。
「相沢くんは、どう思う?」
もちろん、共演者の彼の了解を得たいという意味もあるだろうけれど、小野さんが聞きたいのはそれだけではなかっただろう。もっと本質的な、例えば、それが僕の人生にとってよい方向につながるのか。それで本当に僕が後悔しないか。そこまで心配して彼の意見を聞いてくれたように、僕には感じられた。
けれど、彼の答えは簡潔だった。
「その方がよい番組になると小野さんが判断されるなら、俺は出演者として協力するだけです」
彼は僕の覚悟を理解してくれている。僕が本気で決めたことに反対したりしない。小野さんの懸念はありがたかったけれど、僕たちにとっては今更だった。
小野さんはそんな僕たちの様子を見て笑った。
「二人は、なんて言うか…、いい関係だね」
改めてそんなことを言われると、どう反応していいかわからない。困って彼の方を見ると、彼は渋い顔をして小野さんを睨んでいて、僕は笑った。
小野さんは彼の視線をものともせずに、優しい笑顔で僕にこう話してくれた。
「伊東くんのピアノも人柄も、他者に対する寛容性というか、すべてを受け入れる雰囲気があると思ってたけど、ちょっとわかったような気がするよ。偉そうな口をきいてるかもしれないけど、マイノリティであるという事実とともに生きてきたことが、きっと、伊東くんを形作ってるんだろうね」
「そう言ってもらえると嬉しいです」
僕が答えると、小野さんは姿勢を正して、冗談っぽく声のトーンを張り上げた。
「さて、そうと決まったら、僕は何が何でも企画を通さないとね。ちょっとだけ仕事がんばるわ!」
約二週間後、小野さんから僕の社用メールアドレスに、企画が通ったので正式に仕事としてオファーしたいという内容のメールが届き、そしてそのあとすぐにテレビ局の担当者から会社宛てに具体的な契約の内容について連絡があった。
僕の仕事は、番組の冒頭とエンディングで流れるテーマ曲の作曲と演奏、ゲストミュージシャンが番組で披露する楽曲の選曲とピアノアレンジ、そして番組内でのピアノ伴奏だ。
要望があれば都度連絡してほしいと書いてあったので、楽曲のアレンジについてはゲストと直接話したいこと、ピアノ伴奏についてはゲストとMCを務める彼とのトークを聞かせてもらってから演奏したいことを、メールの返信で伝えた。小野さんは快く承諾してくれた。
さらにその翌週、小野さん以外のスタッフも含めての顔合わせが行われ、全十二回の番組で毎回一組ずつ招くゲストの予定表も手渡された。
小野さんと放送作家さんは、彼と僕の意見を聞きながら、番組の構成を考えてくれた。
当初の要望どおり、僕は番組内ではピアニストに徹しさせてもらえることになった。カミングアウトについても配慮してくれて、毎回、番組のオープニングに挿入される出演者の紹介のテロップに、僕がアセクシャルかつアロマンティックを自認していると記してもらえることになった。
番組の流れとしては、オープニングのあと、ゲストを紹介するVTRを挟んで、ゲストとのトークの最初に彼が簡単に番組の趣旨を説明、あとはトークと楽曲の演奏を繰り返していく、というような構成だった。
毎回、披露する楽曲は、二曲もしくは三曲。ゲストと打ち合わせをして、その内容をもとにピアノアレンジの楽譜と録音データを作成して、ゲストや小野さんの意見を聞いて調整を繰り返す。もちろん、その合間に収録もある。
スケジュールや予算の都合上、一日に二回分の収録が行われることも多く、スケジュールはかなりタイトだった。
けれど、僕たちには届けたい思いと音楽がある。そのために大勢の人が協力して、同じ目標に向かって、一つのものを作り上げていく。その中に、彼と僕がいる。そう思うと、目が回るくらいに忙しくても、少しも苦にはならなかった。
初回の収録で、オープニングの挨拶として、彼はこのように視聴者に語り掛けた。
「この番組のピアニスト、伊東奏が性的マイノリティを自認しているように、世の中にはいわゆるマイノリティとされる様々な要因があります。けれど、そのような分類に限らず、矛盾しているように聞こえるかもしれませんが、きっと多くの人が、少数派の部分を持っているのではないでしょうか。例えば、家族を好きになれないとか、人と仲よくなるのが苦手だとか、僕で言うと、幼いころからこの世界で仕事をしているとか。他の人と違うところがある、他の人には当たり前のことが、自分には当たり前じゃない。そんな違和感を持って生きている人にも、そうでない人にも、『MUSIC FOR ALL YOU』、すべてのあなたに音楽が届きますように」
