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17.甘い夢とロールケーキ

 MUSIC FOR ALL YOUの撮影を終えてから数ヶ月が過ぎた春、俺は舞台の公演で地方のホテルに滞在していた。  終演後、翌日は夜公演だけだったから、共演者に誘われて、小雨の中、数人で飲みに行った。  個室の居酒屋の雰囲気、雨の空気、アルコールと慣れないホテルのベッド、浅い眠り。  たぶんそんないくつかの要因が重なって記憶が引き起こされたのだろう。  夢を見た。奏の夢だ。  あれはたしか大学三年生の六月だった。大学の近くの居酒屋で、奏とキスをした。学生時代のお酒の勢い。ただのノリと冗談。昔の話だ。  けれど、夢はそれだけで終わらなかった。場面は居酒屋から、あの日、奏が来なかったはずの寮の部屋に、 まだ少し幼さの残る大学生の奏は、今の奏に変わっていた。  俺はベッドの端に座る奏の手を取り、そっとその指先に口づけた。  俺の武骨な手と違って、すらりとして、けれど力強いピアニストの手。いつも美しいメロディを紡ぎ出すその指を、口に含んでしゃぶった。  頬に手を添えて、やわらかな唇をそっと親指でなぞった。ゆっくりと顔を寄せると、奏は目をつむり、従順にキスを受け入れた。  何度も口付けながら、その身体をなるべく優しくベッドに押し倒した。奏は抵抗しなかった。俺の首に腕を回し、薄く口を開けて、潤んだ目で俺を見上げだ。俺はその目に誘い込まれるように、さらに深く舌を絡ませた。  いつの間にか、二人を隔てる衣服は消え去っていた。  身体をつなげて揺さぶると、奏は苦しそうに顔を歪ませて、でも気持ちよさそうに、甘い声をあげた。その耳元に奏の名前を囁くと、奏はうわ言のように何度も俺の名前を呼んだ。  その声を聞きながら、奥に押し付けるようにして奏の中に射精すると、奏もまた身体を震わせて射精した。飛び散った精液をなぞるように、奏の肌に指先で触れた。 奏は肩で息をしながら、顔を覆った腕の隙間から、恥ずかしそうにこちらを覗いていた。その仕草が可愛くて、俺は奏に見せ付けるように、奏の精液がついた指を舌先で舐めた。  夢の中で精液の味は感じなかった。だって、現実の俺はその味を知らない。  どんな味がするんだろう。実際の奏はどんな声で鳴くんだろう。どんな風に俺を感じて、どんな顔で射精するんだろう。  奏は、何を思うんだろう。  俺の脳は持ち主の意思を無視して勝手に夢を反芻し、だめだと思っても我慢できなかった。ティッシュの準備をする気力も余裕もなく、手のひらに吐き出されたそれを見て、心の中で自嘲した。 (…末期だな…)  早朝のホテルの部屋は、空調がきいているはずなのに、肌寒かった。  出会ってから十数年、奏とセックスしたいなんて思ったことはなかった。 『本当に?』  夢の中の自分に問い詰められる。 『そう思わないようにしてただけでしょ?』  高校の文化祭の帰り道、二人乗りの自転車で奏の涙を背中に感じて、今、奏と二人きりになったら、俺はどうなるんだろう、と思ったことがある。  大学生のころ、お互いの内面を共有し合えた夜、同じベッドで眠った温もりを、何よりも心地よいと、このまま離したくないと思ったことがある。  奏のピアノに声を合わせたあと、いつもの別れ際、帰りたくないと、もっと一緒にいたいと思ったことがある。  奏にとって俺が一番であって欲しいと、奏と二人で生きていきたいと思ったことがある。  でも、だからどうだっていうんだろう。  奏を俺のものにしたいわけでも、ましてや奏と付き合ったり、恋人同士になったりしたいわけでもない。  この気持ちが何なのかなんて、そんなこと、俺自身が一番わからない。  ただ、俺が奏をそのような、いわゆる性的な行為の対象として見られてしまうということを、夢の中の自分が、自慰のあとの気怠さが、否定させてくれない。  奏を女みたいに扱いたいとは思わない。自分が男を恋愛的対象、性的対象にするとも思わない。  奏は奏だ。それ以外の何ものにもならない。  