十月、初回が放送された翌日、菜月から連絡があった。
「見たよー。二人とも、かっこよかった!」
菜月には、一か月ほど前、初回の放送日時が決まった夜に、菜月の連載から着想をもらったことのお礼とともに、番組の概要と放送日時を伝えていた。
「りくが会ってみたいって言ってた」
りくというのは、春に食事をしたときに菜月が話していた、印刷会社の女の子だ。あれ以降もたまに菜月から話を聞いていて、最近は週末にデートしたりお互いの家に遊びに行ったりしているようだった。
「そうなの? 男の人、大丈夫になったんだ」
「奏はアセクだし、私の友達で、一応テレビとかYouTubeで知ってるから、リハビリにいいかなと思って」
番組の収録は半ばを迎えていて、正直あまり時間はなかった。けれど、菜月にはお礼もしたいし、二人の役に立てるならと思って、その場で週末のランチのスケジュールをあわせた。(自宅で一人でできる仕事は、睡眠時間を削ればどうにかなる。)
いつものごとく、お店は菜月がチョイスしてくれた。カジュアルなイタリアンのランチコースと聞いていたけれど、個室の席で初対面の人と向き合うとなると、やはり少し緊張した。
「初めまして、伊東奏です」
「初めまして、立山りくと申します」
「あのさー、お見合いじゃないんだからさー」
僕はこのあと仕事があったので、ひとまずノンアルコールで乾杯してから、まずお互いに軽めの自己紹介をした。
男性恐怖症のりくは当然ながら緊張していて、なおかつ僕と同じようにどちらかと言うと話下手のようだったが、そこはさすがの菜月が都度話題を振ったり補足を入れたりして、うまくフォローしてくれた。
「りくは、どうして奏に会ってみたいと思ったの?」
「えーと、私はたぶん性的マイノリティではないんですけど…」
りくは菜月と僕より一つ年下だそうで、菜月と並ぶと少しだけ背が高いように見えた。話し方や服装なんかは控えめでおとなしいような印象を受けたけれど、『リハビリ』をがんばりたいという意識があるようで、菜月や僕に不必要な遠慮はしなかった。
大学生のころに性被害に合い、今でも男性に恐怖感があって夜の駅には近寄れないこと、そのせいで家族ともぎくしゃくしてしまって両親とは距離を置いていること、印刷会社に勤めていて取引先の菜月とは顔見知りだったが、菜月のWeb連載をきっかけに親しくなり、初めて家族とカウンセラー以外の人に自分の過去を話せたこと、菜月を特別に思っていることを、りくは自分の言葉で伝えてくれた。
一通り話し終えたころ、
「今日は本当にありがとうございます」
りくは改めてそう言って僕に頭を下げた。僕は逆に恐縮してしまって、
「いや、僕はただ友達とご飯食べに来たくらいのつもりだから…」
ちょっと焦ってそう返すと、りくは笑ってくれた。
いくら僕が菜月の長年の友人で、アセクシャルであることを公表しているとは言え、初対面の男性である僕に打ち明けるのは、きっと勇気が必要だっただろう。
かつてりくを襲った理不尽な事件を考えると胸が痛んだが、今前を向こうとしているりくのために僕がするべきことは、過去を恨むことではない。ただ二人の力になりたい。
りくの笑顔と、その笑顔を隣で嬉しそうに見つめる菜月を見て、僕はそう思った。
「りくと知り合って一年半くらいになるけど、男がいる飲み会とかランチには絶対に来なかったのに、自分から奏に会ってみたいって言うんだもん。ライバル登場だよー」
「菜月ちゃん、伊東さんが困っちゃうでしょ」
りくは慌てて菜月をたしなめていたけれど、ただの絡み半分の冗談だろうから、僕は笑って聞き流す。
「ほんとに、そんなんじゃなくて、ずっと菜月ちゃんから話を聞いてたし、テレビで初めて話してるのを聞いて、素敵な人だなって思って…」
りくの言葉に、菜月がわざとらしくすねたような顔をして僕の方を見る。けれど、僕も面と向かって『素敵な人』なんて言われてしまったらどうしていいかもわからなくて、ただ苦笑するしかない。
「あの番組を見て、何て言うか、受け入れてくれてるって感じたんです。…なんか、菜月ちゃんと似てるなって」
そこで自分の話になると思わなかったのか、菜月は少し驚いたようにりくを見つめると、照れたみたいに、けれど嬉しそうに、目を伏せてはにかんだ。
そんな菜月を見て、
「こうして男の人と会ってみようって思えたのも、菜月ちゃんがいてくれるからだよ」
りくも小さな声でそう言って、控えめに微笑む。