奏は俺を(奏の場合は、俺に限らずすべての人間を、だが)、恋愛的対象、性的対象として見ないし、俺は奏の意に沿わないことはしたくない。  昔、奏が俺を救ってくれたように、奏に誇れるような自分でありたいと思わせてくれたように、今でもずっと俺の支えでいてくれるように、俺も奏の支えでありたい。  ただ、奏は奏のままで、幸せでいてほしい。  それだけだ。  それだけのはずなのに。  背の低い、静かに話す、後ろの席のクラスメイト。  それが奏の第一印象だった。専攻も違ったし、それ以上の興味は特に持たなかった。  仕事を優先したかったから、単位の融通がきく私立の芸術高校を選んだ。  演劇科ではなく音楽科を受験したのは、中学二年生のころに出演させてもらった音楽劇の影響もあったが、ただの変なプライドだ。十才のころからテレビドラマや舞台演劇に出演していた俺は、今更、他の生徒の前で演技の指導を受けたり、それを見られたりしたくなかった。  音楽科には合格したが、当然ながら、周囲は小さなころから音楽に親しんでいる生徒ばかりだった。それでも侮られるのはいやだったから、学業と仕事との両立には苦労した。  一年生の夏休み前、どうにか高校生活に慣れてきたころ、例の失恋を経験した。  初恋ではなかったが、セックスしたのも、仕事以外でキスしたのも、彼女が初めてだった。秘密の関係だったし、プライドも邪魔して、誰にも話せず、ただ一人のときに泣くしかなかった。  そんな折、夏休みの真っ只中、たまたま奏のYouTubeチャンネルを見付けた。優しく包み込むようなピアノの音色に癒された。すべてを受け入れてくれるような気がした。  当時公開されていたのはまだ三曲だけだったが、取りつかれたみたいに、何度も繰り返し聞いた。チャンネルの紹介欄には、『都内在住の高校生』と書かれていた。自分と同年代の人がこれを作っていると思うと、自分もがんばろうという気持ちになれた。いったいどんな人なんだろうと思いをはせた。  二学期、作曲の課題の秀作として授業中に紹介された楽曲を聞いて、何となく耳に馴染みがあるように感じた。 (まさかね…)  楽曲のデジャヴ感なんてよくあることのような気もしたし、特に根拠もない。ただの偶然だろう。そのときは自分にそう言い聞かせてやり過ごした。  けれど、次の課題でも同様の感覚があって、そうなると、もう居ても立ってもいられなかった。授業が終わってしばらくして、教室が休み時間の空気になるのを待ってから、廊下を急ぎ歩き担当の教師を捕まえた。 「さっきの曲って、この間と同じ人ですか?」  なるべく何気なさを装って聞くようにしたが、俳優のくせに、うまく演技できていたか、自信はない。 「よくわかりましたねぇ。あんまり同じ生徒の曲を選ばないようにはしてるんですが、ついついねぇ…」 「誰が作ったのか、教えてもらうことってできますか?」 「伊東くんですよ。特に秘密にはしてないですが、一応匿名で紹介してるので、配慮はお願いしますね」  てっきり作曲専攻の誰かだろうと思ったら、思いがけない名前が返ってきて、少し驚いた。  教師の後半の言葉は、ほとんど頭の中に入ってこなかった。  それから、知らず知らずのうちに、奏のことを見てしまうようになった。  それまで気にも留めていなかったのに、よく見ると、奏は透明感のあるきれいな顔立ちをしていた。まだ幼い少年のような、それでいてどこか達観したような、そんな不思議なまなざしで教室を見ていた。  口数は少ないようだったが、暗い印象はなく、たいていいつもクラスメイトの輪の中で静かに微笑んでいた。それが強さのようにも、弱さのようにも見えて、たまに胸が締め付けられるような気持ちになった。  奏は周囲とうまく溶け込みながらも、他の人と少しだけ距離があるように俺には映った。それは、『自分は他の人とは違う』という意識が、俺と共通していたからかもしれない。けれど、俺のそれとは違って、そこに傲慢さや選民意識みたいなものはなく、どちらかというと、孤独感や諦観のようなものを身にまとっているように感じられた。  奏がピアノの全国大会の常連であることも、科目を問わず成績優秀であることも、そのころにはクラスの誰もが知っているようだった。  それなのに、なぜだろう。なぜ、どこか後ろに一歩引いたような、世界に透明な幕を張ったような、なんだか寂しくて、けれど美しい空気を感じるんだろう。  毎日、気が付くと奏の気配を探していた。なるべく目で追わないように、気を付けた。  三学期の放課後、仕事で欠席した授業の課題を提出するために、職員室に立ち寄った帰りだった。普段は立ち寄らない通路の奥から、ふと、毎日のように聞いている楽曲のメロディが耳に届いて、驚き立ち止まった。  たしか、この先には、ピアノ室がある。  恐る恐る、けれど、まるで吸い寄せられるように、通路を進んだ。  段々と音が近くなる。この部屋の中から、音が聞こえる。  ピアノ室の防音扉を見つめて、俺はごくりと唾を飲み込んだ。知らず握りしめた手には、じっとりと汗をかいていた。  当時、奏のYouTubeチャンネルは、登録者数も動画の再生数も少なかった。それでも、今思うと、まったく別の誰かがたまたま奏の楽曲を気に入って演奏している、という可能性もあったのかもしれない。  けれど、どうしてだろう。そのとき、俺にはわかった。根拠のない確信があった。  この人だ。今、この音を奏でている人が、この人の音楽が、存在が、俺を支えてくれた。救ってくれた。  きっと、このピアノ室の中にいるのは、奏だ。  俺は音を立てないように気を付けて、防音扉の小さな小窓から、そっとピアノ室の中を覗いた。  この半年間、ずっと見つめ続けた横顔が、そこにはあった。 (ああ、そうか。やっぱり、そうだったんだ…)  何に対してなのかわからないが、なんだかすごく納得した。理由もわからず、涙がこぼれそうになった。  何かが、ピアノ室のドアを越えて、心にすっと入ってくるような気がした。  通路の反対側の壁に背中を預けて、俺は目を閉じた。  ピアノの音が途切れるまで、聞き慣れたメロディに耳を傾けた。  けれど、それで何かが変わったかと言うと、そうでもなかった。  それから約一年間、俺は仕事や授業の課題で忙しい日々をすごした。受験生になる前にできるだけ仕事を入れてやろうという事務所の意図と、忙しさを理由に奏のことを後回しにしようという俺の臆病さは、見事に利害が一致した。  そんな中でも、奏のYouTubeチャンネルは欠かさずチェックしていた。新曲がアップされると、何だかそわそわして、落ち着かなかった。何回も聞きこんで、しばらく時間をおいてからコメントを残すように気を付けた。返信があると気恥ずかしくて、でも嬉しくて、そんな気持ちに戸惑った。  奏の様子を見るに、少なくともクラスメイトには、YouTubeチャンネルや自作の楽曲のことは話していないようだった。俺だけが知っているのかと思うと、教室の中で、奏と俺の間に特別な糸みたいなものが見えるような気がした。  昼休みや放課後、前の席の奏が教室を出て北校舎の方に歩いていくのを見かけると、少し時間をおいてからピアノ室の近くまで行って、耳を澄ませてみることもあった。 ときおり、奏に話しかけてみたいという衝動にかられたが、その度に思いとどまった。単に友達になりたいという気持ちとは、どこかが違うような気がして、うまく言葉にできなかった。  高校二年生の冬、事務所から来年度のスケジュールについて相談があった。受験のための配慮だったと思うが、そのときは推薦ですまそうと思っていたし、仕事の量を調整してもらえるなら…、と考えた。  奏と何かがしたい。あと一年。たぶん、今しかない。今を逃したら、後悔するかもしれない。  その思いに背中を押されて、(と言うか、もう言い訳もできなくなって、)高校三年生の春、意を決して、奏に話しかけた。  あとから思えば、半分脅しみたいだったような気もする。それでも、どうにかアプローチは実り、晴れて奏と俺は文化祭を目指して楽曲の共作に取り組むようになった。  そのころの奏は、背も高くなり(それでも俺よりは少し低かったが)、もはや小柄な少年という印象はなかった。すらっとしていて、落ち着いた雰囲気で、むしろクラスメイトや俺よりも大人びて見えたかもしれない。  ピアニストと言うと、なんとなく、繊細で神経質なイメージがあったが、奏は意外と大雑把でのんびりしているみたいだった。