もはや目の前で盛大にのろけられているだけなのかもしれない…。そう思いながらも、幸せそうな二人の様子に胸が温かくなって、僕はふと思い付いて提案してみた。
「もしよかったら、今度は悠人、…相沢遥も一緒にどうかな。MCの仕事は初めてみたいだったから、感想を教えてあげたら喜ぶと思うよ」
「少しずつステップアップだね。リハビリ」
菜月が元気に賛同してくれる。
「贅沢なリハビリですね」
「いや、どっちもただの私の友達だから」
二時間足らずの食事会だったけれど、りくの前向きな意志とひたむきな人柄を感じて、(あと、菜月とりくがお互いをとても大切にしていることも大いに感じられて、)僕は二人の幸せな未来を願わずにはいられなかった。
それからしばらくして、菜月が招集をかけて四人での会合も実現した。(いつもながら菜月は行動が早い。)
前回の食事会以降、りくはMUSIC FOR ALL YOUだけでなく、僕のYouTubeチャンネルも見てくれたそうで、少しぎこちないながらも彼とも笑って会話していた。(どんな内容なのかはあまり知りたくないが、菜月から彼と僕の話も聞かされていたみたいだった。)番組の収録はもう終盤に差し掛かっていたが、一視聴者からの意見を直接もらえる機会は少ないから参考になると彼も言っていたので、発案者の僕としても安心した。
その後も、月に一、二回くらいのペースで『リハビリ』は続いた。なかなか四人のスケジュールを合わせるのは難しかったから、基本は菜月とりくと僕の三人で集まり、たまに予定があえば彼も来てくれた。
当初、りくは密室で男性と自分だけになるのは難しかったようで、菜月が席を立つときは一緒についていっていた。けれどリハビリの回数を重ねていくうちに二人きりでなければ大丈夫になり、数ヶ月が経ち、彼が不在で三人で会うときは、僕と二人でももう大丈夫なようだった。
そのころには、なんと菜月とりくは半同居(同棲?)状態になっていて、幸せそうに同じ家路につく二人を僕は笑って見送った。
MUSIC FOR ALL YOUの評判は、当初はそうでもなかったが、回を重ねるごとに、じわじわと反響が広がっていったようだった。
特に、橋本航士さんがゲストの回がネットで話題になってからは、ネットテレビの登録者数や再生数が急激に増えたと言って、小野さんが喜び勇んで報告してくれた。
橋本さんは僕たちより五つほど年上で、四人組のアイドルグループに所属しながら、シンガーソングライターとしても活躍している。
家族のすすめで十代前半で芸能界に入ったが、数年して人前に立てなくなり、パニック障害と診断される。自分はステージに立てないけれど、グループのために、そして自分のために、何かをしなければと思い、それを機に本格的に音楽を学んだそうだ。
そのことがよい方向に働いたのか、徐々に表舞台に戻れるようになり、その後、自身のSNSでノンバイナリー(自分の性別を男性、女性といった枠組みに当てはめない)であることを公表、と同時にソロ活動も開始した。
そんな異色の経歴の持ち主が、番組で初めて語ったことがあった。
「もうだいぶ昔ですけど、メンバーを好きだったこともあって、今思えば、それもステージに立てなくなった一因だったかな」
相手は誰だということも含めて、詳細は語らず、言葉としてはそれだけだったが、収録の現場でもざわめきが起こるくらいだったし、SNS上でもかなりの騒ぎになったらしい。
小野さんと橋本さんは知り合いらしく、収録のあと、僕たちも飲みに行かないかと誘われた。なんだかんだで他のスタッフも加わって結構な規模の飲み会になってしまった。
「さっきの話、ほんとなの?」
少々お酒がまわってきたころ、お調子者の小野さんは遠慮せずに橋本さんをつっつく。
「小野さんの番組だから、話題作りに協力してあげたんですよ」
橋本さんは真偽のほどをあいまいにして笑った。はす向かいに座っていた僕は、冗談めかして話す橋本さんの笑顔に陰りがないかが気になって横目で伺った。
「当時はほんとに忙しくて、毎日のように一緒にいて、なんか境目がわかんなくなっちゃってたんだよね。恋だったのかもわかんない」
当たり前なのかもしれないが、恋をする人でも、自分の気持ちが恋なのか、そうでないのかがわからないことがあるんだなぁ、と何となく思って、僕は橋本さんに勝手に親近感を覚えた。
「その気持ちは、相手の方には伝えたんですか?」
僕の隣に座った彼がそう聞くと、
「…相沢くんだったら、伝える?」
橋本さんはそう彼に聞き返して、なぜか僕の方をちらりと見た。
「…たぶん伝えないと思います」
「同じだよ。そんなことしてたら、たぶん今ここにいない」
そう言って笑った橋本さんは、やっぱり僕には少し寂しそうに見えた。
気持ちを切り替えるように、橋本さんはビールのジョッキをあおって、隣の小野さんに話題を振った。
「小野さんなんてさ、野球選手から略奪してまで奥さんと結婚したんだけど、今はもう愚痴ばっかりよ」
「俺のことはいいっしょ」
二人は年の差はあれど、どうやら旧知の仲のようだった。橋本さんが小野さんの奥さんやまだ小さなお子さんの話を聞き出して、まんざらでもなさそうな小野さんを橋本さんと彼がからかって、僕はそれを眺めて笑って、楽しくお酒を飲んだ。
他のテーブルに呼ばれて、小野さんが席を立ったとき、ふと橋本さんが誰にともなく言葉をこぼすように言った。
「恋なんて、周りの状況やタイミングで盛り上がったり冷めちゃったりするし、それが本当にその人を好きってことなのかなんてわかんない。でもさ、たぶん小野さんも俺もそうだと思うけど、そこからいろいろあって、ただの人としての愛につながるときもあんのかなって思うよ」
今日の収録で共演させてもらったときも、橋本さんの歌声には、海みたいに静かに深く広く、包み込むような力があるように感じた。
けれど、今なら、もっと橋本さんの楽曲に、その歌声にふさわしい演奏ができたんじゃないかと思って、僕はちょっと残念に思った。
十二月、MUSIC FOR ALL YOUのすべての回の収録が終わり、忘年会もかねて打ち上げが行われた。
乾杯の挨拶で、番組が地上波で再放送されることが決定したと小野さんから発表され、その場は最高潮に盛り上がった。
僕の思いを受け止めて形にしてくれた小野さんを始め、よりよい番組にするべく協力してきたメンバーの楽しそうな様子を見て、僕も嬉しくなった。
彼と僕は、みんなが騒いでいる片隅で、ちびちびとお酒を飲んだ。あまり会話もなく、たまに収録の思い出話や、とりとめもないことを、ぽつりぽつりと話すくらいだった。
座敷の端、彼の隣で壁にもたれて、ときおり彼の静かな声を聞きながら、ここに彼がいてくれて、彼と一緒にこの番組に携われて、本当によかったと、改めて僕は思った。
彼がいなかったら、僕から小野さんに番組の内容を提案するようなこともなく、ただの演奏者としてこの仕事を終えていただろう。そうしたら、きっと、今ここで感じているような特別な気持ちにはなれていなかった。
僕はお酒のグラスに口を付けながら、ちらりと彼の横顔を見た。彼は僕と目が合うと、
「なんか、寂しいね」
そう言って微笑んで、グラスを傾けた。
「そうだね…」
僕はその笑顔を見つめていられなくて、遠くに目をやった。
「どの現場も、クランクアップとか千秋楽は寂しいけど…」
彼は独り言のように呟き、そこで言葉を途切れさせた。
約半年前、突然、小野さんに呼び出されてから、僕たちはたくさんの時間を共有してきた。こんなに長く彼と一緒に過ごしたのは、高校三年生の文化祭に向けて、夢中で楽曲を共作していた、あのころ以来だっただろう。
毎週顔を合わせて、同じ目標を目指して話し合って、笑い合って…。あの特別な季節を、僕は無意識に追体験していたのかもしれない。
それが、今日で終わってしまう。
あのときと違って、僕たちはもう特別な約束なんてしなくても、またいつでも一緒に音楽ができる。そんなことは、もう疑いようもないくらい、わかっている。
それなのに、やっぱりなんだが寂しくて、切なくて、終わってほしくなくて、僕は知らずつぶやいていた。
「…楽しかったね」
「うん…」
小さく頷いた彼のその静かな横顔から、すっと胸の中に伝わってくる。きっと彼も僕と同じように、心の片隅で、あのころの空気を思い、あの季節の風を感じていたのだろうと。
ふいに宴会の喧騒が遠ざかって、ピアノの音が聞こえたような気がした。僕はそっと目をつむり、僕の中の旋律に耳をすました。
頭の中でそのメロディを繰り返してから目をあけると、彼が僕の方をじっと見ていた。
「いいの、思い付いた?」
「うん。悠人に詞、書いてほしい」
「早く聞きたいな」
優しく静かな声色だった。
すぐにでも彼をここから連れ出したい。彼の声と僕のピアノの音を重ねたい。
それは紛れもなく、あのころと変わらない、抑えられない衝動のような思いだった。
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