もちろん、音楽に関しては妥協しなかったが、だからと言って頑固になったり我を通したりはせずに、俺の意見も受け入れながらよりよい作品にしようとしてくれて、そんなところにも、俺はひそかに憧れた。  相変わらず、教室では俺たちはほとんど話さなかった。けれど、ときおり目が合ったり、休み時間にLINEでやり取りしたりすると、奏は困ったような照れたような表情をしていて、そんなときは年齢よりも幼く見えて、心がくすぐられるみたいだった。  奏のことを一つずつ知っていくのが、俺にはとても楽しかった。  夏休み、奏が俺の寮の部屋に遊びに来てくれたことがあった。  前日の仕事帰りにふと思い立って、コンビニでお気に入りのロールケーキを買って、冷蔵庫に入れておいた。あまり楽しみにしていると思われても恥ずかしかったから、コンビニスイーツくらいがちょうどよかった。  あの日、奏は俺のパソコンを使って、自分のYouTubeチャンネルで音楽のプロを目指していると実名を晒して宣言した。  『覚悟』  奏はそう言っていた。  その前の週のコンクールを最後にクラシックピアノをやめると奏から聞いていた。  幼いころから続けてきた、しかも周りから評価され、期待されていることに自ら決別し、自分の選択を信じて新しい道を歩み出すことは、容易いことではないだろう。決して振り返らず、前だけを見据え、自分の決意を世界に表明して見せた奏を、かっこいいと思った。  そして、それを俺の目の前で実行してくれたことに、少なからず意味があると思った。  この人の隣にいられる自分でありたい。  何かに突き動かされるようだった。  奏の進路を聞いて、大学の推薦を取り消してもらった。どうせ仕事が優先になるから、推薦でそこそこの大学に行ければいいと考えていたが、それではもうだめだと思った。  別に、奏と同じ大学に行きたいと思ったわけではない。堂々と奏の隣に立つために、今、自分にできることをしたい。そう思ったときに、奏の志望校の同じ学部に映像表現コースを見付けた。ここなら、と思った。  文化祭で披露した楽曲を公開すると、奏のYouTubeチャンネルの再生数は飛躍的に伸びていった。よくも悪くも、今は俺の知名度もあって騒がれている部分もあるだろう。けれど、俺には確信があった。  遅かれ早かれ、世間は奏の才能に気付く。  俺は環境と外見に恵まれているだけで、特別な才能はない。俺にできるのは、今よりももっと努力することだけだ。  たぶん、人生でこれ以上ないくらいに勉強した。受験まで、あっという間だった。  共通テストはうまくいったが、そのあとの前期試験は全く手ごたえがなくて、大袈裟でなく絶望しかけた。オーディションに落ちたときの比ではなかった。  卒業式の日、まだ合否は発表されていなくて、それでも奏とどうにかつながっていたくて、四月のあの日のように、俺は決心して奏に話しかけた。  文化祭以降、あまり会話もなかった。見知らぬ人に興味本位で話しかけられたり、 YouTubeのコメント欄で批判されたり、きっと、俺のせいで嫌な思いもしただろう。もしかしたら、もう俺と一緒になんていたくないかもしれない。  そんな不安もあったが、その一方で、きっと奏も俺と同じように思ってくれているに違いないという期待もあった。  胸の内を言葉にすると、もう思いが止まらなかった。 「俺は、また奏と音楽を作りたい」  気が付くと、奏を抱きしめていた。奏の返事を聞いても、腕の力をゆるめられなくて、変に思われるかなと頭の片隅で心配しながらも、自分でもどうしようもなかった。  ふたを開けてみると、ほとんどあきらめていた前期試験の結果はなんと合格で、俺は晴れて奏と同じ大学に進学した。  大学生になっても、奏と俺の間には、独特な距離感があった。  いつも一緒にいるわけではない。けれど、普段一緒に過ごすそれぞれの友人たちより、お互いのことを知っている。たまに二人だけで音楽をする。お互いにそれを至上の時間だと思っている。  そんな俺たちの距離を近づけてくれたのは、菜月という共通の友人の存在が大きかっただろう。  ずっと誰にも話せず、知らず知らずのうちにトラウマのようになっていた失恋の記憶を奏に聞いてもらえたのも、菜月がきっかけだった。そして、同じ夜、恋や人を好きになることについて、初めて奏の話を聞かせてもらった。  誰も恋愛的に好きにならない。誰に対しても性欲を持たない。そんな人たちがいるということを 知識としては知っていても、実際の人間の感覚として想像してみたことはなかった。  当たり前のように恋をする俺を、菜月を、周囲の人間を、奏はどのように見てきたんだろう。どのようなことを思い、感じて、生きてきたんだろう。  俺は奏の気持ちを知りたくて、奏の心に少しでも近付きたくて、いわゆるアセクシャルやアロマンティックについて、時間を見付けては少しずつ調べてみた。けれど、ネットや本で知見を増やし、当事者の手記なんかを読んでみても、正直、わかるようなわからないような気持ちになるばかりだった。  そんなある日、スマホで奏の曲を聞きながら、アロマアセク(奏みたいにアセクとアロマの両方を自認している人のことらしい)の人のブログを読んでいて、ふと思った。  もしかしたら、わからないのは当然なのかもしれない。だって、要は人の心の話なんだから。  それはもちろん開き直ったとかあきらめたとかではなくて、アセクシャルといった概念に当てはまっても、そうでなくても、人の感じ方や考え方は一人一人異なる。その人はその人でしかない。そんな当たり前のことに気付いただけだった。  もちろん、アセク、アロマについての知識は、その人に近づくためのヒントにはなるだろう。けれど、その枠組みを当てはめてその人を理解するのは、少し違うような気がする。その人を理解するには、結局、その人を知るしかない。  ただ、当事者の体験談で読んだような生きづらさを少なからず奏も感じてきたのだろうこと、あの夜、俺に打ち明けてくれたことを思うと、胸の奥が締め付けられるようだった。  そして、それと同時に、もし奏がこれからも恋をしないのであれば、奏は誰のものにもならないんだという安心感みたいなものを覚えたような気がして、そんな自分を慌てて否定した。  奏が女の子と付き合うと聞いたのは、それから数ヶ月後のことだった。  めずらしく奏の方から飲みに誘ってくれて、何事かと思って駆け付けてみたら、そんな話を聞かされた。 (なんだよ、それ…)  そう思いながらも、奏の幸せのためには応援するべきなんだろうな、という理性もまだ持っていた。  でも、少しくらい意地悪してもいいんじゃないの。  たぶんそんな思いが俺の中にあった。別にそんな権利もないのに。 「奏って、キスしたことあるの?」  その手の話題に慣れない奏をからかって、困る姿が見たかった。 「奏の初めては俺がいい」  冗談だった。(けれど、たぶん本音でもあった。)恥ずかしがったり、焦ったりする奏の反応を見て、満足するはずだった。  だから、奏からキスされるとは思わなかった。  意地悪しようとしたから、罰が当たったのかもしれない。自分でもわけがわからなくて、何も考えられなくて、衝動を抑えることができなかった。  深い口付けの合間に漏らす苦し気な声を、吐息の甘さを、潤んだ目を、溶けてしまいそうな表情を、他の誰にも渡したくないと思った。  居酒屋を出てから、俺の部屋に誘った。特に他意があったわけじゃない。ただ離れがたくて、口からついて出ただけだった。  けれど、奏は何も答えなかった。その沈黙に、言われたような気がした。  今なら冗談にできる。それで終われる。そうするべきだ。  奏は俺と同じタクシーに乗らなかった。俺はそれを安堵し、それ以外の気持ちをなかったことにした。  奏が彼女と付き合っていたのは、二ヶ月足らずだった。  その間、奏と俺は変わらずに過ごした。  彼女と別れた日、奏は俺の前で泣いた。それを嬉しいと思った。  奏の幸せを願っていたはずなのに、奏が彼女に恋しなかったことに安心していた。  大学を卒業すると、奏と会う機会は少なくなった。  同じ場所に通うことがなくなり、単純に物理的な距離が遠くなったし、お互いの生活にも変化があったから、それは自然な流れだっただろう。  奏は音楽事務所の社員として働きながら、同時に所属するミュージシャンとしても活動し、音楽だけで生活していけるようになりたいという目標を持って、日々邁進しているようだった。  俺としても、これまでは学業との両立のために敬遠しがちだった舞台の仕事にも積極的に挑戦するようになり、苦労もあったが、やりがいを感じていた。  それでも、楽曲の共作は絶やさずに続けていたし、仕事や人間関係で辛いことがあっても、そのときだけは忘れられた。  奏のそばにいると、楽に息ができる。家族や恋人よりも一緒にいて安心できる。自分が自分でいられる。  何年経っても変わらず、俺にとって、奏はそんな存在だった。  たまに余裕があれば、共作の作業のあとや菜月の誘いなんかで飲みに行くこともあった。  俺から奏に恋愛の話題をふることはなかったが、大学三年生のあの夏以来、おそらく奏は誰とも付き合っていないんだろうとは、雰囲気や菜月との会話から察せられた。  俺の方はと言うと、あまり意識してはいなかったが、昔みたいにすぐにふられて終わりになってしまうような付き合いはほとんどなくなった。  このまま、奏との距離を保って、仕事をして、恋愛をして、平穏に生活していければいいのだろう。きっと、それが、奏にとっても、俺にとっても、二人の最良の関係なんだろう。  何となく、そんな風に思い始めていた、そんな折だった。  もう何年振りだろうか。どうやら、奏が誰かと付き合っているらしい。そんな気配を感じ取ってしまった。  俺の中の平穏は、もろくも崩れ去っていった。静かな崩壊だった。  きっと何かしらの思いがあって、奏はそれを選択したのだろう。奏が自分の意思で前に進もうとしている。それなら俺はただ見守るだけだ。俺は奏の幸せを願っている。その気持ちに嘘はない。  けれど、たしかにそう思うのと同時に、胸の内に別の何かが渦巻くのも否定できなかった。黒い靄がかかったようなその感情をなるべく見ないようにして、日々をやり過ごした。  それが直接の原因ではなかったかもしれないが、しばらくして、三年くらい付き合っていた彼女にふられた。  別れる直前だったと思う。俺が出演したドラマがたまたまオンエアされていて、恋人に『愛してる』と言うシーンがあった。 「このセリフ、苦手でしょ」  彼女もまた俳優だったから、わかってしまったのかもしれない。たしかに、俺はそのシーンをうまく飲み込めていなかった。見事に言い当てられて、俺は苦笑した。  たぶん、俺にとって、『愛してる』と『恋してる』は違う。何が、と言われると自分でもよくわからないが、少なくとも、このシーンでのこのセリフには、違和感があった。  彼女と別れてから、そのドラマの最終回を今度は一人で見た。主人公の男女は、お互いに恋をして、幸せになる。まるで、それが唯一の正しい愛であるかのように。一種、盲目的に。  それも確かに愛と呼べるだろう。けれど、どこで聞いたんだろう。まどろみの中のおぼろげな記憶がふとよみがえった。 『好きな人が自分を好きになってくれなくても、ただ自分がその人を好きでいればいい』  俺には、それが人を愛するということのような気がした。  それから半年くらいして、昨年のちょうど今くらいの季節だった。久しぶりの共作の作業のあと、奏に飲みに誘われた。  電話をもらったときから、きっと何かがあったんだろうな、と察してはいた。  いつもは飲まないようなアルコール度数の高いカクテルに頬を染めて、 「もう恋や結婚のためにがんばらなくていい」  そう言って笑う奏を見ていられなくて、俺は奏の身体を抱きしめた。  奏は、一人で生きていくと決めたのだろうか。  もがき、傷付き、それでも前を見ている奏に寄り添ってあげたいと思うのは、傲慢だろうか。  彼女と模索した『恋じゃなくても一緒に生きる道』とは、奏にとって、どんな意味を持っていたんだろうか。  恋という条件がなくても、ともに生きて、お互いが幸せになれる道が、奏の中にあったのだろうか。  だとすれば、それなら、その相手は、例えば…。 「俺じゃ、だめなの?」  恋でも、恋じゃなくてもいい。奏を一人にしたくない。俺が奏のそばにいたい。奏がそれでいいよと言ってくれるなら、奏が幸せになれるなら、他の何を捨てても俺は奏を選びたい。  けれど、奏はかたくなに頷かなかった。 「今のままの僕たちでいよう」  小さな声で、奏は俺にそう言った。まるで、何かをこわがっているみたいに。  怖がらなくていいよ。そう言って抱きしめてやりたかったのに、できなかった。  言葉や約束はいらない。ただ、お互いにお互いを一番好きでいればいい。今はそれでいい。  奏の言葉に、俺は笑顔を返すしかなかった。  音楽番組で奏と共演することになったのは、それから数ヶ月後のことだった。  久しぶりに奏と多くの時間を共有した。同じものを見て過ごす日々は楽しく、あの高校三年生の半年間を彷彿させた。けれど、一方で、相反するような思いも感じていた。  俺以外の人のために演奏される奏のピアノ。それを間近に聞いて、その横顔を見つめて、改めて思った。奏は、強く、美しい。一人でも、誰かの力になるべく、前を向いている。そして、実際にそれに救われている人が、画面の向こうに無数にいるだろう。りくのように。かつての俺のように。  もちろん、それが嬉しくないわけではない。誇らしくもある。ただ、どうしてだろう、少しだけ寂しいような、苦しいような気持ちになるのは。  番組の放送が開始されると、雑誌のインタビューや現場の世間話で、奏の話題をふられることが多くなった。  学生時代はどんなだったの? 私はあの曲が好きだなぁ。この間のコンサートは行った? 今度、あのアーティストとコラボするんだってね。普段、二人で飲みに行ったりするの?  正直、ほっといてくれと思った。  直接関係のない人に奏のことを聞かれるのも、奏以外の人から奏のことを聞かされるのも、たまらなく不愉快で、いやだった。  起きるには、まだ早い時間だった。  寝直そうと思ったが、どうにも目がさえて眠れそうにもない。早々にあきらめて、さっとシャワーを浴びて着替えてはみたものの、テレビをつけてみてもスマホを見てみても、なんだか落ち着かない。  あまり食欲はなかったが、このまま部屋に閉じこもっているよりはと思い、朝食を買いにホテル内のコンビニに向かった。  店内を何とはなしに見回っていたら、あのロールケーキが目に入った。高校生のころ、気に入ってよく買っていた。あの夏の日、俺の部屋で奏と一緒に食べた。そして、文化祭の日の夜、奏を思いながら一人で食べた。…そんな記憶がよみがえった。  少し迷ったが、俺はそれを一つ手に取って、温かい缶コーヒーとともにレジに持って行った。当時とパッケージが変わっていることに、歳月の流れを感じた。   部屋に戻って、つけっぱなしのテレビを視界に映しながら、甘いロールケーキと苦いコーヒーを交互に口に運んだ。  最後に奏に会ったのは、いつだっただろう。  MUSIC FOR ALL YOUのあと、俺はすぐに舞台の稽古に入ったし、奏も番組のおかげで仕事が増えたと笑っていた。たしか、その話を聞いたのは、まだ寒い季節。菜月とりくと一緒に食事をしたときだったっけ。  今までだって、これくらいの期間、会わないことなんて、いくらでもあった。なのに、ずいぶん前のような気がする。  奏を遠くに感じる。きっと、会う頻度や距離じゃない。  去年、彼女と別れて以来、忙しさもあって、何となく次の彼女を作るような気にもなれなかった。いつからだろう。一人が寂しいという思いより、人と付き合う面倒さを感じるようになったのは。  自分が本当に欲しいのは何だろう。わからなくて、うまく歌詞もかけなくて、番組の打ち上げで話していた楽曲は、まだ完成していない。  ロールケーキは、いつの間にか食べ終わっていた。久しぶりに食べたからだろうか。なんだか、懐かしい味がした。でも、昔、奏と一緒に食べたときはもっとおいしかったような気もした。  それは、自分が大人になったからだろうか。また誰かと一緒に食べたら、違うんだろうか。  冷めたコーヒーをすすりながら、そんなことをぼんやりと思った。

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